2006年4月14日金曜日

ことばのパズル もじぴったん大辞典 オリジナル・サウンドトラック

 私はナムコのゲーム『もじぴったん』が大好きです。シンプルにして高度なゲーム性も好きなら、あのもじくんの可愛さもたまらなく好きです。けれど、『もじぴったん』の一番好きなところは最初から今まで変わらずにあって、それはなにかというと音楽です。私は、ナムコのもじぴったんうぇぶ体験版が遊べると教えてもらって、遊んでみて、どれほど面白いと思ったか。何度も何度も遊んで、そしてこの楽しさを支える要素のひとつには間違いなく音楽があって、乗りのいい音楽、質の高さ、パズルゲームといえば地味でという印象があるのに、そんな私の思い込みなんか吹き飛ばさせるに充分で、一言で言えば恋に落ちた。私は今もこれからも、『もじぴったん』の音楽がきっと好きであり続けるかと思います。

私、以前こんなこといっていました。もし『大辞典』のさんとらが出るようなら、きっと私買いますね。買います。今月が終わるまでに必ず買います。これは絶対です。

私はiPodで通勤途中に音楽を聴いているのですが、その時にかかると嬉しい曲というのはやっぱりあって、絶対にがっかりしない、どんな精神状態の時であっても嬉しいと思う、それは『もじぴったん』の音楽なんですね。以前は『バンビーニ』が好きといっていた私ですが、今『Bedtime Puzzler』を聴いて、この曲のすごく心地よく響き、そして美しいこと。聴いていて、涙がこぼれそうになります。そして、私の心を揺さぶったり、はげましたりするのはこれらの曲ばかりじゃないのです。『もじぴったん』のテーマ曲といえる『ふたりのもじぴったん』を先頭にして、大好きな曲がずらりと並んでいる『もじぴったん さうんどとらっく』。そして『大事典 サウンドトラック』においてもきっと同じでありましょう。

私は、昔、ゲームがピコピコ音でしか音楽を表現できなかったころから遊んできて、いい音楽がたくさんあることをもちろん知っていて、そしてそうしたゲームミュージックの行き着いたひとつの頂はここなのだろうなと実感します。ゲームの楽しさを増幅し、邪魔にならないどころか、決して取り除いてはいけない大切な一部分となって、そして独立して聴いて楽しむに充分な質を維持している。こうした細かな要素の隅々にまで心を配って、最終的なプロダクトに仕上げるナムコというメーカーはすごいなと、その士気の高さ、良心に感じ入ります。

私は『もじぴったん』というゲームを漫画の一コマで知って、また同じ人から大事典のサウンドトラックが発売されているということを教えていただいて、ありがとうございます。私はきっとこのCDを買います。

参考リンク

2006年4月13日木曜日

KNOPPIX 5.0

KNOPPIX 5.0 日本語版がリリースされたというのをRSSにて購読しているニュースで知って、ふーんと思ってヘッドラインをよく見てみたら、なんとNTFSに書き込めるになったのですね。うわー、こりゃすごいことになった。これはちょっと興奮するようなニュースですよ。

KNOPPIXというのはいったいなにかといいますと、CD-ROMから起動できるLinuxのディストリビューションなのです。ハードディスクにインストールする必要がないから、そのマシンでLinuxが動くかどうかの確認にも使えるし、それに緊急時に大助かり。いざというときのためにもっておくべきはKNOPPIXであります。

NTFSの書き込みというのがなんでそんなにすごいのかといいますと、このNTFSというのはWindows 2000やXPなど、NT系のWindowsで用いられているファイルシステムなのですが、これが旧来のDOSなどからは見えないのですよ。だから、Windowsが起動しなくなったらDOSのフロッピーディスクから起動してという技が使えなくなって、そこでKNOPPIXの出番となるのですが、このKNOPPIXにしてもNTFSは読めるだけで書き込みができなかったのです。

そのため、ハードディスクに残ったデータを救出したいという場合には、FATのドライブを用意するか(USBのメモリストレージがFATだったりしますね)、あるいはネットワーク経由でデータを確保するかというやりくりが必要になって、もしそこにUSBで繋がるあるいは生きているNTFSのハードディスクがあったとしても、それは利用できなかったのですね。だから、数ギガにわたるデータをバケツリレーしたり、LAN経由で長時間転送されるのを待ったりして、ただでさえシステムが死んでへこんでいるのに、その作業の難儀さでなおさらへこむというのが普通のパターンであったのです。

ですが、KNOPPIX 5.0ではNTFSへの書き込みが可能なわけですから、今までのような面倒くさい作業が一気に軽減されて、死にかけたハードディスクから健康なハードディスクにデータをがつんとコピーして、そのハードディスクはまた新しいシステムで使ってやればいいじゃないかというわけです。ああ、これは便利ですよ。だから私は早速KNOPPIX 5.0を自分用に、そして職場用に用意したいと思います。

でも、これまではCDから起動できていたKNOPPIXですが、5.0はどうやらDVDでないと駄目みたいですね。といっても、どんどん大きくなるリソースをCDに押し込んでいたこれまでが奇跡みたいな話だったのですから、DVDに移るというのも致し方ないのでしょう。

詰まる所、これからのコンピュータはDVDドライブが必須ということでもあるのでしょう。といっても、最近のコンピュータでDVDが付いていないというのもまた少ないと思うのですが!

参考

2006年4月12日水曜日

RIDE BACK

   ナツノクモ』を目当てに『月刊IKKI』を買いはじめたのはよいけれど、きっとそれだけではすまないというのが私のよいところ(?)で、つまりですね、最初は『ナツノクモ』にしかなかった興味が、他の漫画にも移ってきているのですね。楽しみにしている漫画は今やいくつもあります。今日はその中のひとつ、特に楽しみにしているひとつを紹介しようかと思います。

それはなにかといいますと、カサハラテツローの描く『RIDE BACK』であります。ライドバックというのは、近未来世界で乗用されている人型の乗り物で、けれどロボットというよりかはバイクに近い印象を持っています。そして、その世界というのが、ちょっと私たちからしたら昔の日本を感じさせるような雰囲気を持っておりまして、学生たちが思想の旗の下に連帯してゲバ棒もって闘争しているという、そういうちょっとアナクロチックともいえる世界観とライドバックという近未来が同居する、ちょっと不思議な作風の漫画なのです。

でも、不思議な作風といっても、漫画自体はすごくビビッドで、肌にぴしぴしと向かい風の当たるような、そんな勢い、疾走感にあふれています。主人公は尾形琳、ダンサーになるべく入った大学で闘争に巻き込まれ、真っ赤なライドバックを駆る姿がまさに闘争を牽引する先鋒となった。本当なら一生そういうことにはかかわり合いにならなかったかも知れない女の子が、あれよあれよと運命に翻弄されていく。その急転のスリリングさ。私は読んでいて、次はどうなるんだろうと、先が気になってしかたがないといった状況にあるのです。

しかし、このひとつの流れを決定づけ引っ張っていくイコンとしてのヒロイン像は見事であるなと思うのです。思い返せば、過去の民衆蜂起にはなんらかそうしたイコンというものがあり、古くはジャンヌ・ダルク、新しくは樺美智子などがあげられるのではないでしょうか。ドラクロアは『民衆を導く自由の女神』という絵画も描いていて、なぜかこうした運動をリードする象徴的な存在をと考えると、女性があらわれてくるのは不思議な気がします。

漫画『RIDE BACK』においては、尾形琳が運動のイコンとなり、参加する学生たちを主導するのですが、けれどこれは善悪二元論のようなもので語られるような漫画ではなくて、世界を統治する機構とそれに対立する組織と学生たち、そのそれぞれにそれぞれの思惑があり、我々読者は琳とともに翻弄されながら、変わっていく。そうなのですね、明らかに運動なんかに興味を持たなかった琳も変化し、成長し、刻々とその色合いを違えていきます。そしてこの世界のありようと、その変化する様を見終えた先にはどういう感想を持つのかというのが、私には楽しみでならないです。

でも、その終着の地点はまだまだ先になりそうですね。ああ、楽しみで待ち遠しいですが、その日がこないことを祈るという矛盾も私の中にあります。ああ、つまりこの漫画が長く続いてくれればきっと嬉しいと思っているのですね。 

  • カサハラテツロー『RIDE BACK』第1巻 (IKKI COMICS) 東京:小学館,2004年。
  • カサハラテツロー『RIDE BACK』第2巻 (IKKI COMICS) 東京:小学館,2004年。
  • カサハラテツロー『RIDE BACK』第3巻 (IKKI COMICS) 東京:小学館,2005年。
  • カサハラテツロー『RIDE BACK』第4巻 (IKKI COMICS) 東京:小学館,2005年。
  • カサハラテツロー『RIDE BACK』第5巻 (IKKI COMICS) 東京:小学館,2005年。
  • 以下続刊

2006年4月11日火曜日

道化師のソネット

  私はいうまでもなくさだまさしのファンで、けれど、残念ながらそれほどレコードやなにかをもっているわけでもなく、その楽曲のすべてを網羅しているわけでもなく、でもそれでもさだが好きなのです。どこが好きなのかといわれれば、叙情性と滑稽味とが合わさって、けれどただ美しいだけでなくぐさりと突き刺すような透徹して鋭い詩の世界が音楽と拮抗して、そのせめぎあいと調和がさだの魅力なのであるかと思います。けれど、後年の曲にいたっては、より散文的な色合いを強めてしまって、そうしたほとんど散文といえるような歌詞で曲を書けるというのもすごいことなのですが、でも私は初期から中期にかけてのさだの、美しい詩情の世界がことさら好きなのであります。

さだの初期にはとにかく名曲がそろっていて、だから、そこからこれが一番好きという一曲を選ぶというのは非常に困難なことなのですが、でもそんな中、好きな曲がありますかと問われたら、即座に答えられる曲があります。それは『道化師のソネット』。哀しみに沈む友人、女性に向けられた歌でありましょうか。ともすれば哀しみに押しつぶされそうになる人生の折々の曲がり角に、あなたを助け、支えることができるというのなら、僕は道化師にだってなれるという告白。人生の哀しみは誰にでも訪れることがわかっていて、その哀しみがいつかいやされる日もきっとくるだろうということもわかっていて、ならばその日を迎えるための支えになりたい。すごくいじらしく、すごく共感性に富んだ言葉の数々であるかと思います。そして、リフレインから歌い出されるメロディも強くそして美しく、私はこのような詩と歌の書けるさだという人の計り知れない才能と、そして才能に負けないくらいに繰り返されただろう努力、苦闘にひたすら恐れ憧れます。

さだまさし

チキン ガーリック ステーキ

2006年4月10日月曜日

Spiritual Unity

  私だって少しくらいジャズも聴きます。けれど詳しいかといわれたら、すこぶる疑問なのですよね。残念ながら、ほとんど知らないといわざるを得ません。定番中の定番といわれるようなプレイヤーの、さらに定番といわれるようなアルバム、演奏を知っているくらいのものでありまして、ちょっと突っ込んだところに話が向かうと、途端になにも話せなくなる。それくらいに私はものを知りません。

そんなわけで、私はアルバート・アイラーを知りませんでした。この人はジャズサクソフォン奏者でありまして、ジャンルとしてはフリージャズであります。フリージャズってご存知ですか? ジャズにもいろいろあって、綿密な打ち合わせをするようなジャズもあれば、即興を重んずるようなのもあって、フリージャズというのはなかでも即興を指向するようなジャズなのです。一般的にジャズの即興すなわちアドリブというものは、テーマとなるメロディの変奏であったり、あるいはテーマとなった曲のコードに基づくインプロヴィゼイションであったりするのですが、フリージャズにおいてはいったいどうなのでしょう。なんというのか、な、なにやってんの!? ってのけ反らせるような、まさにエネルギーに充ち満ちたアドリブの吹き荒れるジャズ。それがフリージャズであると私は思っています。

でも、私は若いころは、フリージャズは好きじゃありませんでした。いったいなにをやりたいのか、まったくもって理解できず、理屈もなにもなしに適当に吹いてるんじゃないのみたいに思っていたのですが、そうした無理解もいつの間にか改善されていたようで、人に勧められて聴いたアルバート・アイラーに関しては、なかなか楽しんで聴くことができます。なにより、この人の演奏はフリージャズのなかでもおとなしいほうなんじゃないでしょうか。時折にメロディラインが聴こえてくることもあって、そのメロディがすごく印象に残るのは、やっぱりプレイヤーの術中に私がすっかりはまってしまっているからなのだと思うのです。

はじめて聞いたときにもなかなかに釣り込まれるような演奏でありましたが、繰り返し聴けば、それだけ深く引き込まれて、なんだか癖になるような魅力があります。多分、むかし私が理解しなかったのは、この魔力じみた魅力なのではないかと思います。

2006年4月9日日曜日

 私は川本真琴が好きです。歌に元気があふれて、それはもうはじけるようにはつらつとしていて、けれどその明るさのなかにはどことなく暗い影が差していて、そのギャップにひかれているのかも知れません。基本的に素直な歌。けれど屈折している。素敵であると思います。

もう桜の季節も過ぎようとしています。それぞれの季節に季節の歌があって、春の歌、それも桜の歌といったときに、私は川本真琴の『桜』を推したいと思います。一般に桜というと出てくる歌は森山直太朗の『さくら』であったりすることは私だってよくわかっているのですが、その中をあえて川本真琴の『桜』を推したいというのが私なのです。

でも、残念なことに、私にはその好きという川本真琴の『桜』を歌うには向かない声質で、きっと私ではあのはじける感じ、躍動感は出せないでしょう。少女と少年の合間、大人と子供の合間、移行期にあって神経質に揺れる気持ちのぴりぴりとしてけれど鮮やかな輝きは私のものではなくて、だから私はこの歌を歌いません。好きな歌であるけれど、好きであるゆえに歌うことのできないということもあるのですね。

私はこの歌を歌わず、だからかわりに聴くのですが、聴けばやっぱり歌いたくなるのが悲しいところで、もしかしたらいつか私はこの歌を歌ってしまうのかも知れません。けれど、きっと、この歌のよさを引き出すことはできなくて、恨むでもないですが、私は女性に生まれたかったなと思うのではないかと思うんです。私は、別に今の性別に文句があるのではなくて、ただただ女声を自分のものとして歌いたいという欲求があって、そうした思いは例えば川本真琴なんかを聴いたときに強くあらわれて、これが無い物ねだりに過ぎないことはわかっています。けれど、わかっていながらも欲しいという思いはやまないのです。

私にとって川本真琴は境界線上に立つ人であり、それゆえにこんなにも好きだというのでしょう。『桜』という歌にしても、曖昧なところを揺れて、けれど曖昧には終わらず抜け出そうとするかのようで、そういうところが気に入っているのでしょう。

私は曖昧を愛して、どのカテゴリにもあえてはいろうとしない境界線上の人になりたいと思っていて、それが川本真琴が好きな理由であると思っています。多分、この理由。人には通じないだろうなあ。ええ、極めて個人的な理由であります。

2006年4月8日土曜日

ソーダ水がお好きでしょう

 今日はちょっとイベントの手伝いにいってきまして、といっても自分がなにかするというわけではなく、イベント会場で提供されるコーヒーの給仕がメインです。あと設営や撤収の手伝い、まあイベントが滞りなく運営されるよう、細々手伝うというだけの話です。ちなみにボランティア。昼食に弁当こそは出ましたが、交通費も出ないという、そういう感じの、本当にお手伝いというやつです。

で、こういう場に出るといつも思うのですが、男達というのは本当に働きませんね。設営や撤収なんかでは動くのですが、とにかく給仕、食器等の片づけとなるとまったく駄目。返ってきた盆だけ受け取って、その上に乗っているごみごと持ってくる。いや、途中にごみ箱があるんだから捨てろよ。と思うのですが、そういうのは女の仕事とでも思っているのでしょう。とにかく駄目、本当に駄目だと思いました。

そうした、食事飲み物の準備片づけに関しては他人事と思っているような男というのは、まあいうたらお年寄りなのですが、そのくらいの世代には抜き難く男の仕事=力仕事、女の仕事=水仕事等、といった図式ができあがってしまっているのでしょう。だから、コーヒーの受け取りに客が殺到しててんてこ舞いになっていたとしても関知しない。そういうのを提供するのは女の仕事だと思っている。私はその後の打ち上げには出なかったのですが、もし出ていたとしたら、そうした景色を上回る不愉快を目にすることとなったと思います。

というわけで、ひとしきり眠っていた男女共同参画にからむ怒りが、再びふつふつと動き出してしまいました。ええ、こうした男達の考えがはびこっているかぎりは、男女共同参画なんてものの実現は夢のまた夢であろうよと思ったのでした。

私がたった一日で我慢ならなくなった男達のセクト主義に、きっと女達は何百年もの間、押さえつけれてきたのでしょうね。平塚雷鳥が元始、女性は実に太陽であった。といったのはいったいいつのことだったのか。確かにその当時に比べれば、今は夢のように女性の解放された社会になったといえるのでしょうが、しかしそこには本当の開放はあるのだろうかという気持ちになります。保守系の声の強さの前に、ジェンダーという言葉が圧殺される二十一世紀の到来に、きっと明日にはよりよい風の吹くはずだろうと期待した過去の声は消え去ろうとして、私は結局また私の大嫌いな男らしさ女らしさという足かせの目の前にちらつくのを感じて、本当に不愉快な日々を過ごしているのです。

重い足枷をけとばして暗い牢獄から抜け出した女性たちの前には陽のふりそそぐ街頭がある

なら、まだ女達はその陽のふりそそぐ街頭へと向かって歩みを進める途上にあるのかも知れません。

市川ジュンは『ソーダ水がお好きでしょう』において、ヒロインである夏乃にただ 毎日ソーダ水を飲んでいたいわけじゃないのよといわせて、その後に続くモノローグに、自分の自信をともに顔を上げて生きたいと思うことへの決意と、そしてただそれだけのことが難しいという現実への悲しみがあふれていて、私は当人らしさよりもお仕着せのらしさが幅を利かせる時代のまだ終わっていないことに気付くたび、このモノローグを思い出して、空を仰ぐのです。

引用

  • 平塚雷鳥「元始女性は太陽であった」,『青鞜』創刊号,1911年。
  • 『女人芸術』1929年,市川ジュン『血湧き肉躍る料理店』懐古的洋食事情4 (東京:集英社,1994年),34頁。
  • 同前,23頁。

2006年4月7日金曜日

エスパー魔美

   私は思えばいつの頃からこの日の来るのをを待っていたのかわかりません。と、いきなりわけのわからない話の切り出しをしますが、いったいなにがあったのかといいますと、『エスパー魔美』のDVDが発売なのですよ! ああ、エスパー魔美! 『エスパー魔美』については、もう説明の必要ないよね。かつて一世を風靡した藤子不二雄アニメの中でも、常に人気上位にランクインするのがこの『エスパー魔美』であります。自分に超能力があるということに気付いた魔美が、その能力を持って人助けをするというストーリーで、藤子不二雄らしい明るさと不思議への傾倒が光る、名作であります。

しかし、DVDは限定生産品であるそうで、見れば2006年6月12日が予約の締め切りではありませんか。実をいうと、『エスパー魔美』の真価はテレビアニメにこそあるのですよ。人気のために長期放映のされた魔美には、テレビアニメオリジナルのストーリーがたくさんあって、それがまたいい話なんだ。一度見れば忘れられない『雪の降る街を』もオリジナルであると聞きます。原作を超えようとして超えられないアニメは山とありますが、エスパー魔美は原作を超えようとはしなかったのに、いつしか肩を並べ、そして超えた。本当に希有にして名作というにふさわしいアニメであったと思うのです。

いやしかしそれにしても素晴らしかった。私はこのアニメが放映されていた当時はまだまだ子供で、原作本も欲しかったのだけど、手が出ずにあきらめていたのでした。比較的経済の面で余裕が出てきてからは、過去を振り返るよりももっぱら新しいものに向かおうという傾向が顕著であって、つまり『エスパー魔美』が顧みられることもなくなって、けれど書店で単行本が並んでいるのを見れば気になって、昔書店で立ち読みした風景、なにか機会のあれば思いだすいろいろに心を奪われて、やっぱり『エスパー魔美』とは名作なのであります。

しかし、私は『エスパー魔美』のDVDがリリースされる日がくるとは思ってもいなかったから、まさに寝耳に水のニュースで、そしてやっぱり欲しいのですね。上下巻それぞれが六万円を超えるという大物で、おいそれと手の出るようなものではないのですが、それでも欲しいのですね。私は買うのだろうか? 多分買わないように思います。いや、正しくいうなら、買えないように思います。でも、それでもこのアニメを振り返りたいと思うことのあらば、欲しい気持ちは止められないかも知れません。

揺れますね。揺れるのですね。

  • 藤子不二雄『エスパー魔美』第1巻 (小学館コロコロ文庫) 東京:小学館,1996年。
  • 藤子不二雄『エスパー魔美』第2巻 (小学館コロコロ文庫) 東京:小学館,1996年。
  • 藤子不二雄『エスパー魔美』第3巻 (小学館コロコロ文庫) 東京:小学館,1996年。
  • 藤子不二雄『エスパー魔美』第4巻 (小学館コロコロ文庫) 東京:小学館,1996年。
  • 藤子不二雄『エスパー魔美』第5巻 (小学館コロコロ文庫) 東京:小学館,1996年。
  • 藤子不二雄『エスパー魔美』第6巻 (小学館コロコロ文庫) 東京:小学館,1996年。
  • 藤子不二雄『エスパー魔美』第1巻 (てんとう虫コミックス) 東京:小学館,1987年。
  • 藤子不二雄『エスパー魔美』第2巻 (てんとう虫コミックス) 東京:小学館,1987年。
  • 藤子不二雄『エスパー魔美』第3巻 (てんとう虫コミックス) 東京:小学館,1987年。
  • 藤子不二雄『エスパー魔美』第4巻 (てんとう虫コミックス) 東京:小学館,1987年。
  • 藤子不二雄『エスパー魔美』第5巻 (てんとう虫コミックス) 東京:小学館,1987年。
  • 藤子不二雄『エスパー魔美』第6巻 (てんとう虫コミックス) 東京:小学館,1987年。
  • 藤子不二雄『エスパー魔美』第7巻 (てんとう虫コミックス) 東京:小学館,1987年。
  • 藤子不二雄『エスパー魔美』第8巻 (てんとう虫コミックス) 東京:小学館,1987年。
  • 藤子不二雄『エスパー魔美』第9巻 (てんとう虫コミックス) 東京:小学館,1987年。
  • 藤子不二雄『エスパー魔美』第1巻 (中公コミックス:藤子不二雄ランド) 東京:中央公論社,1984年。
  • 藤子不二雄『エスパー魔美』第2巻 (中公コミックス:藤子不二雄ランド) 東京:中央公論社,1984年。
  • 藤子不二雄『エスパー魔美』第3巻 (中公コミックス:藤子不二雄ランド) 東京:中央公論社,1985年。
  • 藤子不二雄『エスパー魔美』第4巻 (中公コミックス:藤子不二雄ランド) 東京:中央公論社,1985年。
  • 藤子不二雄『エスパー魔美』第5巻 (中公コミックス:藤子不二雄ランド) 東京:中央公論社,1985年。
  • 藤子不二雄『エスパー魔美』第6巻 (中公コミックス:藤子不二雄ランド) 東京:中央公論社,1985年。

CD

2006年4月6日木曜日

J. S. Bach : Goldberg Variations, BWV 988 played by Trevor Pinnock

 今日は疲れてしまいました。仕事をしているからというのもまああるにはあるのですが、それ以外のことに疲れてしまって、といってもなんかいやなことがあったというわけではないんですよ。趣味のプログラムに手を出してしまいまして、こうなると私はどうにも駄目でしてね、寝ても覚めてもプログラムのロジックをどうしようって考えて、目はらんらんとするし、頭の中はぐるぐるだし、で、ある程度完成するとそれまでの張りつめた状態が緩んでしまうから、ぐったりとしてしまうのです。

こんなときにはなんかゆっくりできる曲なんか聴きたいなあ、といったときに候補に上がるのは、バッハの『ゴルトベルク変奏曲』で、それはなぜかというとこの曲にまつわる逸話が関係しているのです。

その逸話というのはなにかというと、不眠に悩む伯爵が眠るのによい曲を作っておくれとバッハに頼んだことがきっかけでできたという話でありまして、実際この話は有名で、私は高校生の頃、図書館で借りた名曲解説全集でしょうかでこの話を知って、そうか、いつか聴いてみたいものだと憧れたものでした。

で、憧れはいずれかたちになるのでありまして、私のかなり初期に買ったCDのなかに『ゴルトベルク』はきちんとあって、その演奏者はトレヴァー・ピノック。どんな演奏家がいいとかの情報をまるで知らなかった私は、まずは入手しやすいものから入手していって、バロックではもっぱらイングリッシュ・コンソートの盤を購入していました。なぜかというと、ピリオド楽器を使った演奏であるということ、そしてなんだか評価も高そうだと思ったこと。なので私のバロックの原形は、トレヴァー・ピノックと彼の率いるイングリッシュ・コンソートにあるのではないかと思います。

しかし、私にとっては懐かしくも思い出深いこの盤が、もう手には入らないのでしょうか。だとしたら非常に悲しいことだと思います。と思っていたら、Amazon.co.jpの検索では引っかからなかったというだけで、どうやらイギリスの盤がまだ入手可能であるようです。うん、ちょっと嬉しいことであります。

2006年4月5日水曜日

Boot CampでMacintosh / Windows XPのデュアルブート

アップル、Boot Campを発表

これまで、懸賞金までかけてMacintosh / Windows XPのデュアルブートを実現しようとしてきた有志たちの苦労をあざ笑うかのように、アップルがBoot Campなるソフトウェアを発表しました。これを使えば、IntelベースのMacintosh上でMac OS XとWindows XPを選択起動することが可能になるのだそうでして、うはー、こいつは便利になるかも知れないなあ。周辺機器の繋ぎなおしなしで、ハードウェアを不必要に増やすこともなく、MacintoshとWindows XPの両方を使えるのだもの、これはすごく便利であろうと思います。

でも、多分一番便利なのは、Intel Macintosh用にチューニングされたVirtual PC for Macであろうかと思うんですけどね。多分、これ、ものすごく便利になると思いますよ。

余談

Mac OS Xの次バージョンはLeopardなんですね。私はこれを買うのかなあ。

参考

Logicool TrackMan Wheel

 キーボードがほしいだなんていってきて、いざキーボードを買うと決まったら、今度はトラックボールが欲しい。饅頭怖いかあるいは限りないものそれは欲望!?

私がキーボードを欲しいと思ったのは、まずはじめにはキーレイアウトの問題があり、次いでキータッチの問題、そして最後には姿勢の問題と続くのですが、実は私のコンピュータを利用する環境に共通するのは、机がどれも少し高いのです。ディスプレイの高さとしてはそれほど悪くはないのかも知れませんが、ところがキーボードの高さとしては最悪。肘より上にあるから、どうしても肩凝りが酷くなります。だからキーボードをひざ上に置けるようにするという意味もあるのです、マイキーボード計画には。

キーボードを打ちやすい位置に持ってくることができたとしますね。そうすると、また今度は別の問題が出るのですよ。それはなにかというと、キーボードとマウスの距離です。キーボードの利用時には極力マウスには手を触れないようにする私ですが、それでもGUI全盛の昨今において、マウスを使わないということはまずありません。だから、操作の最中にちょくちょく手はマウスに向かって、当然その距離が遠くなればなるほど能率は落ちます。マウスはキーボードそばにあるのが当然の理想ですが、でもキーボードはひざ上。マウスもひざ上? そんな……、どう考えても使いにくいでしょうよ。

だから、トラックボールなんてどうなのかなと思ったのです。

椅子に座って作業するときには、ひざ上にでもトラックボールを置いておけばいい。iBookはこたつトップだからその場合は座椅子の横にでも置いておけばいいでしょう。ということで、いいトラックボールはないかなあと思って探してみたのですが、そうしたらトラックボールのバリエーションの少ないこと! まわりを見回してもトラックボールユーザーなんていないし、全然情報が集まらなくて往生しました。

私にとってのトラックボールのイメージといえばKENSINGTONなんですが、これは大きくて使いやすそうな反面、ちょっとひざ上とかには置きづらそうです。それに、スクロールに使うホイールがボール周辺のリングというのもなあ、というわけでさらに探してみれば、Logicool製品がなんだかよさそうに思います。それも、最高級機種TRACKMAN CT-100ではなくて65UPiのライン。左右非対称で、右でも左でもというわけにはいかないでしょうが、スクロールホイールもあるスリーボタン方式。これならMacintoshでもWindowsでもドライバ不要で使えそうです。ボタンの配置も一般的なホイール付きマウスと同じだから、マウス、トラックボールの持ち替えもスムーズそうに思います。というわけで、これがいいかなあなんて思って、そうしたらコードレスとコード付きの二種類があるのですね。

私は実をいうとあまりコードレスは好きではなくて、マウスなんかの場合、電池の分重くなるという頭があるからなのですが、けどトラックボールなら使用時に持ち上げることはないわけだから重くても問題ないわけですよね。ひと月に一度くらいのペースで電池交換が面倒かななんて思うので、それでも心はコード付きに揺れるのですが、コードレスというやつは実際のところ便利そうにも思います。

という感じに揺れながら、気持ちはすっかりトラックボール欲しいです。このペースだと、いずれ買ってしまいそうです。いいキーボード、傍らにはトラックボール! ああ、ちょっと夢見ちゃいますね。夢見ちゃいます。

引用

  • 井上陽水『限りない欲望』 POLYDOR POCH-1022,CD【断絶

2006年4月4日火曜日

サクラ町さいず

  四コマ漫画にはもうつかれちゃいました。次から次に創刊される系列誌。漫画はそのほとんどが単行本化されることなく消えるため、おちおち雑誌を捨てるわけにもいかず、かといってため込むにはあまりに多すぎる量にあっぷあっぷして、こうした状況を見て、私は四コマというジャンルが爛熟に向かっているのだろうなと実感しています。爛熟。熟しきれば後は落ちるだけ。その落ちた後に残る漫画はいったいどれだけあるのかと思うと、そうですね、多分『サクラ町さいず』は残る漫画なのではないかと思います。

なんでこんな不吉な書き出しではじまるのかといいますとね、私がはじめて買った四コマ専門誌『まんがタイムラブリー』における最大の楽しみが『サクラ町さいず』であった時期があったからなのです。時が経れば誌面も変わり、そして読む私自身も変わります。かつてはあんなに好きだったはずの雑誌が今ではそれほどでもないと思う。ああ、なんという心変わりよ。読んで楽しい漫画ももちろんあったのですが、徐々に新鮮味が失われ、今ではすっかり古なじみといった感じさえして、そして雑誌も終わりにさしかかれば、読み疲れ、それほど好きではない漫画の数々、乗り切るべきかここでいっそ閉じてしまうか、けれど最後の最後に『サクラ町さいず』があることを私は知っている。ニューフェイスの新鮮さ、みずみずしさを保ちつつ内容は充実して、『サクラ町』を読みたいという思いが歩きにくい道を歩かせたのです。

四コマ誌にかぎらず、雑誌の最後を飾る漫画というのは大切でして、いうまでもないですよね、読後感を決定するのは大抵こうした漫画なのですよ。だから私にとって『ラブリー』の読後感は『サクラ町さいず』の感触そのものでした。少年少女だった季節にさらさらと吹く風のような軽やかなおかしみ、私は大好きでした。特に初期の雰囲気、あの感覚は、今思い出してもなお格別でした。

『サクラ町さいず』も第3巻まで巻を重ねて、でも面白さは相変わらずですね。ちょっと質は変わってしまったとは思います。けど面白さはなお引き続いて、定期的に四コマなんて読むのやめちまおうかと思う私を引きとどめるのは、こうした漫画なのだと思います。派手じゃない。ギャグにしても小さく細やかなおかしみに収まって、けれどそれでも面白い。私の裾を後ろから引くのは、こうしたささやかな声なのだと思うのです。

『サクラ町さいず』。私がこの漫画を好きなのは、悲しみをうちにはらみながら、決して悲しさを表立たせない明るさで、描かれる人の暖かさで、可愛さで、気持ちよさで、だから私はこの漫画の舞台サクラ町と登場するすべての人が大好きです。この漫画に触れているだけで、なんだか嬉しくなるほどです。

蛇足

KRじゃないのに!?

ひろえちゃん、そして麻子おばさんです。だから、3巻82ページの扉絵なぞは、まさしくこの世の春といえましょう。ああ、もう、可愛いぞ。

  • 松田円『サクラ町さいず』第1巻 (まんがタイムコミックス) 東京:芳文社,2004年。
  • 松田円『サクラ町さいず』第2巻 (まんがタイムコミックス) 東京:芳文社,2005年。
  • 松田円『サクラ町さいず』第3巻 (まんがタイムコミックス) 東京:芳文社,2006年。
  • 以下続刊

2006年4月3日月曜日

だって愛してる

 売れない作家の夫を支えるけなげな妻の姿がいじらしく、けど耐えて忍ぶばかりが女じゃないぞというのが『だって愛してる』の本領なのだと思います。肝っ玉母さんなんていうとやたら古くさく感じられるんですが、けれど持ち前の度胸と包容力、そして明るさで夫雄二を支える街子を見ていたら、そんな古くささもどこ吹く風で、なんかいい景色が見えてくるようではありませんか。けど、母さんというにはまだ早く、奥さんというのも、妻というのもなんだかしっくりこないような気がして、そうですね、この人に似合うのはつれあいということばなんじゃないかと思います。作家のつれあい、二人三脚、少しずつ深まっていく、とそのような感じがする佳作。地味ながらなかなか侮れない佳作であります。

でもさ、旦那は甘えてるよな。妻が家計をパートで支え、放っておくと緩んでしまいがちな自分もしっかりつなぎ止めてくれる妻だなんて、そんなのフィクションの中だけの話ですよ。けれど、そうした一歩間違えると一方的になりかねない関係がしみじみとして見えるのは、それはすなわち二人の関係なんだろうと思います。街子はやはり耐え忍ぶばかりの人ではないし、雄二も妻をないがしろにするような甲斐性のある男ではないし、互いが互いを必要として、ああここでタイトルがくるのでしょうな。だって愛してる、なのでしょう。そうした情愛の細やかさが端々にそっとのせられているから、読んでるほうもなんだかほうっとするのでしょう。

しかし、なんだか二人の関係は夢のようだと思う。売れない作家にとってはまるで理想を絵に描いたような女である街子は、きっと売れない音楽家にとっても同じで、そしてきっとささやかな夢を追いながら暮らしの中に日々を流してゆくすべての人にとっての理想なのではないのかと、そんな風に思います。だから、きっと私はもし街子のような女が私の側にいたとしたら、これを決して近づけず、つとめて離れそむこうとするのではないかと思います。だって私にはそうした女に支えられる資格なんぞはないからで、いっそ寒風の中にひとり吹きさらされていたい。

けど、それが雄二と街子の話であらば、こうして穏やかに読めるのは、やはり二人の関係が夢のようだからなんだろうと思います。どこかに昭和の風が感じられる、少し昔気質の夢であります。

  • むんこ『だって愛してる』第1巻 (まんがタイムコミックス) 東京:芳文社,2006年。
  • 以下続刊

2006年4月2日日曜日

All 'Bout the Money

  それについては全然、なんにも知らないんだけど、それでも好きだっていうものがあるかと思います。背景やなんかなんて知らない、目にしているそのもの、耳にしたそのもの、それだけしか知らないけど、それがぱっとあらわれてくると嬉しくてしかたがないというものがあります。もちろん私にもあります。そうしたもののひとつがMejaのAll 'Bout the Moneyでありまして、姉が持っていたCD MAX5に収録されているのを聴いて、どうしても忘れられなくなったのがこの曲を意識したはじめでしたね。

乾いたアコースティックギターサウンドをイントロにしてはじまるこの曲は、なによりも耳に残る印象的なフレーズがキャッチーで、曲そのものもリフレインを今か今かと待ちかねているかのように前進的で、普通ならリフレインまでをじらすように長く伸ばしたがると思うところを、本当にすぐリフレインに突入するから、すごく潔いと感じられます。その反面、曲が短いんですよね。わずか三分ですよ。全然物足りない。リピートしてでも聴きたい。けどあえてそれを我慢することで、次に会ったときの喜びはいやまして、でも本当のところはリピートで聴きまくってもまったく飽きるということがなく、私には本当にあった曲なんだなあと思うところしきりです。

あんまりにいいと思ったものですから、私もこの人のアルバムを探したことがあったんです。けど、その頃はまだインターネットなんてそれほど使えるようなものじゃなくて、今なら簡単にディスコグラフィーめいたものを入手することも可能ですが、それができなかった。だからCDショップ店頭にてMeja、Meja、M、M、M、M... って棚を探して、でも結局は見つけることができなかったんですよね。あの時見つけられたら、絶対買っていました。きっと『セブン・シスターズ』を買っていたろうと、そんな風に思います。

結局アルバムは買えず仕舞いでしたが、それ以降もずっと好きな一曲で、けどこのMejaという人がスウェーデンの人だなんて、今日の今日まで知らずにいました。知っていたものというと、この曲および名前だけ。けど、それでもすごく好き。きっとこの人の他の曲も好きになれるんじゃないかなと思う。けど、今はこの曲が好きなのです。

2006年4月1日土曜日

Das Keyboard

キーボードが欲しいよといって数年。私にとってキーボードを買うというのはひとつの悲願であったわけです。まずはキーレイアウトの問題。私がMacintoshを買ったころというのはまだJISキーボードというのが一般的でなかったころで、つまりUS配列、AsciiとかAnsiの配列のキーボードが使われていたんです。だから、私はUS配列でもってコンピューティングをはじめて、すっかり手がUS配列に馴染んでしまって、それでまわりを見回せばいつの間にかJIS配列の天下になっていてまいりましたよ。だって、ちょっとの違いといえばちょっとの違いなんですが、ちょっとの違いであるためにどうしても打ち間違いが発生します。それはちょっとしたストレスで、だからずっとなんとかしたい、具体的にいうと、決定版のUS配列キーボードが欲しいと思っていたのです。

最初はHappy Hacking Keyboardかなと思ったんです。でも、残念ながら私はこの選択を見送って、というのはコントロールキーの位置が問題でして、Aの左隣、一般的にCaps lockである位置にコントロールキーがありまして、こうじゃないと駄目だという人がいるのはわかりますが、私にはそこじゃ駄目なんです。コントロールは左下隅にあって欲しい。で、次にいいかなと思ったのはFKB8579だったのですが、残念ながらこれもコントロールがAの隣で、やっぱり普通のUSキーボードじゃないといかんのかなあ。

そしてこのキーボード購入意欲は、iBook購入に際してUS配列キーボードを選べたことから薄れていったのですが、でも最近ちょっとしたできごとがありまして、やっぱりキーボードが欲しいなと思った。そのできごととは職場でのできごとです。

新年度を迎えるにあたって、職場で配備されているノート端末の設定大会がおこなわれたのですが、このときに私は外付けキーボードを使っていたのです。USB接続のJISキーボードですが、機種によってちょっとずつレイアウトに違いがあり、なかにはきわめつけに使いにくいものもあったから、そうしたストレスから解放されるにはどうしても外付けキーボードが必要だった。JISでもかまわない、そういった心境であったのです。

で、外付けキーボードを使ってみると、これがまた使いやすいんですよ。タッチもしっかりしてるし、ものすごく打ちやすくて感心してしまって、私は職場ではハードキーボードパンチャーで通っているのですが、マウスでできることもキーボードでやる、コマンドライン大歓迎、一日プログラム打ってるみたいな感じで、だからここで外付けキーボードを使えると能率も上がれば疲労も少ないだろう、ああ、キーボードが欲しいよ。そして、この時点で、私にはちょっと気になるキーボードがあったのでした。

それがDas Keyboard。詳しくはMYCOM PC Webの『真の上級者以上に捧ぐ! 無刻印+キータッチにもこだわる「Das Keyboard」』を参照しておくれ。