2008年4月10日木曜日

宇宙の戦士

 連日四コマ漫画というのもどうかと思われたものですから、ここで箸休め、『宇宙の戦士』について書いてみようと思います。1959年に発表され、古典SFとして認知されているこの小説について私が知っていたことといったら、『ガンダム』におけるモビルスーツの発想の下地にこれがあったということぐらいで、ええ、中身についてはついぞ知らずにいたのですね。けれど、いつか読んでみたいなあとは思っていた。その機会をうかがって、煮え切らないままずっと先送りにしていたのですが、少し前にyujirocketsさんがこの本について書いていらしたのを読んで、ついに読もうかという気持ちになったのでした。

読んでみた感想は、これがSFとはにわかには思われないというものでした。宇宙船がある、パワード・スーツもある、戦場は地球を遠く離れた惑星で、敵にしてもなんだかよくわからないおっかなそうな奴らだ。ここまで条件が揃っているというのに、私にはやっぱりこれをSFという感じでは読めずにいたんですね。それは、おそらくは、私があまりにSF的なガジェットを用いたものに触れすぎているからで、例えば漫画、ラノベにもロボットや異星人の出てくるようなものはあるけれど、それをSFとしては読むことがないように、SF古典である『宇宙の戦士』もSFとは感じず読んでしまっているのでしょう。それだけ時代が進んでしまったのか、あるいは中毒、麻痺してしまっているだけなのか、『宇宙の戦士』くらいの描写なら特にSFと意識しないよになってしまっているのですね。

じゃあ、私にとって『宇宙の戦士』とはどういう小説なのかと問われると、軍ものと答えるしかなさそうです。なんだか気の抜けた理由 — 、友達が入るからってな薄弱な理由でもって、その気もないのに軍に志願して機動歩兵になってしまうようなおっちょこちょいが主人公です。そしてそれからが素晴らしい。ちょっとその描写は多すぎるんじゃないかと思ってしまうくらいに充実した新兵訓練所での生活、訓練と訓練と訓練と挫折と実戦を経て、一人前の兵になる。これをもって二等兵小説というのでしょう。ですが、そうした小説に触れる機会をもはや持たない今の日本人にとっては、こうしたものも新鮮と映るでしょう。ええ、新鮮でした。まさかこれが宇宙版FMJであるとは思ってもいませんでした。

そして、これが結構感銘を与えてくれるものだから困りました。特に私にはデュボワ中佐、歴史と道徳哲学の教師の道徳について述べるところなど実に思うところ多く、率直なところをいいますと、強烈に共感するところがあるのですね。実は私は、もうずっと前からですけど、コミュニティは、そのコミュニティに対し貢献しない成員をいかに扱うべきなんだろうかって思ってきて、いや別に積極的に排除すべきだなんて思ってはいないのですが、しかしあるコミュニティないしソサエティにおいて、インフラであるや福祉であるやを利用するが、その対価を支払わない成員がいる場合、いったいそうしたものをいかに扱えばいいのか、どう評価すべきなのかということを考えていたのですね。

私がこういうことを考えるようになったのは、学生時代に読んだ『ソクラテスの弁明・クリトン』があって、特に『クリトン』ですね。死刑を前に逃げることを勧めるクリトンに対し、ソクラテスの答えたこと。それは、コミュニティ・ソサエティの成員であるということの意味を私に突きつけて、得るものだけ得て、返すことをしない。なんらの貢献もしないということの罪悪を思うようになったのですね。

と、ここで歴史と道徳哲学に戻りましょう。教師はいうのです。法を守るということ、法を破ったものに対して課さねばならないこと、価値を決定するものはなにかということ、そして権利や自由に対するものについて。ある種極端な言説で、議論においては打ち負かされるべく用意された側を向こうにしての一方的な物言いで、これらの押し付けと感じさせる感触については嫌う人もいるかも知れません。ですがそれでも一理あると思ってしまった、それは私の本心であり、そして危険なところであるかも知れないと思っています。これら言説は、ある種ポピュリズムの色も持っていると感じますから。それでもあえて、彼らのいわんとするところを一度は引き受けて考えてみなければならないのではないか、そういう思いがしたのです。

そして、こうした言説を支えるものについて考える必要もあると思うのですね。私はこの物語を読んで、非常に父権的なものを感じたのですが、ええと、日記から抜き書きしてみましょう。

『宇宙の戦士』読み終える。軍隊生活を通じて描かれる父なるものと子の物語とでもいうべきか。父とは親である父であり、軍曹であり、士官であり、軍そのものであり、そして国家であるのだろう。彼らは軍に所属する過程で、兵を同胞として家族として、軍を家として故郷として、いわば生まれかわるようにして、それら諸々と一体化するのだろう。自身が国家の礎であり、国家が自分そのものとなる。自分もそういう場に置かれれば、そういう意識を持つのだろう。それはこの物語を読み、少なからず心を情を動かされたことからも容易にわかる。惹かれるものがあった。それがすべての答であろう。

これは、父により子が承認され、一人前の男となるという話であったといってもいいのだと思うのです。正直、べたすぎるテーマだと思います。ですが、こうした価値観は実際に存在している、今も、アメリカといわずどこにもあって、しかしこれほど強烈なものは日本にはちょっとないのではないかとも思われて、父とは国家であり、軍であり、士官であり、軍曹であり、そして子供というのは自分の権利こそは言い募るがなすべきことをなそうとしない者たち — 、投票権を持たない民間人(この物語世界においては、軍に入らないことには市民権が与えられず、ともない投票権を得ることもできない)であるのからして、社会の成員に対する要求の度合いが半端ではない。それは軍という家族、故郷をともにする同胞への信頼への異常な傾きあってのことなのだろうか。疑問に思うほどです。しかしそんな疑問を上回って感じられるものは、父権的なものが承認を与え、承認されたものがまた父として子を承認するという、循環でした。そして、この循環が、この世界における理想化された軍や社会、国家を駆動させ、いわばそれらを閉じた循環の中に囲い込んでしまう — 、そのような印象が残ったのでした。

読み終えて、違和感と不健全を思い、しかしそれでもそうした父権の循環を信じきれるなら、それもまたユートピアなのではないかと思いました。私にとっての理想郷ではないけれど、こうした理想を必要とする人たちはあるのだと思ったといったほうがいいんじゃないかと思います。

付記

この小説において軍が理想化されているというのは、ある意味ハインラインが軍も理想的ではないと理解していたため、そういうように描こうとしたんじゃないかなと思ったのでした。軍への失望は、キャンプから脱走し民間人を殺害したディリンジャーに濃厚に現れているように感じられ、そして軍はそうした分子を徹底的に排除し、市民権を与えないようにすることで純化されるという、そういう理想的軍のイメージがあったんじゃないかと思うところがありました。

本当のところはわかりません。わかっていることは、ハインラインの思い描いたように歴史は進まず、限定的な暴力の行使は今もやむことなく続いている、それこそズイム軍曹がヘンドリックに答えたように、抑制され、目的を持った暴力が続いているという現実があるということであり、そしてここで考えなければならないのは、そうした暴力はどうしても必要なものであるのかということなのではないかと思います。そしてそれを棄てることができないとなった時、行使してよい場合とはいかなる状況であるか、これが常に最大の問題となるのだと思います。

  • ハインライン,ロバート・A『宇宙の戦士』矢野徹訳 (ハヤカワ文庫 SF ) 東京:早川書房,1979年。

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2 件のコメント:

匿名 さんのコメント...

コメントしようと思っててなかなか出来なかったのですが、一段落したので...。
SF と言うのはもともと宇宙船であるとか未来の描写であるとかそう言うのはガジェットとしてあるのであって、ある一定の素地を作るためにあるのだと思うのです。その素地、設定の元で人間がどういう行動、心理的な変化を見せるのかを書く事。それが SF の SF たる所以ではないでしょうか?。

私自身ここんとこハインラインを読み返していて、「愛に時間を」「落日の彼方に向けて」「悪徳なんてこわくない」なんて何回も読んだのに読み直しているんですが、物語の骨子となる部分はやはり人間ドラマにあるのだと言う気が強くしています。

「宇宙の戦士」に関してはある意味でみんなハインラインにいっぱい食わされている、そういうところもあるんじゃないでしょうか?。戦争に対しての美化された部分のある描写に関してもハインライン自身は批判されるのをあらかじめ知っていて敢えて書いたのだろうとそんな気がしています。

戦争と言う限りなく悲しい行為を行うための組織である軍隊の中にもある「良い」部分をある角度から切って見せたのでは?、と思います。日本でも昔のある時期にはそういう事もあったのだろうなと、そんな気がしています。

外していたらごめんなさい。

matsuyuki さんのコメント...

風邪やら体調不良やらで、今日までのばしのばしにしてしまいました。

yujirocketsさんのおっしゃる、ハインラインの『宇宙の戦士』にこめた思いというのは、残念ながらこれでしかハインラインを知らない私には計れない部分なのですよ。ただ、この話から感じられるものは、戦争の物語であり、帰属する社会との関係を描いたものでありながら、その実は父と子の物語なのだろうというものでした。単純に父と子をというわけではなく、社会における偉大な父なるものとの契約とでも申しましょうか、ある種の敬虔さがあったように思います。

実際、ちょっと感動的でしたもの。まさしく小説という媒体ならではの見せ方があったと思います。なんと、そうだったのか! そう思わせる瞬間が後半にいくつも用意されていて、思わずにやりとさせられる。賛否両論あったとは聞きますが、けれど読めば間違いなく面白い本であると思います。