2007年11月25日日曜日

ウインダリア

 ウインダリア』をはじめて見たときの衝撃というか感動というか、それは今もなお新鮮に思い出されます。読売テレビの『アニメ大好き』という番組で取り上げられて、私たちはこの番組で取り上げられるアニメは無条件ですべて見るよう決められていましたから、『ウインダリア』も当然のように見たのです。中学生の頃かと思われます。前評判もなにもまったく知らないまま、まっさらな気持ちで見て、私は涙を止めることができませんでした。陽光の燦々と降り注ぐ村、そして海を臨む美しい街を舞台として始まるこの物語は、その穏やかで仕合せそうな序盤を裏切るようにシリアスに落ち込んでいき、見るものの涙を絞ったのです。人気があったのでしょう、アンコール放送されたときには、一緒に見ていた家族も泣いていました。アニメは子供のものという見方の強かった時代です。ならば『ウインダリア』はその偏見を逆手にとって、シンプルで素直な物語を、わかりやすく丁寧に展開して見せて、見るものの心を直撃してみせたのです。侮っているものにこそ効いたでしょう。アニメは子供やマニアだけのものではない、すでに時代は変わったのだと強く主張するかのようでありました。

『ウインダリア』は1986年に劇場公開された作品。公開後すでに二十年経っているということに驚かされます。確かに見れば、端々に古くささもないではない。けれど、むしろ私のようなものには、これぞアニメーションといえる感触であるのです。セルワークの極みです。押し寄せる水、躍動する肉体は、その1フレーズ1フレーズが演技をしている。絵の連なりに過ぎないはずが、そこに確かな存在を、身体を感じさせるのですね。それら絵は声と音楽をともに物語を紡ぎ出して、そしてひとつのテーマを伝えます。かたちを変え、表現を変えながら、何度も反復されるテーマとは約束。取り交わされた約束、それを信じようとする心の悲しさが描かれています。

しかしなにが悲しいというのでしょう。約束が守られないことが悲しいのではありません。守られなかった約束にすがろうという姿が悲しいのでもありません。悲しいのは、相手を信じようという心が、だんだんと変質していくという、そこであろうと思うのです。つのる猜疑が、周囲のプレッシャーが、そして目先の功が、約束を押し流してしまう。ひとたび疑う気持ちが芽生えれば、あとは育つばかり。疑心暗鬼、疑いは自らを肥やしながら膨れ上がり、約束を違えた相手への憎悪をつのらせながらなおも肥大して、ついには理性を飲み込み、後戻りできないところにまで人を追いやってしまう。なぜこんなことにと自問しようともすべては遅く、悪いのは相手なのか、それとも自分なのか、それとも双方なのか。ここに、不信に生ずる悲劇の形式は極まります。

守られなかった約束、どこかで狂いはじめた信頼に発する悲劇を描いた物語において、揺らぐことなく夫を信じ続けたマーリンの姿が、それこそ救いのようであります。信じるという心の価値を求めるものは、マーリンにすべての希望を見て、そしてその望みが潰える様をありありと、それこそ我が身に起こった悲劇であるかのように感じるからこそ、胸のつぶれるような苦しさにあえぐのでしょう。結局、なにも残らなかった。空しい戦勝への代償はあまりにも大きすぎて、誰もが我が手の握りしめる空虚に耐えきれない。失ってはじめて知る、けれどそれでは遅いのだと、そんなことは誰もがわかっているはずなのに、誰もが止められない。だから悲しさはつのるのです。わかっているはずのことを、人はややもすれば忘れてしまうと、この物語はそうしたことを告げるから、あまりにも悲しいのです。

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