『パティシエール!』の野広実由が『まんがくらぶオリジナル』で連載している漫画、『うちの姉様』が単行本になって出るという話を聞いて、実はちょっと楽しみにしていました。私は竹書房の雑誌は買っていないので、これが初読となるわけですが、面白いのかなあ、どうなんだろう、ちょっとの不安とそれから期待をともに読みはじめて、そうしたら面白いではないですか。東大に通う優秀なお嬢さん、日高涼音がヒロイン。彼女には小学生の弟と妹がいて、だからあねさま、であるのでしょう。しかし、このお姉さんが極端にマイペースで、ある意味豪快、少々無神経、けれど魅力的。実によい感じでありまして、しかし味のあるキャラクターだなあ、そう思っていたらなんとモデルがいらっしゃるらしい。わお、世の中はすごいな、希望が湧いてきたぞ。
モデルがあるためでしょうか、涼音はわりと常識の範疇に留まっていて、というのは人間離れしたような描写がないということをいっているのですが、現実にありうる程度の変人度合い、とはいえ、あんまり身近にはいないタイプかも知れませんね。でも、Suica(関西ではPiTaPa)をカバンごと使う人はいます。朝の通勤で一緒になるおじさんが、自動改札にヴィトンのセカンドバッグをどしっとのせて通ってゆかれる。けど、あれを見て、変わった人だなあではなく、いかすなあ、と思う私もたいがい変わりものなのかも知れません。
涼音が変わりものと感じられるのは、涼音が自分にとっての効率や快適を求めるその際に、いわゆる世間や世の中の規範というものを意識しないという、そこに理由があるのだと思われます。普通なら、人目を気にしてそうはしない。たとえ自分にとっての快適がすぐそこにあったとしても、ぐっと我慢をしてしまう。ところが、涼音は躊躇なく、自分の都合を優先させてしまうのですね。はたしてそれを傍若無人、自分勝手ととるか、あるいは自由闊達、天衣無縫と見るか、そのとりようで評価はいかようにも変わってしまう、そんな人だと思います。そして私はこの人については、その自然体がよいなと思って、ええ、こういう感じの人、好きなんですよね。
涼音の自在な性格は、おそらくそれだけではそれほどに際立つことはなかっただろう、そんな風に思うのは、彼女の弟、妹である倫、るるの存在があるからこそ、その魅力が発揮されていると感じるからです。倫は小学二年生、るるは一年生、そうした年少の子らの方が常識をわきまえているところがある。そう、大学二年生の姉の方が子供以上に奔放であるのですから面白い。枠にはまらず、自分の思うままに振る舞う、そうしたスタイルは本来なら子供のらしさといわれるところであるのに、この漫画では子供が大人の分別を持って、年長者をたしなめる側にまわるのですね。ゆえに、涼音のフリーダムさはより一層に強調されることとなって、ともないその魅力もぐっと引き出されるといった具合であるのです。
さて、その涼音に恋慕する男、遠野が問題であります。あからさまに涼音に興味ありありなのに、涼音を前にすると、お前なんかなんとも思ってねーよ、といわんばかりに、おかしな態度をとってしまう。その姿は、最近の言葉でいえばツンデレ、けどスタイルとしては小学生の男子よの。まあ、ああした行動をとってしまう人は大人にも一定数あるというのは周知のことで、たまさか本日公開された「その愛情表現だと嫌われる」なんかはまさしくその典型であります。だから、遠野君は『理系のための恋愛論』を読むといいよ。なんて思ったりして、しかしこの遠野君にもモデルがあるというんですね。わお、これも驚きだ。けど、特にめずらしくないタイプともいえるような……。理系というか、オタクに多いタイプにも思えます。
遠野は数学科かと思ったら、実験とかしてるから物理なのかも。でもまあ二年生だからまだ前期課程なのか。名前が理一だから、理Iなのかななどと思ったりして、もし今後大学のことが描かれるなら、涼音とは違う学科に進んでいくのかも知れませんね。ヒロイン涼音はというと、宇宙の勉強しているとかいってたから宇宙物理あたりに進むんでしょうか。もしそうだとしたら、卒業後にはリコーダー奏者を目指すといいと思います。いやね、私の知人のリコーダー奏者は京大の宇宙物理を出てるのだそうで、だからきっと涼音も素質ありです。先生の持ちネタである救急車のサイレンは、ドップラー効果もついていて、秀逸。涼音さんもいずれはそうした域に逹していただきたいものだ、なんていい加減なこといっています。しかしあの先生も面白く魅力的な方でした。こうした先行事例を見ても、フリーダムな人の素晴しさというものがわかろうもの。涼音さんも、その魅力をよりいっそうに磨いていただきたいものだ、そんなこと思ってます。
- 野広実由『うちの姉様』第1巻 (バンブー・コミックス) 東京:小学館,2009年。
- 以下続刊
佐々木倫子の新作はテレビ局を舞台にしたものらしい、というのは聞いてはいたのですが、具体的にどういうものかはまったく知らず、そうしたら本日ですか? 単行本が出ていました。タイトルは『チャンネルはそのまま!』。北海道の地方局に入社したお嬢さんが主人公のコメディで、実に佐々木倫子らしい漫画であります。憎めない変わりものが常識人を振り回す、そうした構図は名作『
出会った当初にはその価値がわからなかったものの、後に好きになってしまうということは往々にあります。例えばそれは『
『はずむ!おじょうさま』をはじめて読んだ時、それはそれは当惑したものでした。ヒロインは名家のお嬢様はずむ、少々浮世離れしたお嬢さんであるのですが、もしそれだけなら当惑するようなことはなかったはず。そう、特異な設定があったのです。それは、ドキドキすると胸の谷間に物が挟まってしまう呪いがかかっているという……。頭を抱えるような馬鹿さ加減であります。当時、きらら系列誌ではちょいエロが流行していた、そんな背景があったとはいえ、それはいくらなんでも無茶すぎるだろう。エロとしては直球だし、正直なところいいますと、あんまり露骨にエロを押し出されても困ります。そんなわけで、最初はあまり乗り気ではなかったんです。ですが、それがいつしか楽しみに思えるようになって、それはいったいなにが変わったというのでしょう。
今日という日を心待ちにしていました。『キルミーベイベー』の発売日。これ、英語タイトルは Baby, please kill me. いや、もう、本当にプリーズ・キル・ミーですよ。以前、ゲームを作っている会社の人がいっていたんですが、女の子に殺されたいですって。それ聞いて私はうんうんってうなずきましてね、ええ、本当にそんな感じでキル・ミー・ベイベーであります。しかし、この、四コマ漫画には、それもKRレーベルには一見似つかわしくない物騒なタイトル、一体どうしたことかといいますと、ヒロインのうちのひとりがなんと殺し屋であるというんです。普通に学校に通ってきている女の子、それが実は殺し屋。このナンセンス極まりない設定にたまげますが、その殺し屋であるという女の子、ソーニャちゃん、この娘が最高です。殺し屋やってるというだけあってクールな美少女、さらに金髪、碧眼ときましたよ。そりゃもう、キル・ミー・ベイビー! 我を失ってしまうってなものです。
パオロ・マッツァリーノが、新刊出てるよ、っていうものですから、こないだ買いにいったら、どこに置かれているか全然わからなくって、しかたないから蔵書検索を使ってみたんですが、そうしたら入荷はしたけどまだ整理してないっていうんです。カウンターで調べてもらったところ、まだ棚に並べていないようでして、ええーっ、出直しですか。でもまあ、仕事の帰りについでに寄れる場所だから、いいか。かくして本日、再びいってまいりました。狙いは『日本列島プチ改造論』。以前、
『クロてん』の作者豊田アキヒロは、『まんがホーム』にて『てんたま。』を連載している作家です。私は、この人が他で描いているというのに全然気付かずにいて、もし教えてもらわなければ、見過ごしにしてしまったかも知れません。あぶないところでした。感謝しています。といったわけで、買ってきました、『クロてん』。内容はまったく知らないまま、背表紙の作者の名前を頼りに探していたところ、なんと帯で作者名が隠されていて、ふー、またまたあぶなかった。漫画を、タイトルではなく作者で探すことも多い私にとっては、非常に見逃がしやすい仕様でありました。購入は公式の発売日である23日。この点、大阪はまだ恵まれています。雑誌も単行本もたいてい発売日には入手できる。単なる地理的優位かも知れませんけどね。でも入手可能性の高さ — 、限定ものでも足で探せば新品入手ができるという、微妙に都会で微妙に地方都市という、この曖昧性が素晴らしい土地であります。

『
この間から、ちょっと真面目に音楽に取り組もう、そんな気分になっています。具体的にはサクソフォンなのですが、
昨年末からサックス吹きに復帰して、よしここは見聞を広めよう、これまであまり聴いてこなかったジャズサックスも聴くことにしよう、仕事帰りにCD店に寄ったのでした。しかし、ジャズのコーナーはどこだろう。店内をさまよいながらCD物色していたらですよ、なんかすごいの見付けました。それは10CDのボックス、価格は1680円。安っ! 見ればジャンゴ・ラインハルトやらアストル・ピアソラやらルイ・アームストロングやら、ビッグネームが並んでいて、うわ、ちょっと欲しいぞ。けど今日はサックスのCD買いにきたんであって、ギターもバンドネオンもトランペットもお呼びでない。とかいいながら、安さには抗えませんでした。買っちゃいました、ジャンゴ・ラインハルト、それからピアソラ。いやあラッキーだったなあ。久しぶりの大量購入に、なんだかわくわくしてくるのでした。

『
去年からずっと見たいと思ってきた映画、『誰が為に鐘は鳴る』のDVDを購入しました。買ったのは、いわゆる500円DVDというやつで、つまり著作権の保護期間が終わった作品というわけですね。古い映画です。制作年は1943年、アメリカの映画。原作はアーネスト・ヘミングウェイの大ヒットした小説らしいのですが、そちらはちょいとわかりません。機会があれば読んでみてもいいかもなんて思いますが、読みたくて買ったのにまだ読めてないものが、山になって積みあがっている現状をみると、よほどのことがないかぎり、読むことはないんじゃないかなと思います。けれど、映画は見たいと思っていた、その理由というのは、非常にばかばかしいものでありました。
山田まりおの漫画では『
書店にいって、谷川史子の新刊を見付けて、そうなればもう買わないではいられない。私は、谷川史子のファンなんですよ。学生のころ、別の漫画目当てに買っていた雑誌にこの人の漫画が載っていて、それがどうにも気になりましてね、『
『キミとボクをつなぐもの』は、ご存じ荒井チェリーが『まんがタイムきららフォワード』にて連載していた漫画であります。芳文社では主に四コマを描いている作者ですが、これは掲載誌の関係もあって、コマ割り漫画でありました。連載の開始されたのは2006年。二年近くかかって完結した、こうして振り返ると意外に息の長い連載であったのですね。内容は、当時の流行を受けたのでしょうか、生まれ変わりものです。ひょんなことから前世の記憶を取り戻してしまった美少女浅川真雪が主人公伊達朝陽に迫ります。といっても、特段オカルトに走るわけでもなく、というか、作者はそちらの方面に関しては割と冷淡な感じであるから面白い。物語の都合から生まれ変わりは肯定されてしまうのだけど、序盤においてはやれくだらないだ、やれおかしいだ、おそらくは作者の地が出ていて、そうしたリアリスト的視点と少しオカルトな物語が、融和するでもなく進んで、なんとなく混ざり合って解決した。そのような構造が、煮え切らないといえば煮え切らない、けれどその曖昧性もまたこの人の味なのかも知れないと思われるラストでありました。
佐野妙は私にとっては『
世間は不況だ、ものが売れないだとかいわれています。このままじゃデフレスパイラルに陥るぞ、とにかく今は消費を増やさないといけない、そういわれているのに、消費が増える気配はちょっとありません。ということは、この先にはやっぱりデフレスパイラルが待っているというのでしょう、いやだなあ。そう思ったものですから、ちょっと頑張って経済に貢献してきました。楽器、買ったのですよ。ソプラノサクソフォン。ほら、あの
昨日、
『
今日はまんがタイムコミックスの発売日、というわけで、今日まで漫画の話をしないようにしてきたのでした。一年最初の漫画の話題はこちらです、ってやりたかったんです。しかし、なぜそこまで四コマに、しかもまんがタイム系にこだわるのか、って感じですが、まあ、私の四コマの入り口がまんがタイム系だったから、なんでしょうかね。
去年の末に
音楽をやっていて実感するのは、楽譜の大切さであろうかと思います。確かに、必要にせまられて耳コピーをすることもあるけれど、曲のつくりなどをしっかり把握したいという場合は、やっぱり楽譜にあたらないといけない。意外と、歌いやすいよう、やりやすいように変えて採ってしまっていることがあるんですよね。楽譜を見てわかること、そういうことは非常に多い。楽譜に向きあって、書かれているように歌う、演奏するということの難しさを実感するとともに、なんと、こういう趣向、仕掛けがござったか、と舌を巻く。いやあ、本当、楽譜大事。そういえば、昔、私の師匠にもいわれたものです。楽器は最悪なんとかなる、とにかく楽譜だけは忘れるなって。特に日頃使っている楽譜、書き込みをともに育ててきたものなら、その価値ははかり知れないものがあって、本当に楽譜というものの大切さは取り組むほどに実感されるように思います。
昨日、少し触れました『
昨年末に会ったイタリア人の悩みとは、日本のコーヒーがおいしくないというものでした。彼はその妻とフランス語で会話するのだそうですが、その妻のレポートするところによれば、オ・ドゥ・ショセットといって文句をいうらしい。オ・ドゥ・ショセット(eau de chaussettes)ってなにかというと、eauは水、chaussettesは靴下、靴下しぼった水っていう意味らしい。ヨーロッパ人のセンスっていかしてるわ、私はこの悪口をいたく気にいったのですが、確かに日本で飲むコーヒーはヨーロッパで飲むコーヒーとは違う、それくらいは私にだってわかります。
昨年の末、恩人の連絡先を見つけようと、古い年賀状をここ十年ほど遡ってみる機会を持って、しかし、それは思いの外に切ない作業となりました。端書をめくるその途中に見付ける懐しい名前。それは昔の友人であり、恩師であり、皆さん、今はいかがなされているのだろう、そうした思いに少し微笑みなどして、そして鬼籍に入った人からの年賀状 — 。ああ、この人はもう私たちの住まう岸にはいらっしゃらないのだ。旅立たれて数年が過ぎて、得難い人、類縁の者、そのかけがえのなさに思い至り、少し寂しさ、悲しさを胸に抱いたのでした。
