2009年4月3日金曜日

ビッグコミック×藤子・F・不二雄SF短編集

  世代世代、時代時代に、忘れることのできないヒーローってのがあるんだと思うんです。それは、架空の世界に活躍するヒーローであるかも知れないし、あるいは現実の、僕たちと同じ地平に生きている、そんなヒーローであるかも知れない。私にとっては、藤子不二雄でした。私が子供だった頃、両氏はまだコンビを解消していなくって、そして魅力的な作品を次から次へと生み出して、私にとってはじめての漫画となった『ドラえもん』。刷り込みでも起こさせたものか、もう大好きでしたね。当時を知らない人には、ちょっと想像ができないかも知れない。夜の七時台のテレビはみごとに藤子不二雄に占拠されていました。週の半分が藤子不二雄のアニメでした。藤子不二雄の名を関した番組まであった。80年代、それはまさに藤子不二雄にとっての黄金期であり、そして私にとっての豊穣の時代でありました。

藤子不二雄は、藤本弘と安孫子素雄のコンビでした。彼らは後にコンビを解消するのですが、前者は藤子・F・不二雄を名乗り、後者は藤子不二雄Aと名乗りました。それぞれに作風が違っていて、私はことFの漫画が好きでした。それは、やはり『ドラえもん』の刷り込みが効いていた。あるいは、こと子供向けであることを意識していたという、そうしたところが私にあっていたのでしょう。

以下は藤子不二雄と表記します。これは、やっぱり自分にとって一番しっくりくる呼び方だからで、本当なら藤子・F・不二雄、藤子不二雄A、きちんとすべきなんだろう、そうでないと両氏に失礼だ、そうは思うのですが、ちょっとわがままを許してください。

私が好きだった藤子不二雄。それは、限りないロマン。未来への可能性を夢見、人の可能性を信じた。そうした氏の世界観は、私の心の奥底に、しっかりと刻み込まれています。未知に憧れ、夢を語り、人間の善性を信じようとする。そうしたメッセージは氏の作品からも容易に感じとれることでしょう。しかし氏は、人間の危うさも同時によくわかっていた。科学の成果に対し、進歩というものに対し、盲目的な賛辞を送るような人ではありませんでした。科学技術の素晴しさが語られる反面、それは恐ろしい結果をも生みかねない、まさしく諸刃の剣であるのだぞ、そうしたことも語った人でした。人間の両面性が常に意識されていたように思います。技術には善悪がない。その使い方に善悪があるのだ。善にも悪にもなりうる技術、そのなりゆきは、私たちの人間性にゆだねられているのだと、子供向けのはずの漫画で、まじめに、真っ向から、伝えようとした人であったのですね。

先日、書店にて藤子不二雄のSF短編集を見付けて買ってしまいました。以前から読みたい、欲しいと思っていながら、持ってなかったのですね。それは、いつでも買えるという安心感や、なんか所有してしまうと駄目なような、なにかが終わってしまうような、そんな気がして、おいそれと手を出せないでいた。それから、多様に展開されていたSF短編です。なにを買ったらいいものか、見通しをたてることができずにいたという理由もあったのでしょう。だから、今度の購入は、ちょっとした冒険だったのです。私にとってはね。

収録されているのは、『ビッグコミック』に掲載された短編です。是非また読みたいと思っていた『ミノタウロスの皿』が収録されていました。けど、『ひとりぼっちの宇宙戦争』は入ってないのか。ちょっと残念。ということで、私の旅は終わらない。ちょっと安心したようにも思います。と、これは余談でした。

掲載誌の対象年齢の高さでしょう。ここには、子供向けの藤子不二雄が見せない側面も存在していました。人間の持つ不合理性、悪徳、出口のない迷い、郷愁、後悔、人生の苦さなどというものがたっぷりと含まれて、侘しさや切なさに泣き笑いのようになってしまったり、またそうした側面を打破しようとする健全に胸を打たれたり、もう読んでいて本当に心が気持ちが忙しい。これらの短編は、主に70年代80年代に描かれたもので、だからもう二十年三十年という年月がたっているのですが、だというのに、その時の隔たりを感じさせない鮮やかさ、輝きを今もなお変わらず保っていて、そこに藤子不二雄の凄まじさというものをまざまざと見るように思います。

私の生まれた年に描かれた漫画なんてのがある、私の生まれる前に発表されたのもある。しかしそれらが私の生きている今を貫かんばかりの現在性を持って迫ってくるのだからたまりません。それは私たちの抱える問題なんてものは、昔から変わらずあり続けていたんだということを示しているのかも知れません。結局人なんてちっとも変わりゃしないんだ。そういうことかも知れません。けれど事実は、人間の中にある、人の社会に変わらずあり続ける、普遍的なものを藤子不二雄がえぐっているということなのです。彼は無類のロマンチストで、その想像する力は並々ならぬものがあったわけだけれど、そこには同時にシビアな判断力、冷徹な視線が常に同居していたのだということもわかります。彼の描くユートピアは、ただの楽園ではありえない。理想が裏切られるということをわかっている。しかし、ただのディストピアにもなりえない。人の苦難を越えて進むことができる力を信じている。そうした両面のせめぎあうところを見つめていた人だったのでしょうね。

藤子不二雄は今もなお色褪せず、私にとってのヒーローであり続けている。そうした思いを再び新たにすることができたように思います。それは、ただの郷愁じゃない。読み、触れるたびに蘇えってくる、氏の精神の前に私の心がざわめいて、穏かではいられなくなるのです。青年の精神の不屈であろうとするように、強く、伸びやかである精神は、傷付きやすく、センチメンタルでもあって、しかし怖れに縮こまっているような意気地なしではないぞ。たかぶり、でも時にへこたれて、しかしくじけず再び歩み出す。わたしもそのようなものでありたい! そういう気持ちの湧いてくるその源には、私の心の奥に刻まれ、今もなお息衝くヒーローのメッセージがあります。そしてそのヒーローとは、藤子先生、これからも変わることなくあなたです。

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