2008年8月14日木曜日

Lの季節 -A piece of memories-

 昨日、ちょっと台詞を確認したくなったので、『Lの季節』をプレイしてみたのですが、その時の驚きといったら! そもそもPlayStation用ゲームをプレイすること自体がどれくらいぶりかわからないといった状況。起動時のロゴに懐かしさを感じつつ、表示されたタイトル画面を見て絶句しました。こんなに画像悪かったっけ? 全体に荒く、ざらっとした印象が支配的で、しかし、本当に当時はこれが普通だったのか、これで不満に感じていなかったのかと愕然とするばかりでした。これがポリゴンを使ったゲームなら、見た目に劣るのはわかります。ですが、基本、立ち絵とテキストを表示するタイプのゲームです。正直ここまで見劣りするとは思いませんでした。今のOSに見慣れた人がWindows 95を見れば感じるだろう違和感、それに近いものがあると感じた。それほどにかけ離れたものがあったのでした。

しかし、本当にショックでした。プレイを開始してみれば、フォントのがりがりした固さが気になるし、登校中の背景も、256色? 色数の落とされた、それこそ昔のゲーム風。そして天羽さんですよ。ショックでした。以前、『Lの季節2』で書いた時、旧キャラ立ちグラフィックはせめて塗り直すなどして、新キャラとのマッチをはかって欲しかったとかいってましたけど、わかってない、わかってないよ! 立ち絵のレベルでもう別物といっていいほどにクオリティが違っています。旧作は輪郭ががたがたとして、色合いもべたっと重めの仕上がり、それを見れば新作はまるで夢のよう。というか、ハードの進化ってすごいんだねと心の底から理解しました。

操作感についても書いておこう。重いです。テキストの送りはかなり遅く、スキッププレイが非常に厳しいです。読むのはさすがに無理だけど、なんとなく目視で内容が把握できる程度には読めて、それを私は57時間×2回以上プレイしていたわけか……。そりゃ内容にも詳しくなりますよ。サブリミナル効果で内容が脳に刻まれる、そんな気がするスキップでした。そして、当時はあれで普通だったのですが、セーブ数がみっつ、『Lの季節2』のように、バックログを参照して任意の場所に戻る機能なんてありませんし、またブロックや選択肢で自動セーブされるような機能ももちろんありませんから、選択の間違いや口出しポイントの見落としは致命的です。意識的にセーブしていなかったら、一からやり直すか、あえてそのまま突き進むかの二択となって、そして私は突き進んでバッドエンドにむせび泣いた! ああ、泣いたさ。

そう、彼女らの思いがひしひしと伝わるものだから、もうたまりませんでした。最初は気になった画質やフォントの問題も、三十分も見ているうちに慣れてしまいました。立ち絵もイベント絵も、色が重いのはこれが油絵だと思えばいい。というか、やっぱりテキストが力でした。読む、ヒロインの声は音声つき、全体に若く、そして音質も劣るのですが、けれど私は意味こそを読み、聞くのですから、問題にはなりませんでした。徐々に引き込まれていく。主人公キャラの一人称視点+アシスタントのつっこみで進行する『Lの季節2』とは違い、『Lの季節』は第三者的な視点からの記述が多く、またヒロインの内面が吐露されることもしばしば、秋の日はつるべ落とし、その独特の印象はしっかりと心に跡を残して、本当によかった。ボリューム的にも小さい、ですがその小ささは気になりません。小さな世界に精一杯の思いの交錯を描き出そうとする意思が感じ取れて、まあ正直なところトリスメギストスはどうかと思うんですが、でもあのラストに向かっての天羽さんと星原さん、そして亜希子さん、東由利さん、各者各様の思いが時にぶつかり、時によりそう、そんなストーリーは本当に絶品です。

ゲームに限らず、発展途上のテクノロジーを用いて作られるものは、その技術の未熟さによって、後からは正当な評価を受けにくい、そういうことってあると思います。ゲームなら、画像、音声などが顕著です。こうした問題は映画ももっていますね。けれど、表現力に劣っていた時代であったとしても、与えられた資源を最大限に活用し、よりよいものを目指したものに関しては、技術では語れない価値がある、そんなことを思いました。今やPlayStation3の時代、前の前の世代のゲームではあるけれど、しかしことその表現される内容に関しては、今に通用する。決して負けてなどいないと再確認する機会となりました。

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