2009年1月1日木曜日

ベルリン・天使の詩

 昨年の末、恩人の連絡先を見つけようと、古い年賀状をここ十年ほど遡ってみる機会を持って、しかし、それは思いの外に切ない作業となりました。端書をめくるその途中に見付ける懐しい名前。それは昔の友人であり、恩師であり、皆さん、今はいかがなされているのだろう、そうした思いに少し微笑みなどして、そして鬼籍に入った人からの年賀状 — 。ああ、この人はもう私たちの住まう岸にはいらっしゃらないのだ。旅立たれて数年が過ぎて、得難い人、類縁の者、そのかけがえのなさに思い至り、少し寂しさ、悲しさを胸に抱いたのでした。

これもまた昨年のこと。『刑事コロンボ』でとりわけ知られる名優、ピーター・フォークの近況が知らされて、アルツハイマー型認知症に罹患されているということがわかりました。誰にも訪れる老い、そして病。自身、また身の周辺を見回しても、その色は年々濃さを増して、おそろしさに気の遠くなるような思いをすることがあります。そしてそうした病とは、思い出のヒーローにもふりかかるのですね。往年の姿が思い出される、そうしたことごとが、現実というもの、時間の過ぎたということを、これほどに切なく思わせて、私はたまらなさに言葉を失なってしまいます。

多くの人にとって、ピーター・フォークは『刑事コロンボ』の人であると思います。ですが、私には彼は『ベルリン・天使の詩』の人であって、それは私がこの映画をとりわけ好きであるからなのだろうと思います。

『ベルリン・天使の詩』、人間の世界を訪れた天使が、あまりに不完全であるはずの人間に憧れを持つ。そうした映画でありました。モノクロームで構成された画面は、天使の眺望であるというのでしょうか。人の世界を傍観するかのごとくに、転々とその視点を変えていきます。見始めのころなどは、これは一体なにを描こうとする映画なのだろうかと思うほどに淡々として、脈絡といえるものがつかめるまで、支えを失なったかのような感覚で見ることになったのでしたっけ。でも一度その仕掛けがわかれば、その魅力はしんしんと身に迫るようで、少々センチメンタル、けれどラストは前向き、極めて美しい映画であると記憶されたのでした。

ピーター・フォークは、この映画において、非常に重要な役を演じています。ピーター・フォークその人を演ずる、しかしそれは現実のピーター・フォークとは少し違っていて、彼はかつて天使であったが、その位置を捨てて、人の瀬に降りたという、そうした特異な役どころであったのでした。天使の、完全ではあるが生きているという実感に乏しいありかたに満足できなくなり、人として生きることを選択した元天使の姿は、まちがいなく、役者ピーター・フォークをなぞっていて、その語り掛けの自然さには、現実のピーター・フォークがかつて天使であったとしてもかまわないと思わせる、そうした真実味さえ宿っていた。そのように思います。彼がその身のそばに、もう見ることのかなわない天使の存在を感じとって、人として生きることの意味、実感、喜びを語る段にいたっては、映画を見ている私にしても、生きるということは素晴しい、孤高という孤独の座に留まることなく、人生のせせらぎに降り、その流れに身をさらすということがどれほどに素敵であるかということを、確かに感じたように思ったものです。ええ、この世界には、たとえ苦しさや厳しさ、いたましい現実があふれているのだとしても、それでも素晴しいなにかがある。そして、そのなにかとは、自ら手を伸ばしてはじめて触れることのできるものであると、そう確かにピーター・フォークはいったのでした。

ピーター・フォークの現在について知ったとき、私は寂しさや悲しさをせつな感じたものだけれど、それは彼がかつて天使であったころに、段々にかえってゆかれる途中であるのかも知れないと思うにいたって、切なさも少しやわらいだように思います。そして、おそらくは、すべての人がそうであるのでしょう。かつて彼岸の存在であったものたちは、この岸に降り、人生という川縁にしばし佇んだのち、またかの岸に戻るのかも知れません。だとすれば、それはなんと自然なことでありましょうか。それは、あるいは、悲しむ必要さえないことなのかも知れません。

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