2005年1月22日土曜日

レ・ヴォヤージュ

 以前、京大のシャンソンに詳しい仏文学の先生が、日本におけるシャンソン受容に関しての講義をするということがありまして、友人に誘われて聞きにいったことがありました。講座といいましても一般向けのものなので、それほど突っ込んだ内容ではなかろうと予想したのですが、きっとシャンソンがいろいろ紹介されるに違いない。シャンソンは好きだけどそれほど詳しくない私は、どんなシャンソンを聞くことができるだろうと、それを楽しみにしていったわけです。

いってみて、講義を聞いて、内容自体は結構面白かったんですが、ちょっともやもやが残るような内容だったんですね。どうにもすっきりしない、なんかいい足りない、有り体にいえば腹立たしいみたいな気持ちが続いてしょうがないから、喫茶店に入って友人とそのもやもやの正体をはっきりさせようということになったんです。数時間話し合った結果、そのもやもやの正体は、講座の前半での内容 — かつて日本人は先進文化としてのシャンソンに憧れていた — と、後半の主張 — 日本の商業歌謡は子供っぽくシャンソンに見られる成熟が見られない — が矛盾している。現在、多様を極める日本人による日本語での日本市場向けに作られた歌のすべてが、成熟を見ない子供向けのようなものであるかのように言いたげな主張からは、日本は子供だから大人の国フランスを見習いましょうねという、相も変わらぬ日本未成熟論が透けて見えると結論付けることができたのです。

しくじりましたね。講座の後には質疑応答もあったので、この結論がもっと早くに出てたら、ぶつけてみることもできたわけです。自分はいつも後からこういう、あの時これをいえればよかったというのを悔やむたちでして、ええ、このときも悔やみました。

で、なんでクレモンティーヌの紹介でこんなことをいうのかといいますとね、ちょうど講座で、クレモンティーヌが槍玉に上げられたのですよ。WAVE編ペヨトル工房刊のシャンソン特集だかフレンチポップス特集だかに収録された、フランス人による日本のフレンチポップス座談会とかそういうのを引き合いに出しまして、クレモンティーヌはフランス本国ではまったく知られていない日本だけで売り出されている歌手 — すなわち偽物である、あの声量のなさ、歌手としては致命的云々というのを引用し、さらにそれをもって日本人のだまされやすさどうこうをいうにいたっては、先生はいったいなにをおっしゃってるのかとあきれました。

フランスで知られていないフランス人歌手が駄目だというのは、そもそも根拠からしてはおかしい。つまりフランス語歌謡はフランス本国での承認がなければ偽物なのか。じゃあ、海外で活躍する日本文化を紹介する日本人芸術家も、日本本国で知られていなければ偽物、なんの価値もないとでもおっしゃりたいのか。そもそも歌唱のスタイルにしても、マイクロフォンと電気的増幅という近代のテクノロジーが導入されて以来、多様の一途をたどってきている。サロンやホールにやってきた客を満足させるために必要だった声量をテクノロジーが代替することにより、ハスキーな囁き声や呼吸に伴う擦過音など、それまで表現しえなかった表現が可能になったのです。音楽に用いられる表現は急激な広がりを見せ、かつては否定的にしか扱われなかった要素が、積極的に価値を見いだされるような時代になっているのです。

クレモンティーヌについては、むしろテクノロジー時代の恩恵とプロモーションの上手を駆使して成功した歌手として評価するに値する歌手だと思うのです。もちろんこれは、私がクレモンティーヌを聴いてよいと思っているからいうので、ある種バイアスのかかった意見であることは承知しています。ですが、それでもクレモンティーヌを、本国で知られていないから偽物、声量がないため失格云々というのは、間違っていると思うのです。

そして、そんな下世話な座談会を出しに、日本市場の幼稚性云々を論じようというのは間違っています。私はクレモンティーヌの価値を疑いませんし、日本にもよい歌、素晴らしい音楽がたくさんあることを知っています。それを、ただフランス=高級、日本=幼稚と言いたげなる様をみて、やっぱりそれはおかしいんではないかと。そうして外ばっかり見て内にあるよいものを見付けようとしない態度は、大いに間違ってるのではないかと思ったのでした。

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