2007年7月26日木曜日

トーマの心臓

   萩尾望都の名前を知りながらも決してその作品を読もうとはしなかった私が、遅まきながらも作品に触れ、その深さに打たれたときのことははっきりと覚えています。行きつけの書店に文庫を見付けたのでした。有名な人だからと、評価の高い人だからと、古典に手を伸ばすような気持ちで、読むことへの楽しみや高ぶりのためではなく、漫画に関する教養を身に付けようという、そんないささか無粋な理由で一冊を買い求めた、それが『トーマの心臓』でした。ギムナジウムにて繰り広げられる、美しい少年たちの物語。一人の少年の死という衝撃的な場面に始まり、謎のメッセージ、そして身を投げた少年に生き写しの少年エーリクが転校してきて……。これこそが私にとってのはじめての萩尾望都体験であり、目もくらむような強烈な一撃を与えた作品です。

こんな話があるのかと面食らった気持ちでした。もう二十年以上も前に描かれた漫画で、しかし旧さはまったく感じられない、それどころかふつふつと湧くような生命の息吹にあふれていて、これがこれが漫画の世界なのかと、目が開く気がしたものでした。それから私は萩尾望都の文庫を買い集めて、それは自分に足りなかったものを埋め合わせようとするように性急な買い方、読み方で、けれどすごく充実していました。友人に、萩尾望都はすごいから、だまされたと思って買ってみろと強引に勧めて、萩尾ファンを一人増やしたことも懐かしい思い出です。その人も、その後萩尾望都の漫画を買い集めて、こうして人をいったん捕えれば夢中にさせてしまう力がある、強力な魅力に満ちた作品群です。

『トーマの心臓』がこんなにも苛烈に働き掛けたのは、はじめての萩尾望都だったというだけでなく、やはり作品の持つ力であると思うのです。陰鬱で謎めいて、耽美で退廃的な影も持つ漫画。けれどその向こうには、光と闇の狭間に苦しむ心のドラマがあり、そして愛が苦悩に交錯するのです。その物語は、はじめて読んだその時、すでに大げさではないかと思ったほどにドラマチック、ダイナミックで、けれどひとたび没頭すれば、その描かれ方に魅惑されてしまいます。大げさだなんて思わない。絵が、場面が、ビビッドに情感を伝えてくる。ドラマが生きている、思いはあふれ、乱れ、そして明澄な静けさに溶け込むようにして終わって — 。悲しみもあった、切なさはいうまでもなく、けれどいつも救われたという感じに包まれながら読み終えるのです。そして私はきっと言葉を失ってしまうから、『トーマの心臓』についてはなにもいえなくなるのです。ただ、ただ読んでみて欲しいと、読めばわかるんだからと、それ以外にいえなくなるのです。

今日、書店で新しい萩尾望都のシリーズが出ているのを見付けて、それが『トーマの心臓』でした。私はそれを買おうかどうか迷って躊躇して、そして帰って文庫を読んで、そのすごさに打たれてしまった。文庫のなんのという判型なんか関係ないと思った。萩尾望都の作品は、そんな低いレベルのものにとらわれない。物質やなにかを超えた高みに位置するものであると、そんな思いを再び深めただけでした。

  • 萩尾望都『トーマの心臓』第1巻 (フラワーコミックススペシャル 萩尾望都パーフェクトセレクション;1) 東京:白泉社,2007年。
  • 萩尾望都『トーマの心臓』第2巻 (フラワーコミックススペシャル 萩尾望都パーフェクトセレクション;2) 東京:白泉社,2007年。
  • 萩尾望都『トーマの心臓』第1巻 (小学館文庫) 東京:白泉社,2000年。
  • 萩尾望都『トーマの心臓』第2巻 (小学館文庫) 東京:白泉社,2000年。
  • 萩尾望都『トーマの心臓』(小学館文庫) 東京:白泉社,1995年。
  • 萩尾望都『トーマの心臓』(小学館叢書) 東京:白泉社,1989年。
  • 萩尾望都『トーマの心臓』第1巻 (フラワーコミックス) 東京:白泉社,1975年。
  • 萩尾望都『トーマの心臓』第2巻 (フラワーコミックス) 東京:白泉社,1975年。
  • 萩尾望都『トーマの心臓』第3巻 (フラワーコミックス) 東京:白泉社,1975年。

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