2007年4月30日月曜日

イタリア・マフィア

 世界というのは、私が知らなかっただけで、ずいぶん剣呑であるのだなと思いました。いや、それでもさすがにこの世は清浄で、信頼と友愛を絆に、権利をお互いに尊重しあうばかりであるなんてことは思いもしていなかったんですが、けどそれでもここまでとはね……。権力、利益を拡大させるためには犯罪も辞さず、なにかことあらば暴力に訴える組織がおおっぴらに存在し、しかもそれを取り締まるべき国家が無力であるという事実。政治の腐敗は目に余るばかりで、裏取引があればまた傀儡といっていいくらいにまで癒着している政党がある。民衆はというと恐怖に屈し、本来は民衆の味方であるはずの警察、憲兵に協力しないばかりか逆に売る始末。これ、一体なんの話かといいますと、イタリアのマフィアでありまして、ピエルサンティの『イタリア・マフィア』によると、マフィアはイタリアのみならずヨーロッパからアメリカにまで手を広げ、その扱うものは武器、麻薬といった非合法の物品に始まり、果ては金融にいたるまで。マフィアというのは荒っぽく立ち回るだけのものだと思っていたんですが、いやいやとんでもない話。この本読んで、正直ぞっとしました。こんな恐ろしい組織が、それこそ普通に存在しているのかとあぜんとする思いでした。

ずいぶん以前の話ですが、イタリアにいこうという直前のこと、海外によくいくという友人に聞いてみたのです。イタリアっていうのは危ないのかねって。そうしたら即座に危ないよって返事があって、けどその人はシチリアにいったりもしていた人で、シチリアに比べりゃそりゃましかもねともいってました。そう、シチリアといったらマフィアの本場で、石を投げたらマフィアに当たる(きっと命はないな)というほどにマフィアだらけといった人もいるけれど、けどこのマフィアっていうのは、互助組織みたいなものだからそんなに怖れるようなものでもないのだという人もいて、けど実際のところはどうなんだろうなあって思ってた。

ってのはですね、海外には人形を使って放送されるニュース番組というのがあるんだっていいますよね。これ、子供向けとかそういうんじゃないんです。なんで人形が使われるのかというと、出演者、関係者を特定させないための配慮であるというそうで、こうして身元を厳重に伏せたうえで報道されるのはマフィア関連のニュースなんだそうです。そう、身元がわかると報復されたりするんですよ。まあ端的にいうと殺されるんですが、私が以前テレビで見たそうした話では、報道関係者がやっぱり殺されていて、それも天下の往来で殺されていて、しかしそれでも報道は続けられる。これがジャーナリズムというものかと思って、肝を冷やしながらも、その覚悟には敬意のようなものを感じたものでした。

でも、こんなの過去の話だと思っていました。けど、どうもそうじゃないらしいんですね。『イタリア・マフィア』を読んでいると、その事例のほとんどは1960年代から1970年代くらいで、ずいぶん昔の話だなと思っていたんですが、いやいやそんなもんじゃなかった。確かにマフィアが死をふりまきながら暴れ回った時代こそはそうしたの話でありますが、裁判は1980年代、1990年代にも逮捕、捜査は引き続いておこなわれており、そして何人もの捜査官が報復により殺されている。暗澹たる思いですよ。いや、ほんと、本読んでるだけで、この世には神も仏もないなあって気になれます。社会正義を胸にマフィアに立ち向かおうとする人たちが、現れては消えてゆく。銃殺、爆殺。対マフィア捜査官に任命されるということは、そう遠くないうちに殺されるのだということを宣告されたに同じという現実があり、けれどそれでも社会のため、公益のため、正義のためにと職務につくも、全うできずに消えてゆく。政治絡みの妨害、内通者、白昼堂々の犯罪でありながら目撃者も協力者も存在しないという、本当に砂を噛むような思いを追体験できる。それでも、本読んでるだけの私は命を危険にさらしているわけじゃありませんものね。と思うと、自分の命を投げ打つ覚悟でマフィアに立ち向かった人の崇高さというのは一体どういうものかと思うのです。

神も仏もない。バチカンがマフィアと癒着しているという状況の語られるにいたっては、そうした慣用句がもはや比喩にとどまっちゃいないよなあ。バチカン銀行を使って、麻薬密輸などの非合法活動によって得た巨大な資金を洗浄しているんだそうですね。でもって、バチカンと癒着しているばかりか、政治との癒着も甚だしくて、七度首相を務めたアンドレオッティがマフィアと癒着(というか、マフィアそのもの?)していたかと思えば、ついこないだまで首相をやってたベルルスコーニもマフィアとの関係を疑われるなど、この問題は長く、まさしく今の今まで続いているのだと感じさせて、だとしたら今私たちが見ているのはつかの間の平穏なのかとも思わせて、がっくりとする思いです。

以上は、思いつくままにに書いたもので、本に記されたことのごく一部、それこそ表面をなぞるだけに過ぎません。本書では、マフィアという組織について語られ、そしてマフィアとの戦いについてが語られ、そしてさまざまな組織機関との癒着が語られ、それらは時に前後して語られるために時系列がわかりにくくなることもありますが、けれどそれほど難しく、ややこしく書かれているわけではありません。現状、これを読んでみて私の中に問題めいたものがあるとすれば、こうした一連のことをこの一冊で判断してよいものかという疑念でありまして、それはつまりこの本に書かれていることがにわかには信じがたいといっています。本当にこんなに強烈なのか。本当に、これほどの組織が大手を振って、我が物顔に活動しているのか。どこまでを真実として諒解すればいいのか、あるいはすべて? そうしたことを判断するには、あまりに私の知識は少なすぎます。

そして、またこういう感想を持ったことも書いておかねばならないと思います。果たして、これらイタリア・マフィアについて、他人事のように感じていられるものなのかということです。

先日、長崎市長が銃撃されるという事件があったことはきっとご存じでしょう。あの事件は、その動機としては個人的怨恨(それも逆恨みめいたもの)であるように報道されていますが、しかし怨恨を抱くにいたるまでのあいだに、対行政暴力が存在したともいわれています。そしてこうした暴力は、長崎に限らずこの国のいたるところで起きているというようにも報道されていて、そうした国に暮らし、そうした暴力に無関心でいた日本人は、果たしてイタリア人のことを他人事のように批判、非難することはできるのだろうかということです。

イタリア・マフィアは映画『ゴッドファーザー』でもって一躍アンチヒーローないしはダーティヒーローめいたオーラを纏うにいたりましたが、それは日本の暴力組織においても似たようなもので、どこかにアウトローとしての格好良さというのが付随しているように思います。ですが、現実はというと決してそんなきれい事で語れるものではないというのは周知のことで、ですがそうした事実を前にして戦うことはできるのか、真っ向から立ち向かうことができるかといわれると、足のすくむ思いもします。

だから、おそらくは、『イタリア・マフィア』に書かれていることというのは、私たち日本人にとっては遠い世界のように感じられるものの、違った側面においてまったく同じ状況にあるということなのではないかと思います。ここに書かれたことを他人事のように感じていてはいけないのではないかと感じます。

  • ピエルサンティ,シルヴィオ『イタリア・マフィア』朝田今日子訳 (ちくま新書) 東京:筑摩書房.2007年。

2007年4月29日日曜日

J. S. バッハ : 無伴奏チェロ組曲全曲

 ロストロポーヴィチが亡くなりました。享年八十歳。まあ、お歳だもんなあとは思ったのですが、けれどショックはショック。私が昔聴いて親しんでいた名前がこうして一人一人鬼籍に入っていくというのは、ただただ寂しく悲しいことであろうかと思います。これが世の理りとはわかっていながらも、やっぱりね。悲しさとか痛ましさというようなものは、そこにたとえどういう理由や理屈があったとしても、消えるものではないと思いますから。ロストロポーヴィチといえば、私、ずっと欲しかったものがありまして、それはLDであったのですが、J. S. バッハの『無伴奏チェロ組曲』を収録したもの。演奏があり解説がありという、その解説に興味があったのです。けど、私はこのLDは結局買うにいたらず、DVDになってくれたらなあと思っていた頃にはDVD化せず、私がDVDから離れている間にDVD化して、今はもう入手困難になっているという、一体なんなんでしょうねこの縁のなさは。

私が大学にはいって、サクソフォンの授業、最初に渡された曲というのがバッハの『無伴奏チェロ組曲』だったのです。もちろん編曲もの。それも、結構編曲者による手が入っていたから、私は図書館に行ってチェロの楽譜を借りだし、変更部分を可能なかぎり原曲に沿うように書き直し、さらにアーティキュレーション(スラーとかそういうの)も全部書き換えた。こうして、できるだけオリジナルっぽくしてから練習して、その時参考に聴いていたというのはカザルスの演奏でありました。

この時期は、とにかくバッハに一生懸命に取り組んでいましたね。CDとかばんばん買えるほど裕福ではなかったから、図書館は視聴室に入っていろいろ聴いては参考にして、けどこの時点ではロストロポーヴィチのLDは参考にしていませんでした。これが出たのっていつごろなんでしょう。私が覚えているのは、上新電機のCD専門店ディスクピアにそれがあるっていうのだったのですが、当時上新電機はポイントの累進制をとっていましたから、いつか最高の1ポイント=5円まで上り詰めて、ロストロポーヴィチのLDを貰うんだと心に決めていたのです。けどうまくはいかんもんで、3円くらいにまでランクアップした時点で、このポイント制度は廃止されたのでした。ロストロポーヴィチのLDを貰えるまでにはいたらず、そうなんです、当時はまだLDは高かったのです。

なのでやっぱり大学の図書館で見たのです。もう十年も前のことだから記憶もさだかではないのですが、この和声の使い方はショパンの葬送に同じなのだといってピアノでそこをなぞるというような、そういうシーンがあったように記憶しているのですが、けど本当にうろ覚えになってしまいました。あの独特の雰囲気、その感じしか覚えておらず、だからできることならまたみたい。そんな風に思います。

ロストロポーヴィチのアプローチは、当時の流行だった作曲家の意図に限りなく沿おうとする態度とは違って、やはりロマン派志向であったのですが、けれどどのように音楽を捉えようとしているかが説明され、その結果が演奏で示されるというのは、学生にとってはためになる、そして音楽ファンとしても面白い、非常にスリリングなものであったと思います。

2007年4月28日土曜日

ことゆいジャグリング

 四コマ漫画はただ面白おかしいというだけのジャンルではなくなった、というのは今では周知のことになっていようかと思うのですが、こと岬下部せすなの『ことゆいジャグリング』においては、そうした傾向というのを強く感じます。一見すれば、人付き合いの苦手な娘高城唯が、まったく対照的とも思える明るく人懐こいサーカスの娘山吹小鳥に振り回される、その様を面白がる漫画であるのですが、実はそれだけではないというのですからたいしたものと思います。というのも私は、この漫画のラスト、クライマックスを待つ数回においてそうしたテーマを語られるまで、ちっともそうしたところに気付くことなく、ただ人付き合い苦手な娘たちがとかく元気な小鳥に引きずられて、少しずつ心を開いていく、それだけの漫画だと思っていたのですよ。そう、私はこの漫画を読んで、ほんの一面にしか心を向けていなかった。ああ、反省だわ。いや、ほんとにそんな気分です。

さっき、娘たちといいました。この漫画の主要登場人物は三人。ヒロインの高城唯と同じくヒロインの山吹小鳥。そして、この二人に加わるもう一人が桜坂ひるね。けど、このひるねさん、表紙にも出てこなくって、ちょっとかわいそうだなあ。やはりタイトルが『ことゆい』であるところを見ても、メインストリームは唯と小鳥であったのかなあ、とはいえ、ひるねは常に唯にゆずるかたちであったけれど、中盤からラストに向かう流れにおいては欠くことのできない重要な役割を担っていて、ひるねの変化、まさしく変わることを欲するに至る過程は、この漫画のテーマのひとつをはっきりと表現しています。

けど、やっぱりこの漫画は四コマで、その形式の制約が、そうしたテーマを深く掘り下げさせないんですね。四コマの単位でひとつ落ちを付ける、落ちとまではいわなくとも、区切りがくる。このため、非常に軽く、テンポよく話は運び、反面ひとつひとつの問題に深く踏み入ることは難しくなる。一回数ページという紙数の中で語るとなれば、いきおい必要最低限に切り詰めざるを得ないということなのでしょう。

でも、このシンプルに状況を語る四コマだからこそ、語れたこともあったのだと思うのです。確かにストーリーものが何話にもわたって深く掘り下げるような、そういうのに比べると薄い。あっさりとしている。しかし、エピソードのひとつひとつが、すとんすとんと投げ込まれてくるようなところが四コマにはあって、だからか、この変に不器用な娘たちの関係が、ただの友達から、かけがえのない友達にまで変わるそのプロセスがダイレクトに伝わってきたというようにも思うのです。重厚に展開すれば、その重厚さがテーマをより濃厚に表現し得たとも思いますが、それだと逆に失われるものもあるのだろうと、この漫画を読んで思いました。きっともっと別の伝え方があるのだとしても、その時、その状況における最善を尽くすことが、伝えたいことに素直に向き合い、それを素直に届けようとすることが、その伝えたいなにかをもっともよく表すことに繋がる、そんな風に思える漫画でした。気付けば胸に深く兆すものがある、波立つものもあらば、穏やかに満ちるものもある、そしてささやかな仕合せのかたちが心に残る — 、いいお話だったと思います。

蛇足

ひるねが変に可愛いと思います。変なやつだけど可愛い。唯の方が好みっぽいけど、動いてみればひるねのような気がします。

蛇足2

実はこれではいい足りない。私のいい足りない部分は、漫画を読んで確かめてくださると嬉しいな、なんて思います。だって、ネタバレは避けたいし、けどいいたいことはたくさんあるし。そう、今回は、一番伝えたかったことに触れていません。

2007年4月27日金曜日

イチロー!

 『まんがタイムきらら』を筆頭に『キャラット』、『MAX』と拡大してきた、マニア層を対象とした四コマ誌ですが、私はこれらを読んで、時々よくわからなくなることがあります。いったいなにがわからないのかというと、その対象とする読者層でして、多分若い人が読むんだろうと思うんですけど、高校生とか大学生とか? いや、けどそれはどうだろう。一説には女子中学生あたりが読んでいるなんて話もあるんだけど、にわかには信じられません。だって、これ読んでいる人を具体的に見たことがないんですよ、私。それに、この雑誌に現れる小ネタやなんかは微妙に二十代後半から三十代くらいを狙っている。まあこれはそれくらいの世代の作家が多いということだと思うんですが、けどそれにしても多すぎやしないか? メインターゲットが十代から二十代前半だとしたらですよ、ああいう小ネタ群、ほとんどわからんだろう。と、そんな風に思っているから私には、この『イチロー!』が妙に新鮮に感じられて、主人公は高校を卒業したところの女の子。ああ、多分雑誌が狙っている年齢層というのはこのくらいなんだろうなと感じられて、なんかほっとしたのでした。

さて、漫画のタイトルは『イチロー!』。けど野球は関係ありません。ええと、一浪なんですね。大学に入ろうとして入れなかった人が主人公。一緒に落ちた友達と、おいてけぼりっぽく一足先に大学に受かった友達と、なんかバタバタしながらも楽しく、けど微妙に落ち込むことも多い浪人生活。予備校に通い、友達を作り、そして道を誤っていく……。なんかそんな感じ。本当に『イチロー!』で終わるんだろうかと思うような展開を見せているのですが、そうしたら作者自身がおんなじようなことをいっていて、ああ終わらない浪人生活というのは実に辛そうだなと思うんですが、まあいつか終わるでしょう。何浪までいくかはわかりませんが、てのは漫画が結構面白くて長く続きそうな予感がするからなんですが、けどいつかは大学には入れる日がくるはずだと。ええと、一年経ったら時間がループするのかな? とにかく一年こっきりで終わるには惜しい漫画だと思っています。

基本的には予備校通いつつ受験勉強というそういう漫画なのですが、けどそればかりじゃ花がないというか、ええと、やっぱマニアックな方向に向かいますよね、なんたって掲載誌が『きららMAX』だから。ええと……、表紙をどん(クリックすると大きくなるよ!)。

勘弁してください。買いにくくって仕方ないじゃないですか。いつも買ってる四コマ誌が、突然エロ漫画みたいな表紙になったよ! って、職場でも家族にも結構いいネタになってくれてそれはそれでよかったんですが、けどこれは参った。参りながらも躊躇なく購入したんですが、けどほんとお願いしますよ。

閑話休題。『イチロー!』が面白いのは、常識人で苦労人のヒロインななこが非常識な人たちに囲まれて翻弄されるというその様の面白さもありつつも、けれどベースにはきたるべき受験に向けての勉強生活があるから、異常な逸脱はしにくいというそこなんじゃないかと思っています。戻ってくる本筋があって、そのラインをたどりながら右に振れ、左に振れる、その振れ幅に面白さがあるんです。振れ幅小さなときには受験生ネタとその周辺が語られるのに、大きく振れてくれば、もう受験どころじゃないという感じになって、けど戻らねばという焦りみたいなのがちゃんと描かれていて、そのままならぬ様がらしくっていいなあと思うんです。

だって、自分だけかも知れないけど、実際の生活っていうのもそんな感じでしょう。やらないといけないことはやっぱりあって、ちゃんとしなきゃちゃんとしなきゃって思っているんだけど、ついついなんかいろいろ些事に流されて、できないことの方が多かったりして、後でへこむんだ。ああ、なにやってるんだろーって。けど、振り返ったりしたら、この行きつ戻りつ揺れ動きが楽しい思い出だったりするのかも知れないなあって、少なくとも浪人生活についてはそんなこと思います。むしろ私は、浪人したときも学生やってたときも、あまり振れ幅大きくない進み方をしたもんだから(っていうか受験ばっかりだったよ)、逆にななこたちのような友達とどたどたしている時間にちょっと憧れみたいなものがあって、そう、こういう時間が後から振り返ると楽しかったなあって思えるんでしょうね。

なので、私はななこみたいな人には、今はいらいらすることも多くても、年取ればそれが青春だったってわかるもんなんだよといってあげたい。そしてこの彼女らのどたばたの浪人生活を見ながら、自分の人生にはついぞ感じられなかったことごとを追体験する思いなのではないかと思います。

蛇足

これといって、このキャラクターが好きだ! っていうのはないんです。強いていうなら詩乃かなあ。というわけで、どうやら私はちょっと変態じみた人が好きなようですほんとです。

  • 未影『イチロー!』第1巻 (まんがタイムKRコミックス) 東京:芳文社.2007年。
  • 以下続刊

2007年4月26日木曜日

うぃずりず

 なんでか私は金髪好きという誤解をされているのですが、けど、ほんとになんでなんでしょうかね。金髪大好きだなんて、ここでもどこでもあそこでも一度もいったことないのに、もしかして金髪好き? といわれて、いやあえらい誤解だ。あんときゃたまたま、CMで見るこの人が可愛くていい感じっていっただけで、別に金髪だからいいってわけじゃなかったんです。と、のっけから意味不明な話をしていますが、というのは今日出版された漫画『うぃずりず』がまさしくその金髪美少女ものでして、帯には金髪、碧眼、ランドセルの文字が踊っています。ええっと、金髪も碧眼も、ましてやランドセルなんて、好きでもなんでもないんです。たまたま、たまたま漫画が面白かったから買っただけで、金髪なんてなんとも思ってないんだからねっ!

私は『まんがタイムきらら』本誌で『うぃずりず』を、それこそ最初から一度もかかすことなく読んできたのですが、けどよくよく思い返してみたら、この里好という人はまさしくきららでデビューした人であったんですね。忘れてました。「きら☆スタ」という、新人発掘企画だったんでしょうかに『うぃずりず』で登場してきて、で、その最初の回を見て、私はちょっと好きじゃないなと思って、その原因はあの先生だったのかなあ。基本的にべたなネタで勝負するタイプの漫画、金髪碧眼の外国人という見た目ながら誰より日本的というギャップがたまらんといったところかと思うのですが、けどそれにしてもべたすぎるというか、なんかちょっとなあ……。みたいに思っていたんです。けど、今は普通に面白く読んでいますから、この最初抵抗を感じるっていうのは、もう私の癖みたいなもんなんでしょうね。変化を嫌うあまりに拒否的反応で返してしまうという、そういう悪い癖があるようです。

『うぃずりず』は回を重ねて、べたの度合いはさらに強まっていったのですが、けどべたというのははまれば強いもんだと思います。ヒロインであるリズ(そう、With Lizなんですな)のギャップはなおさら強烈になっていって、見た目と言動のギャップ、そこには最初にいってた金髪碧眼という外観と、そして小学生という年齢の二枚で勝負って感じでしょうか。外国生まれの外国育ちのはずなのに、さらに加えて小学生でなんでそんなことを知ってる!? てな具合。こういうべたネタはシンプルなだけにはまるといい感じに効いてきます。それに、ピックアップされるネタというのが、ちょうど私らくらいの年代の人間が、そうそうそんなのあったあった、と思えるようなのが多くて、だからなおさら面白いのかも知れません。

そして、ここにちょっと辛辣な感じのネタも混じってくるのですが、これが私にはちょっと微妙でありまして、稀に許容ラインを越えて引いてしまうことがあるんです。例えば最初にいってた、先生の話。ちょいとこりゃなあ、みたいな感じで引いて、まあこれはこうして引かせるためのネタではあるので成功といえば成功なんですが、あとは黒杉さんで引くことがあるかなあ。まあこれも引かせるためのネタだから見事機能しているわけですが、けど私にはもうちょっと微温的なほうがいいと思うことがたまにあります。ほら、例えばリズがいじけて辛辣な物言いをすることがありますが、ああいうのは大好きです。

あ、そうだ、これにも言及しとかないといかんでしょう。まんがタイムきららWebにて、うごうご4コマと称し『もっと! うぃずりず』が連載されているのですが、これAdobe Flashで制作されていて、アニメーションするんですね。で、私が驚いたのは、このFlashを作ってるのがほかならぬ作者その人であるようで、もうはじめて見たときには、多彩だなあって驚いたものでした。

蛇足

臆面もなく自分の孫娘を一番可愛い子だよといってのけてしまうじいさんがいい感じです。え? そうじゃなくって? えっと、たまに口を尖らせてるその尖らせ方が好きです。あ、これはじいさんじゃなくって。

  • 里好『うぃずりず』第1巻 (まんがタイムKRコミックス) 東京:芳文社.2007年。
  • 以下続刊

引用

  • 里好『うぃずりず』第1巻 (東京:芳文社.2007年),帯。
  • 同前,97頁。

2007年4月25日水曜日

Bamboo shoot, taken with GR DIGITAL

Bamboo shootsRicoh GR Blogの人気企画、トラックバック企画第19回目は出会いなのだそうです。しかし参りますね。出会い。春は日本において、進学や就職、あるいはクラス替えなどで新たな出会いがあるだろう季節ですから、なかなかにいいところをつかれると思います。実際私の働く環境も微妙に変わったりして、出会いっちゃあ出会いみたいなもんもないわけではないんですが、だからといってそれがテーマに沿うわけでなし、もとより写真に撮りたいようなものでもなし。けど、そもそも出会いという抽象的なものを写真で表現するというそのこと自体がやたら難しいですよね……。ということで、毎度毎度こじつけ気味で申し訳ないのですが、今回もやっぱりこじつけ気味、トラックバック企画「出会い」に参加します。

私の住んでいるところは日本有数の筍の産地でして、実際、日本でもっともよい筍を産出している土地であろうとは思うのですが、そんなわけで筍を撮ってみました。それが次の写真:

Bamboo shoot

春を待ちわびて、ぽこっと土から頭を出した筍が、やあ、こんにちはって感じで、実に春めかしいと思ったんですが、写真に撮ってみるとええいこりゃえらく地味だな。けど後ろにタンポポだかなんなのか、緑の葉があって、対照的な植物が並んでいるのが面白いなと思ったのでした。

2007年4月24日火曜日

インターネット図書館 青空文庫

 著作権の保護期間延長に反対しますさあ、そろそろ私も本腰を入れないとな、って一体なんの話かといいますと、著作権延長に関する署名ですよ。パブリックドメイン作品を所収、公開するインターネットの図書館、青空文庫が取りまとめている著作権保護期間の延長を行わないよう求める請願署名、これの第一次締め切りが来週4月30日に迫っています。だから、そろそろ私も頑張らないとと、そういう話です。

でもどう頑張ったものかなというのが難しくてですね、なかなか職場とかでこういう話ってしにくくってですよ、ほら、一般の人ってやっぱり著作権とかあんまり興味ないんですよ。ふーん、みたいな感じ。だから? みたいな感じ。伝わらないなあ、もどかしいなあなんて思うのですが、もとより興味のない人に、50年が70年に延長されます、ぜひ阻止するための署名をなんていっても、悲しいかな全然訴えないのです。だから、草の根活動じゃないけど、ほら、おたく、マニアの人たちは著作権意識に敏感ですから、そうした人にこういう動きがあるんだぜといってまわる。手持ちがあれば署名の用紙を渡す。これくらいかなあ。私はどうにもこういう手管に長けていなくっていけません。

著作権の保護期間延長が呼び水となってか、このところインターネット上では著作権に関する議論、意見が花盛りで、けどこれは以前にもいったけど、目にするのは圧倒的に反対意見ばかりに思えるんですよね。そりゃ賛成意見もあるし、目にもするんだけど、けどそもそもが少ないし、それ以前に説得力に欠けるし、という感じで、議論やネット上の趨勢を見るかぎり、延長反対派の方が優勢と感じられるのです。

保護期間延長に関し、私の意見は以前にいいましたとおり。

著作者が、著作者の権利が守られることが大切ということは重々わかっています。だから私は、なるたけ借りず、中古も利用せず、著作者に利益が還元されるようなやり方でもって著作物を入手しているのですが、ですがそんな私でも、死後70年の保護期間はあまりに長すぎると感じるのです。いや、実をいうと50年でも長いと思っている。生きてる間だけでいいじゃないかと思ってる。

これ、結構思い切った意見のつもりでいたのですが、けれど世の中には私なんぞが足もとにも及ばないような方たちもいらっしゃって、例えば落語家の三遊亭圓窓氏。曰く、延長ではなく短縮してほしい知を共有するためには(著作権を)なくした方がいいくらい。さすがです。口承文学、口承芸能に関わる実演家としての意見として、実によく状況をえぐっています。

私は音楽に関わってきた人間ですが、音楽は過去より綿々と伝えられてきた蓄積をベースにして新たなものが生み出されるという側面を持っていて、けどこのいい方は実はフェアじゃない。なぜなら音楽の広がりは過去という方向にのみ見られるものではなく、同時代の地平にも広がりを持つからです。なにかを作る人というのは、自分とかかわりの深いものに触れ、影響したりされたりしながら、お互いにその内容を交換しあったりもしながら、作り上げていくんだと思う。これはファインアートと呼ばれる分野でもそうだし、私みたいなものでも同じ。あ、こいつは面白いやと思ったフレーズを改変しながら使い回したりは、それこそクラシックの大音楽家みたいな人たちでもそうなんですよ。

そもそもさ、教会音楽なんていうのもそうだったんです。グレゴリオ聖歌の旋律を中心に作品を構築していったんです。また、パロディミサなんていうジャンルもあった。そこには当時の流行り歌の引用なんてのもあって、こうした引用をいうのなら、バッハの『ゴルトベルク変奏曲』に有名なのがあるし、とこんな感じなんです。

けど、今みたいに著作権がごりごりにいわれるようになると、そうした作り方は難しくなりますよね。それこそ歌詞がちょっと似ているからといって、いきなり私の作品の根幹をなすフレーズを盗んだ! みたいなクレームを受けたりするんですよ。って、一体そりゃなんだといいたい。そりゃぱくりはどうかと思うけどさ、けどじゃあオリジナルっていうのはなんなんだ。

私は常々思っているのですが(そしてこれが修士論文のテーマであったのですが)、オリジナルというのは作り上げられた成果物そのものについてをいうのではなくて、その作るという過程に残る手跡(マニエラ)なんですよ。いかになすか、どのように作り上げられたかというそこにオリジナルはある。ところが今の著作権云々っていうのは、自分のマニエラの残ったものをいかに他人に触らせないか、他者の手跡の付くことをどう阻害するかにあるようで、けど私はそれは違うんじゃないかと思っている。だって、その自分のマニエラの残った著作物っていうのも、マニエラを取り除いてしまえばどこかからの借用であったりするんですよ。借用といういい方に語弊があるなら、過去ないし同時代の誰かが作り上げ積み上げてきたもの — それを私は環境と呼んでいるのですが — から生まれた、どこかのなにかにルーツを持つ、あるいは包摂されるものに過ぎないじゃないか。これは特定の著作物についていっているのではなく、すべての、あらゆるものがそのようにしかあり得ないのだと、まったくの無から生み出されるものなんて残念ながらないのだといっています。

申し訳ない。長くなりすぎました。もう終わります。

山形浩生は彼一流の筆致でもって、延長論を批判しています。驕るな、クリエーター! 著作権保護は「創作から5年」で十分がサブタイトル。乱暴にまとめると、特権意識振りかざしてるけど、クリエーター気取りアーティスト気取りのあんたらってどれほどのもんなの? っていうような記事、取り立てて著作権者が保護される(しかも死後の家族まで!)という状況は、あまりにもバランスを欠いているんじゃないのという意見なんですが、語り口こそ過激ですが、けど内容は多くの人が感じていることを代弁するものだと思います。

で、これはちょっと違うのだけど、水野博泰の記事、『誰のためのデジタル放送か?(後編) (ニュースを斬る)』、このサブタイトルは「著作権保護」は既得権益を守るための便利な口実でして、コピーワンスについての記事なのですが、私がアンダーラインを引くならばこれかと思います:コピーワンスが守ろうとしているのは、現場の著作者の権利ではなくて放送局の“搾取権”なんです

このコピーワンスの文言を保護期間延長に置き換えてみても充分通じるフレーズであると思います。というわけで、最後に絵文禄ことのはの記事をひとつ紹介して、このうだうだと長い記事を終えたいと思います。

引用

2007年4月23日月曜日

Luciano Berio : Sequenzas XI for guitar played by Pablo Sainz Villeagas

 ギターのための『セクエンツァ』があると知って、矢も盾もたまらずに注文したルチアーノ・ベリオ『セクエンツァ第1-第14』でしたが、なんとこれが入手困難とのこと。わお、よりによって本命が! なんて落胆していたんですが、一時は入手も危ぶまれたこの盤がようやっと到着いたしました。ああ、よかった。このアルバムはベリオの『セクエンツァ』を第1番から第14番まで収録しているのですが、オリジナルだけでなくVIIb(ソプラノ・サクソフォン)とIXb(アルト・サクソフォン)も収録するなど、かなりの充実ぶり。あまりに充実したものだから三枚組にまで膨らんでいるのですが、けど価格はというと2,511円(税込み)、実にリーズナブル。1998年から2004年にかけて収録された、堂々の新録音であるというのにこの低価格を実現するNAXOSレーベルは私たち貧乏人の味方だと、改めて確認する思いであります。

さて、ギターですよ。『ギターのためのセクエンツァ第11番』。演奏者はパブロ・サインス・ビジェガス。知らない人なのですが、ざっとライナーノートを見ると数々の賞に輝いたギタリストであるようですね。けど、こうした経歴確認することもなく、この人が技巧派であることはまあ間違いなかろうなというのは最初からわかっていたこと。っていうのは、この『セクエンツァ』というシリーズは、かなりの技術を要するんですよ。それも普通の技術じゃない。その楽器の可能性を探るとでもいえばいいのか、通常の技法に加え、新技法、特殊技法が盛り込まれていて、並の奏者じゃできないだろうなと、そういう曲なのです。とはいえ、まあプロならやるよな。けどやるだけじゃおさまらん。どうやるかが一大事という曲です。そりゃもう、興味津々っていうものですよ。

聴いてみた感想。やっぱり、今まで聴いたどのギター曲とも違っていて、すごくいい感じ。出だしは、弦を叩いてるのかな? なんだか遠くから響いてくるような響きに澄んだ弾弦が聴こえてくる神秘的な雰囲気、ところがここに突然かき鳴らしが割って入って、技巧的にはフラメンコっぽいかなあ。クラスターでもないしクラングともちょっとちゃう感じですが、ジャガジャガジャガジャガというストロークの内部で響きがうごめいている。もうこの時点ですっかりベリオの世界に魅了されているのですが、けど、これ、まだ出だしなんですよね。

ベリオの曲、特に『セクエンツァ』には、耳に馴染む、心地よいメロディというのはありませんで、そもそも私にはテーマ(音楽でいうところの主題、一般用語のテーマとは違います)があるかどうかもわからんのですが、けど聴いていると次々と変わっていく響きの世界になんか引き込まれるのですよ。ギターでいえば、通常の弾弦にストローク、バルトークピッチカート(E. ベースでいうスラップ)、ハーモニクスなど多様な音色が目まぐるしく行き交い、また恐ろしく高速なトレモロ(よくあんなのできると思う)があったかと思えば、異弦同音を交互に鳴らしているようなのもあるなど、注意深く聴くほどによく細部まで作り上げられていることがわかる。やっぱりベリオは面白いなあと思うのです。

けど、多種多様な奏法が入り乱れる名人芸の面白さは『セクエンツァ』の聴きどころではないのですよ。なにより聴くべきは美しさです。音色の妙が、音のコンポジションが、そのもの美となって響いています。古典派ロマン派的世界とは一線を画している音楽ではあるのですが、けど『セクエンツァ』を聴き込んでみれば、音楽の美とは古典派ロマン派、あるいはバロック等々、耳慣れた音楽のみに発するものではないことがわかるのではないかと思うのです。はじめて聴けば、果たしてこれは悪ふざけなのかと思うかも知れない、それくらいに一般の人のイメージする音楽からはかけ離れた曲たちなのだけれど、けれどそれでもそれらはまごうことなく美であるのです。

いろいろな楽器が、多様な美を志向する『セクエンツァ』ですが、なかでもギターのための11番は聴きやすく、美を感じやすいものであると思います。ポピュラリティがある — 、というのは、これはギターという楽器の持つ親しみやすさがためなのかも知れませんね。ほんと、ギター好きにもギターに関わらず音楽が好きという人にも、等しくお薦めできる佳曲だと思います。

引用

2007年4月22日日曜日

ダンノーゼルのソルフェージュ

 マイクを買ったよ、録音だ。と非常に単純な動機で録音を敢行してみたのですが、そしたら非常に残念な結果に終わってしまいました。いやあ、参りましたね。私はギターが下手な分、歌で点数を稼ぐつもりでいたのですが、どうやらそのもくろみは泡と消えたようですよ。点数稼ぐどころか、むしろ減点パパ? 正直、もうちょっとましだと思っていたんだけどなあと落胆しまして、聞くごとにどっかから飛び降りたくなるもんで困っています。でも、困っているばかりでは人間進歩はないので、現実を直視し、苦さを舐めてなお前に進もうとするところに成長はあるのだと信じて、ちょっと歌も真面目に練習してみようと思います。いや、今まで不真面目だったつもりはないんだけど、けど侮っていたのかも知れないね。ということで、懐かしのソルフェージュの教本を引っ張り出してきたのでした。

Studies of solfège

見つかったのは音友の『子供のためのソルフェージュ(1a, 1b)』、『ダンノーゼルのソルフェージュ』、そして『コールユーブンゲン』。後にこれに『コンコーネ50番』が加わって、なんだかんだいっていろいろ持っているものですね。これらは受験用にやってたソルフェージュで使っていた本なのですが、『コールユーブンゲン』は大学入ってからも使っていたかな? 後、『コンコーネ』は大学の声楽の授業で使ってた。そう、私はなんと声楽の実習もやっていたのですよ(必修科目だったから)。

けど、大学出てからは、こうした基礎的な訓練というのをまったくやって来なかったんですよね。だいたい十年くらいですか? それが今のていたらくに繋がっているわけで、トレーニングの重要性というものを痛感している次第です。で、ひとしきり痛感したら次は実践の番でありますね。ここで私が選んだのは『ダンノーゼルのソルフェージュ』で、なんでこれにしたかといいますと、非常に基礎的な部分からゆっくりと導入していくことができるから。ちょっと『コールユーブンゲン』だと大変かなと思って、だから『ダンノーゼルソルフェージュ』。まあ、これも後半に入ると結構ハードにはなってくるんですけど。それにヘ音記号での読譜練習とか、正直今の私にはあんまり必要ない訓練もあって、けどまあやって損があるわけでもないから、多分やるんじゃないかと思いますが、でもギター弾くに際しては必要ではないなあ。

とりあえずは最初の最初、全音符で書かれた非常に簡単なのを、全音符じゃ息が続かないから、四分音符気分でさらっとやってみたんですが、ええと三十分ちょっとくらい? そうしたら、すごいハードなの。最初は音階を簡単にやるだけなのが、二度、三度のインターバル練習に移り、もちろんそれだけで終わるわけありませんよね。四度、五度、六度、そしてオクターブまでいくんですが、もうめろめろ。だいたい五度くらいで音を上げはじめていて、息が続かない? 最高音はミまでなのですが、それくらいまであがっていくと酸素が欠乏してくらくらしてくるんです。でも、続ける。息も絶え絶えに歌っていると、腹筋あたりが非常にきつい。わお、こりゃ明日は筋肉痛だな。でも、続ける。そうしたら今度は腿のあたりがしんどくなってきて、いや、ちょっと待ってよ。なんで歌うたうのに足の筋肉が関係してくるんだ。非常にわからない話ですが、けど歌うというのはそれくらいハードな全身運動っていうことなのでしょう。

久しぶりにソルフェージュやってみて、歌うという行為の大変さを思い知りました。これまでもいいかげんに歌ってきたつもりではないし、それなりに頑張っていたつもりなんですが、けれどいつの間にか随分省エネルギーでそれっぽくやるようになっていたんだなとわかって、これは反省事項ですね。ちょっと大変になるかも知れないけれど、ギターだけでなく、歌の基礎練習もするということで、本腰入れたいと思います。

2007年4月21日土曜日

ひだまりスケッチブック — ビジュアルファンブック

 先日、『ひだまりスケッチブック』を買いにいこうと思ったといっていましたっけね。私は『ひだまりスケッチ』の漫画は結構好きで、2巻限定版も手に入れたし、アンソロジーだって買ったのですが、けど、『ひだまりスケッチブック』はなんとなく買いそびれていたのです。理由は、 — やっぱり経済的なもんでしょうか。最近、KRコミックスがやたらと出るようになりまして、もともとが高い本ですから、だんだん買うのも厳しくなってきているんです。そこへ二千円近いファンブックが出て、うっと躊躇した。けど、躊躇しつつも買っておくべきかと迷っていて、そこへ背を押したのは、tsawada2氏の日記。2007年4月11日の「今日買った本/CD…」が決め手となりました。

『ひだまりスケッチブック』の内容を端的に示すとイラスト集、なのではないかと思います。『まんがタイムきららキャラット』の表紙を飾った絵やカラーページの扉ゴマなどがメインといっていいのかな? 分量的に見てもそれが妥当だと思うのですが、しかしこのかつて一度は見てきた表紙絵、扉絵の見ごたえのあることといったら、自分自身驚くほどでした。

イラスト自体が見て楽しいというのもそうでしょう。これまで私が思っていた以上に鮮やかで魅力的というか、絵の端々から色気が感じられるというか、一ページ一ページめくりながら、いいなあとため息するようなよさというのがあるのです。そして、面白いのはそのイラストイラストに、アイデア稿ともいえるラフスケッチが付されているというところ。紆余曲折が見えてきたり、あるいはブラッシュアップされる様が感じられたり、こうした筋道のようなものが見えるというのは面白いものですね。コメントだってそうです。反省あるいは評価があったかと思えば、最終稿にいたるまでの経緯の説明があり、あるいはキャラクターに対して思っていることや裏話めいたことなど、こうしたことを知ることができるというのは実によかった。知ってどうなるというものでもないですけど、やっぱりその人の絵が好きなら、知りたいものではあるでしょう? 実際、ビジュアルファンブックという表現は実に妥当であると思いました。

イラスト集の他にはインタビューと漫画が収録されています。実はインタビュー、もっと普通のものかと思っていたんですが、思わぬ収穫といいますか、結構読んでいて面白く、ほら世の中には通り一遍というようなインタビューも多いでしょう。ところが、そうじゃなかった。扱う内容が独特というわけではないのですが、最終的にできあがった記事は蒼樹うめという人を実によく表しているのだろうと思える感じなんです。これ、インタビュアーがよかったのか、まとめた人がよかったのか。あるいは、問いに答える作者その人がよかったのか。いずれにせよ、結構いい感じの記事であったと思っています。

そして、漫画。実は私はこの漫画を読むためだけに買ったつもりだったんですよ。本編の漫画に変わらぬ質の面白い一編、仮に私はこの漫画のためだけに対価を払ったとしても悔いはなかったと思っていますが、けれどこの漫画だけがこの本の価値ではありませんね。イラストもよし、インタビューも漫画もよし。実際、そつなくまとまりながらも一歩質の高さを感じさせる、バランスよい好著だと思います。

2007年4月20日金曜日

楽器最適湿度保持剤ミュージックモイスチャー — 45 弦楽器用

こないだ、マイク を買ったという話をしましたね。M-AUDIOのAries。結構低廉なマイクではあるんですが、けれどこれコンデンサマイクでありまして、ええと、マイクについてちょっと説明しますと、マイクは大別するとダイナミックマイクとコンデンサマイクの二種類あるのですが、一般にコンデンサマイクの方が音質がいいといわれます。だもんで、私もコンデンサマイクを選んだというのですが、けど世の中うまい話ばかりではなくてですね、コンデンサマイクにもちょっとデメリットがあるのです。扱いに注意がいるっていうんですね。繊細な機器なんだそうです。衝撃に弱く、そして湿気にも弱いとか。だから保管時には防湿庫に入れましょうというんですが、そんなの私持ってない。だからタッパに除湿剤放り込んで、防湿庫がわりに使っています。

ここまで、ついこないだまでの話です。その後、調べて知ったことなのですが、コンデンサマイクの保管に際し、あまり湿度が低すぎるのもまたよくないんだそうです。マイクの内部に使われているゴムや樹脂などが低湿度のために割れを生じさせるとかいうんですね。だからあまり乾燥させないように、それこそギターがそういわれるように、50%程度の湿度を保ちましょうとのこと。いやはや、参りました。そんなことつゆ知らず、乾燥剤をそのまんま放り込んでいましたよ。これ、はじめての楽器、AriaAD-35を買ったときに入っていた乾燥剤なんですが、いわゆるシリカゲルですね。明らかに湿度をとるだけが目的でしょう。だから、ほんとはよくなかったのかなあ。ちなみに、低湿度にさらされていたマイクというのはM-AUDIOのPulsarで、見るからに金属金属した外観のマイクではあるんですが、中身となるとどうなのかさすがにわかりませんわね。もしかしたらちょっとダメージ加わってるのかもなあ、なんて思いますが、まあ過去をくよくよ嘆いても仕方ないので、これからできることを考えたのでした。

まあ、単純な話でして、除湿剤ではなく、湿度保持剤を買おうというんです。マイクを買いにいった日に、湿度を50%程度に保ってくれるような乾燥剤はないですかと聞いてみたら、出てきたのが株式会社S. I. Eの楽器最適湿度保持剤ミュージックモイスチャーでした。これ、45という数字が付されていまして、どういうことかというと、だいたい45%の湿度を保ってくれるのだそうです。45%+-5%であるそうで、ああ、これは理想的かも知れませんね。他にも除湿剤乾燥剤の類いはありましたが、保持湿度の記載のあったのはこれくらいだったので、ちょっと高かったけれど、これを買いました。帰ってきて早速マイクいれ(タッパ)に放り込んでいます。

ミュージックモイスチャーはだいたい2500円くらいするのですが、内容量は80g(2袋入り)です。マイク箱にはひとつで充分でしょう。というわけで、手もとに一個余ってしまって参ったなあ。いやね、どうもこれの有効期限というのは約一年であるらしく、だからひとつだけ使って、もうひとつは来年用になんていうのは無理そうなんです。しかし、どうしたものかなあと思って……、そうかギターケースに入れておけばいいんだ。

メインのギターはほぼ毎日出し入れされるものでありますが、ケースにこれを入れて、ある程度の湿度管理ぐらいはされてもいいかも知れませんね。これまで、約三年ほどそんなことちっとも気にされてこなかったけれど、やっぱりちゃんとすべきところはちゃんとしたほうがいいのかなあ。ということで、もう一袋の使い道も決まりました。早速放り込もうと思います。

  • 楽器最適湿度保持剤ミュージックモイスチャー — 45 弦楽器用

以下、適当に選ばれた楽器用品販売ページ

2007年4月19日木曜日

Nike Free 5.0V2

Nike Free 5.0みんな、聞いてくれ。靴買ったんだ、靴。ええと、ほら、随分前にいっていた靴、NikeのFree 5.0ですよ。その記事の書かれた日付を見てみると、ええと、2005年の12月か。欲しいと思ってから買うにいたるまで、一年以上かかったわけでありますね。でも、これに関しては、私のせいじゃありませんよ。だって、あの時私は大阪梅田のナイキショップ、それからちょっと大きめの靴屋にいっているんです。なのに、そのどちらにも置いていなくて、これはもう縁がなかったものとしてあきらめたと、そういう具合だったのです。でも、そんな具合に一度あきらめたにも関わらず、Nike Freeは頭のどこかに残り続けていて、そしてついに今日、靴を買うぞという気になったのです。ええと、午後三時くらい? ちょっと仕事が落ち着いて、Nikkei BPとかマイコミジャーナルとか見てたら、なんだか気になる記事がありまして、それ見た途端、そうだシューズ買おう! という気になったのでした。

その記事というのは以下のふたつ:

なんと、靴がロボットに変形するおもちゃが出るっていうんですが、しかしなんでまた靴をコンボイ司令官と破壊大帝メガトロンに変形させようだなんて思ったんだ!?

まあ、でもそれはいいんです。大切なのは、Nike Freeがまだ現役ラインナップであるということです。そうか、まだ買えるんだと思って、それで帰りに靴屋によったのでした。そうしたら、あったあった、ありました。Nike Free 5.0が二色、白と黒(というか、両方グレーだよね)が陳列されていて、おお、これは実にいい感じ。最初は濃い色の方がいいかなと思ったんですが、履いてみるとどうもなんだか靴が妙に浮いて見える。で、ナチュラルグレーに履き替えるのだけれど、そうしたら今度はなんだか実に薄い印象で、でもいいか。目立つよりさりげないほうがいいだろうということで、ナチュラルグレーを選びました。

でも、運がよかった。というのは、その靴屋に置かれていたのは展示の二点だけで、しかもそのサイズが両方27.5。正直ちょっと大きいんじゃないかと思ったんですが、0.5ほど大きめがフィットするという店員の話どおり、27.5で問題は感じられません。足入れはスムーズ、けれど若干の引っ掛かりも感じられれて、履いてみれば大きいという感じはない。よしこれでいこう。グレーをお呉れ。このまま履いて帰るよ。というのが、次の写真。

Nike Free 5.0

履いてみた感じはですね、かかとあたりなんかは、むしろこれ以前に履いていたエアモックの方がずっと薄くダイレクトに地面を感じられて、どんなに足に負担がかかるものか期待していたものだから、ちょっとがっかり。いや、だってもっと強烈ななにかがあるかと思ったんですよ。けど、この靴の真価は、実際に歩いてみてわかるという感じですね。いつもの帰り道、三十分かけて坂を上る途中、確かに足裏からふくらはぎにかけての感じが違うぞという感触がありまして、まず足裏が熱を持っている。ふくらはぎはというと、若干の疲労感みたいなものがあって、そうか、歩かないとわからないのだなと思いました。けど、本当は走るべきなんでしょうね。そうしたら一体どうなるんだろう。かなりわくわくさせるものがありますが、無理しても仕方ないので、今は歩きだけにとどめておきましょう。

で、楽しみなのは明日ですよ。ふくらはぎ辺りに筋肉痛なんかが出たら、こりゃすごいぞっていう実感がひしひしとすることでしょうよ。だから、ちょっと明日が楽しみ。けど、筋肉痛を期待するというのも変な話でありますね。

  • Nike Free 5.0V2

ちなみに、コンボイとメガトロンというのは、こんな奴ら。

このメガトロンというのは銃に変形するんだけど、ギゴガガと変形して隣にいる副官だかなんだかの手にすぽっとおさまるのだけは、どうにも解せなかったことを覚えています。アメリカ人はそんな小さなこと気にしないのかな。

2007年4月18日水曜日

暁色の潜伏魔女

 九州男児『ネコ侍』を求めての行脚、二店目は噴水近くの書店でした。ぐるり店内を見て回って、どうにも見当たらないようだからレジのお姉さんに問い合わせたのですが、その時、新刊の平積みに赤い表紙のぱっと目を引く漫画を発見。実は、この漫画には見覚えがありまして、いつもいく書店書店で見てはいたのですが、あんまりに手を広げるのも危険と思いあえて気にしないようにしていたのです。ですが、この漫画、袴田めらじゃありませんか。おいおい、ちょっと待ってよ。知らなかったよ。袴田めらと知ってたら見た瞬間に買うってば。こんな具合に、危うく気付かず見過ごしてしまうところをぎりぎり回避することができました。ありがとう九州男児さん!

まったくの予備知識なしで読みはじめた『暁色の潜伏魔女』ですが、読んでみて、非常に袴田めららしいよさのある漫画、一目で気に入りました。掲載誌(『コミックハイ!』)の意向を反映させたか、舞台は学園。ただその学校というのがちょっと普通ではなくて、魔法を使える人間を収容するという目的で作られた、そういういわく付きの設定です。そこへ転校してきた桜田暁を巡る人間模様、心模様がなんだかふんわりとして、けど時にしんみりと伝わってくる。このへんが袴田めららしいなあというところなんですが、いや、本当にいい感じ。過去に袴田めらを読んだことがあって、結構好きという人があったら、きっとこの漫画も気に入るんじゃないかと思います。

けど、欠点もないわけではないのです。ビジュアル面での弱さ。女の子は可愛いし、充分にその内面や情感を伝える絵ではあるのですが、けれどことアクション面の描写、盛り上がりを演出するということにかけてはぱっとしない感が拭えないのです。ほら、やっぱり魔法学園ものですから、魔法がどんとメインに出たりするのかと思ったら、そのへんが地味な感じになっちゃうから、ちょっともったいないと思った。まあ、出てくる魔法というのも地味なものが多く、またその地味さがいい味を出していると思うので(望月先輩の「抱きつくことによって自分の妄想を相手に見せる」魔法は最高だと思う)、これをもってことさらに欠点というつもりもないんですが、けどやっぱりちょっともったいないかなと思うんですね。

でも、派手さがない反面、静かに、内面を告げるような描写には長けていると思うのです。ナイーブな、そっと触れることによって伝わるようなやさしい温度の感じられる漫画。この長所があるから、他のいろいろは気にならなくなる。展開も波乱含みのまま長く引き伸ばされるかと思ったところが意外にあっさりと語られたりして驚いたのだけれど、その一見あっさりとした中に深く共感させるシーンが続いたりするから侮れなくて、そして私はこの人の漫画のそういうところに参っているのだと思います。漫画の素直さ、登場人物の飾らない感じが多くを伝えてくれるから、受け入れる感性のチャンネルさえあれば、この人の漫画のすごく豊かであるということが、きっとわかると思います。

  • 袴田めら『暁色の潜伏魔女』第1巻 (アクションコミックス) 東京:双葉社,2007年。
  • 以下続刊

2007年4月17日火曜日

かよちゃんの荷物

 頼んでいたマイクを受け出しに楽器屋にいくついでに、向かいの書店にも寄ったのでした。最初は、なんとなく買わずにいた『ひだまりスケッチブック』を買っておこうと思って、それでついでになんか評判いいらしい九州男児の『ネコ侍』も買おうかなと思って。で、久々の表紙買い。タイトルは『かよちゃんの荷物』。聞いたことのないタイトルに知らない作者の漫画だったのですが、四コマのコーナーに平積みされていたその表紙の雰囲気がどうにも気になったのでした。ちょっと昔っぽい、昭和臭さといっていいのか、そういうあかぬけない感じの絵柄になんだかひかれるものを感じたんですね。どうしようかな、ちょっと迷ったけど結局買ってしまいました。

竹書房のバンブー・コミックス。てっきり四コマだと思ってページを開いたらストーリーもので驚きました。あちゃあ、やっちゃったかなと最初は思って、オープニングの二ページ読んでちょっと微妙かなと思って、というのは、なんだかヒロインのかよちゃんが可愛くない。ちょっとだらしなくて、いいかげんで、人のよさそうなかよちゃん。けど、そんなことよりももっと気になるところがあって……、あの目が飛び出る表現ってのは今どきどうかと思う。いや、ほんまに。申し訳ないけど、かなり脱力するものを感じた、正直な話です。

と、のっけからネガティブトークですが、けどこのかよちゃん、本編に入れば、なんだかわりといい感じよね。漫画としては、ええと、どういうジャンルなんだろう。女性が友達同士、とりとめもないことしゃべったり、けどそのわりに遠慮なく気になるところをずけずけ突いてみたり、そんな感じの女三人友情もの。ヒロインが味があっていいなあと思うんです。ちょっとぐうたらでむら気があるというか、熱しやすく冷めやすい感じかね? 今の状態は駄目だと反省したかと思うと、いややっぱり今の感じがいいやみたいに落ち着いてしまうし、なんか開き直ったみたいに呑気かと思ったら、妙に焦りだしてみたりもするってところ。多分、男はこういう女性を好かないよね。けど、私はかよちゃんみたいな人なら、友達に加えてもらいたいなんて風に思って、だって楽しそうじゃないですか。つきあうとかつきあわないとかじゃなく、一緒になんか馬鹿なことしゃべったり、たまには厳しいこといったりいわれたり、他人には伝わりにくい妄想トークを聞いたり聞かせたり、そんな関係はすごく楽しそうだ。けど、私は男だから、女友達のそういう輪には、かたち加わることができても、本質的に入り込むことはできないんですよね。私はそれが寂しい。だから、時にこういう女同士のフランクな、本音も出ちゃうというかむしろだだ漏れというか、そういう雰囲気を伝えてくれるこういう漫画が好きなんでしょう。なんか、憧れてるんだと思います。

ああ、男になんて生まれるんじゃなかった。

まあ、それでもかよちゃんはかなり個性的なほう、有り体にいうと変わった人だと思う。普通の人なら漫画にならんという気もしますが、けど私は変わり者の方が好きだから、人に迷惑かけないタイプの、普通の領域からこぼれ落ちる人が大好きだから。そういう点では、この漫画は非常に私向けだった。変わり者に優しく、けどそれはエキセントリックなんじゃなくて、誰もが内面に普通から逸脱する自分をもっているから、誰もに優しいってことなんだと思う。ぎょっとするようなシビアな、シリアスな話が裏に隠れていたとしても、取り返しのつかなくなる前にそっと手を差し伸べるような、そういうやさしさがあるんだったらきっと世の中というのはいいよねと、そんな風に感じる漫画でした。

  • 雁須磨子『かよちゃんの荷物』第1巻 (バンブー・コミックス) 東京:竹書房,2007年。
  • 以下続刊

2007年4月16日月曜日

Audacity

先日、楽器店に注文したといってましたマイク、M-AUDIO Ariesが本日入荷との連絡あり。おお、予想通りというか、実にいい感じのタイミングで到着したじゃありませんか。実は私はこのところ友人相手に歌うたって、こういう風に歌える場のあるということ、なにより聴いてくれる人がいるっていうことが嬉しくて仕方がなくてですね、ようしもっといろいろ歌っちゃうぞー、みたいな気分なんです。そこにボーカル用のマイクが登場。わー、これでギターにはギター用の、歌にはそれ用のチャンネルが用意できるぞ! 質の向上間違いなしだ! みたいな感じで喜んでいるのですが、もちろん持て余してしまったりしたらそれどころじゃありませんね。なんとか慣れて、うまく使えるようになりたいもんだとわくわくする思いです。

マイクが届いたら、これ使って歌って聴いてもらうのももちろん素敵なことには違いないのですが、それとは別に録音をやってみたいと思うんですね。録音。そういえば、以前iLifeが欲しいなんていってましたっけね。もっと具体的にいうと、iLifeに含まれるGarageBandが欲しいのですが、いや、だってね、シンプルに洗練されたインターフェイスが魅力の音楽制作環境ですよ。8トラックの同時入力に対応し、歌とギターを録音できれば当座は大丈夫と思っている私には、もうなんの不都合も不満もないソフトじゃありませんか。とかいいながら、実は私このソフト買っていません。いや、高いとか金払いたくないとかいいたいわけじゃないのです。この機能でこの価格ははっきりいって安すぎると思います。けど、なんでか今まで買いそびれてきて、というのは、どうも私は録音やら編集やらはWindows上でやる方向に進んじゃったからで……、なんでなんでしょうね? いや、理由はわかってるんですが。普段使いのMacintosh上でなにかあったらことじゃないですか。そんな理由で、Windowsで録音やらいろいろしているわけです。

けど、最初はなかなか気の利いたソフトウェアを見つけることができずにいて、そんなときに人から教えてもらったのがAudacityそしてKRISTALというソフトです。これ、前者はGPLで公開されるオープンソースのソフトウェア。後者は個人利用、教育的な利用、非商用利用に関してはフリーで使えますとのことで、いずれにしても太っ腹だなあ。

これら、無料で使えるとはいいましても、機能が低いなんてことはなくてですね、両者ともに16トラック対応。Audacityのサイトを見ると、Record up to 16 channels at once、一度に16チャンネルの録音ができるだなんて書いてあって素晴らしい。で、両者ともにVSTプラグインに対応。はっきりいって、これでもう充分じゃん。以前にもちょこっといってましたけど、私はリミッターにコーラス、リバーブ、ディレイあたりがちょいと使えればそれで充分なんです。だから、AudacityKRISTAL以上のソフトは正直必要なさそうで、しかしこんなしっかりとして高機能なソフトウェアが無料で使えるとは、恐ろしい時代になったものだと思います。

KRISTALにあってAudacityにない機能というと、ASIO対応あたりかなあ。いや、調べれば他にもいろいろあるんだけど、Audacityが96KHzまでの対応に対し、KRISTALは192kHzまでいけるなど。けどこのあたりまでくると正直私にはオーバースペック。気にしているのはやっぱりASIOへの対応状況かなあ。ASIOというのはなにかといいますと、こうした音を扱うソフトとインターフェイスを取り持つドライバでして、音の遅延を少なくしたり、音質の向上にも役立つとかいう話です。でも、まあ多分私には使いこなせないだろうなと思うから、まだ考えなくていいか。今すべきことは、とにかく録音して、経験を増やしていくことだろうと思うのです。その結果、今の環境に問題ありと判断したなら、上位機、上位ソフトを試していけばいいだけで、だから最初はこれらフリーで使えるソフトで経験を積むのがいいのでしょう。

さて、私が選んだのは表題にもありますようにAudacityです。理由は簡単。最初に教えてもらったのがこっちだったからというだけの理由。とりあえずこれでいろいろやってみて、物足りなかったらKRISTALを試せばいいや、などと考えています。で、今はというと、あんまり物足りなさを感じていないから、これからしばらくは、あるいはずっと? Audacityを使っていきそうな感じです。

対抗

引用