2008年5月26日月曜日

わたしの母さん

 先日、朝日新聞のコラム、天声人語に紹介されていた本、『わたしの母さん』が妙に気にかかったので買ってみることにしたのでした。いったのは大阪梅田の紀伊国屋書店。児童書の棚を一巡りして、見付けられず、そうだ、それで『はじめてのこぐまちゃん』を買ったんだった。その支払いの際に、探している本があるんです。これこれかくかくしかじかと説明して探してもらったら、出版社にも在庫があるかどうかわからない、どうしますかとの返事。ああ、せっかく探してもらったんだから注文します。しかし帰宅後Amazonで調べると、注文不可の状況。これは入手できない可能性が高いと思っていたら、昨日、入荷しましたとの電話がありました。ああ、Amazonでは注文できないけれど、書店で頼むと取り寄せが利くみたいですよ。

私がこの本を気にしたのは、その紹介されていた内容のためでした。小学四年生の女の子高子が知った母の秘密。簡単な計算もできない母、漢字が読めないという母に感じてきた違和感の正体、それは母が知的障碍を負っていたということだったというのですね。そして、台詞がひとつ引用されていました。母の恩師が高子にいった言葉。人間の賢さは、学校の勉強ができるか、できないかで、決まるものじゃないわよ。この台詞を引用する前に、苦手なこと、できないことがあっても、工夫しながら乗り切ろうとしている母のエピソードが紹介されていた、これが決め手であったのだと思います。それは、このふたつが併せて紹介されていることで、少しずつどこかが欠けている私たちが、それでも懸命に生きようとするところに価値があるのだといっているように思われたからなんです。

そして、その少しずつどこかが欠けているというのは、私にとっては他人事や、ましてや比喩などではなく、というのは私も欠けた人間だからです。具体的にいうと、脳に器質的な障害を持っているらしいというのですが、アスペルガー症候群と呼ばれるタイプの自閉症であるようなんですね。ようだというのは診断書をまだもらっていないから。けれど、かなりの濃厚さでもってアスペルガーとみなされていて、確かに私がASであるとすれば説明のつくことが多すぎて、ああもう確定だなあと私自身も思っている。けれど、昨年まで、そんな可能性すら考えたことがありませんでした。アスペルガー症候群という症状というか状態があると知っていたにも関わらず、他人事だと思っていた。それが急に当事者と知れて、参りましたねえ。でも、まあいいかと思った。そんな風に違和感なく受け入れられたのは、それだけ生きづらさの前にくたびれていたということなんだろうと思うんですが、けどなにごともはっきりとするというのは悪いことではないとも思うんですね。

話を戻して、私がこの本に興味を持ったというのは、直感で、知的障碍を持つ母親と健常とされる娘の関係を通じて、多様な人間が共生できるということを描こうという本に違いないと思ったからで、だとしたらこの本は私のような人間にとってきっと大きな力になる、参考になると思ったからです。なぜなら、ASである私は、他者との共生に問題を抱えているからです。一般の社会において私はどうしても生きづらさを感じてしまうし、また逆に、一般の人との共同生活において、私は彼らに多大な迷惑を感じさせてしまいます。それはもう仕方がない。よくいわれるのは、両者が属する文化が違うからなのだというもので、ある種相容れない部分を持った文化が衝突する。そうした現場で、少しでも両者が仲良く暮らすには、お互いが敵を知り己を知り、敵じゃまずいか、互いの文化をよりよく理解し、双方ともに相手を受け入れるという努力を怠らないことが大切と思っています。少数派が多数派に遠慮するのではなく、多数派も少数派を荷物のように抱えるのではなく、お互いがお互い様としての関係を良好に築き上げることが大事なのだろうと。そして、こうしたことは私、ASにおいてもそうですが、この本にいう、知的障碍を持った人においても変わらないのだろうということを思ったのです。

『わたしの母さん』、高子の母は、知的障碍を持つゆえに、皆にできることができなかったりします。母は高子に自分の障碍を知られることを怖れ続けていたのですが、しかし本当なら隠したりせず、堂々としていたかった。けれどそれでも告げることができず、びくびくとしてきたという、その気持ちは痛いほどわかります。自分がマイノリティであることを確定的に知られる、ということは、本当におそろしいことです。だから隠す、隠すから引け目がある。そうした、自信を持てない、自分のらしさを押し殺して生きなければならないことはつらく、けれど、その自分らしさが受け入れられないかも知れないという怖れが、自分らしく振る舞うことにブレーキをかけさせるんですね。

この本においての登場人物の役割は、母が少数派の代表、高子が多数派の代表だと考えるのがよいのでしょう。偏見を持ち、少数派を遠ざける。そんな、少数派について知ろうともしなかった高子が、母の抱える現実を見据えることでだんだんと変わっていく。その過程は一言、素晴らしかった。悩みながら、怖れながらも、与えられた現実に負けず、よい母であろうと努力していた母親。そんな母親の真実を知って、また母を理解しようとし受け入れている人たちとの交流を通して、偏見を流し、母に向き合うことのできるようになった高子。ある種、理想かも知れない話です。ですが、自分の障がいに甘えるんじゃない、貴子の母がまだ若かった頃に、恩師にいわれた言葉でありますが、だとしたら私たち、多数派も少数派も、現実の前にあきらめるべきではないのでしょう。現実を前に、よりよい状況を作るべく努力するということ。欠けた部分を持つものは、それを埋める努力、あるいは迂回する努力を放棄すべきではないし、足りているものは偏見を拭い、ともにあれる環境を整える努力を怠るべきではない。そして、こうした不断の努力こそが、人間の価値を決めるのではないか、私はそのように思います。

あと、蛇足。すべての人は多数派であり、また少数派であるということを忘れてはならないとも思っています。私は確かにある面ではマイノリティですが、異なる面ではマジョリティになりえます。自分は少数派だから手を差し伸べられて当たり前なのだ、多数派だから恵まれているのだ、こうした勘違い、驕りが往々に問題をややこしくしていると感じています。私が先にいったように、誰もが多数派であり少数派でもあるから、少数派と多数派の共存可能性の高い社会は、多くのものに多くの利益を与ええます。それを思い違いしてはいけないのだと、私は自らを戒めます。

引用

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