『百舌谷さん逆上する』第1巻が出た時は、私の心はもうその先に進んでしまっていたから、その思いを抑えるのに四苦八苦して、そして今日、『百舌谷さん』の第2巻が出て、それで書こうと思っているところであるというのに、やはり私の心はその先に進んでしまっているから、胸中に渦巻きさざめくもろもろを言葉にすることができず、どうもこうもない、そんな気持ちで七転八倒です。いや、もう、すばらしいんです。ヨーゼフ・ツンデレ博士型双極性パーソナリティ障害を抱える少女の物語。誰しも自分の心を持て余すことはあるけれど、ヒロイン百舌谷小音においては常人の域を超えています。それは他でもなく障害のためであるのですが、人との関係において過激に過敏に反応し、極端に振れてしまう彼女の問題が、こんなにも私の心をえぐるように感じられるのはなぜなのでしょう。彼女の戸惑いはひと事のようには思えない、彼女の悲しみ、辛さがまるで自分のなかに流れ込んでくるようで、もうたまらなくてたまらなくて、篠房六郎は本当にすばらしいな、そうした思いで一杯です。
第1巻が出た時は、本当の面白さはこの先にあるのに、そう思ったものでした。今、第2巻を読んでみて、第1巻は単なる導入、第2巻はその先の展開を準備するための女装、じゃなくて、助走期間に過ぎなかったのではないか、そんな思いにとらわれています。物語られることごとが、次へ次へと引き継がれ、発展していく、その様子があまりに見事なものだから、ぐいぐいと引き込まれてしまって、今読んでいるそこがピーク、いや次号こそがピークであろうと思ってしまうのです。
とはいえ、先を語ってしまっては、まだ読んでいない人に申し訳がたたない。というか、この漫画こそは予備知識なしに、いきなり読んでもらいたい、そんな風に思って、というのは、展開の意外性、そいつも楽しみのひとつだと思うからなのですね。基本は、お嬢さんがぱっとしない少年を(合意の上で)いたぶる、ちょいヴァイオレンスコメディである漫画。そこにひねくれてしまったお嬢さんの心情がオーバーラップしてくるのですが、コメディタッチとシリアスの間をいったりきたりする、その落差がものすごく、そして毎回の終わりには、早く次号を読みたいと思わせる、そんなシーンが用意されているのですね。解決は先延ばしされて、それはまさにサスペンド状態。実際、私は今まさに宙吊りにされるかのような感覚を味わわされていて、一体このストーリーはどこに着地するのだろうか、そもそも着地はいつになるのか。先が見えない状況で、見えない展開に怯えてみたり、期待してみたり、そうした楽しみを奪うことなんて、私には到底できそうにありません。
だから、私はちょっとだけ、匂わせておきたいと思います。篠房六郎はいつだって、私の心に直に届くような、そんな台詞をぶつけてきて、それはそれはしびれるのですが、例えば他人を演じることで自分に向きあうこととなったシーンなどは、小生思わずむせび泣き。ドMに関する独自理論も、散々笑って、しかしその心意気とはどれほどに気高いものだろう。リフレインに胸を打たれて、あれは本当にすばらしい。私もかくありたい。そう思わせる名シーンでしたが、それはまだ先の話。そして、私はその先こそが気になってしかたがないのです。そして、その先を知りたくてうずうずとしてしまう気持ち。それは、今語られていることが確かな面白さに裏打ちされている、そのためであるといってはばかりません。
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