2007年4月24日火曜日

インターネット図書館 青空文庫

 著作権の保護期間延長に反対しますさあ、そろそろ私も本腰を入れないとな、って一体なんの話かといいますと、著作権延長に関する署名ですよ。パブリックドメイン作品を所収、公開するインターネットの図書館、青空文庫が取りまとめている著作権保護期間の延長を行わないよう求める請願署名、これの第一次締め切りが来週4月30日に迫っています。だから、そろそろ私も頑張らないとと、そういう話です。

でもどう頑張ったものかなというのが難しくてですね、なかなか職場とかでこういう話ってしにくくってですよ、ほら、一般の人ってやっぱり著作権とかあんまり興味ないんですよ。ふーん、みたいな感じ。だから? みたいな感じ。伝わらないなあ、もどかしいなあなんて思うのですが、もとより興味のない人に、50年が70年に延長されます、ぜひ阻止するための署名をなんていっても、悲しいかな全然訴えないのです。だから、草の根活動じゃないけど、ほら、おたく、マニアの人たちは著作権意識に敏感ですから、そうした人にこういう動きがあるんだぜといってまわる。手持ちがあれば署名の用紙を渡す。これくらいかなあ。私はどうにもこういう手管に長けていなくっていけません。

著作権の保護期間延長が呼び水となってか、このところインターネット上では著作権に関する議論、意見が花盛りで、けどこれは以前にもいったけど、目にするのは圧倒的に反対意見ばかりに思えるんですよね。そりゃ賛成意見もあるし、目にもするんだけど、けどそもそもが少ないし、それ以前に説得力に欠けるし、という感じで、議論やネット上の趨勢を見るかぎり、延長反対派の方が優勢と感じられるのです。

保護期間延長に関し、私の意見は以前にいいましたとおり。

著作者が、著作者の権利が守られることが大切ということは重々わかっています。だから私は、なるたけ借りず、中古も利用せず、著作者に利益が還元されるようなやり方でもって著作物を入手しているのですが、ですがそんな私でも、死後70年の保護期間はあまりに長すぎると感じるのです。いや、実をいうと50年でも長いと思っている。生きてる間だけでいいじゃないかと思ってる。

これ、結構思い切った意見のつもりでいたのですが、けれど世の中には私なんぞが足もとにも及ばないような方たちもいらっしゃって、例えば落語家の三遊亭圓窓氏。曰く、延長ではなく短縮してほしい知を共有するためには(著作権を)なくした方がいいくらい。さすがです。口承文学、口承芸能に関わる実演家としての意見として、実によく状況をえぐっています。

私は音楽に関わってきた人間ですが、音楽は過去より綿々と伝えられてきた蓄積をベースにして新たなものが生み出されるという側面を持っていて、けどこのいい方は実はフェアじゃない。なぜなら音楽の広がりは過去という方向にのみ見られるものではなく、同時代の地平にも広がりを持つからです。なにかを作る人というのは、自分とかかわりの深いものに触れ、影響したりされたりしながら、お互いにその内容を交換しあったりもしながら、作り上げていくんだと思う。これはファインアートと呼ばれる分野でもそうだし、私みたいなものでも同じ。あ、こいつは面白いやと思ったフレーズを改変しながら使い回したりは、それこそクラシックの大音楽家みたいな人たちでもそうなんですよ。

そもそもさ、教会音楽なんていうのもそうだったんです。グレゴリオ聖歌の旋律を中心に作品を構築していったんです。また、パロディミサなんていうジャンルもあった。そこには当時の流行り歌の引用なんてのもあって、こうした引用をいうのなら、バッハの『ゴルトベルク変奏曲』に有名なのがあるし、とこんな感じなんです。

けど、今みたいに著作権がごりごりにいわれるようになると、そうした作り方は難しくなりますよね。それこそ歌詞がちょっと似ているからといって、いきなり私の作品の根幹をなすフレーズを盗んだ! みたいなクレームを受けたりするんですよ。って、一体そりゃなんだといいたい。そりゃぱくりはどうかと思うけどさ、けどじゃあオリジナルっていうのはなんなんだ。

私は常々思っているのですが(そしてこれが修士論文のテーマであったのですが)、オリジナルというのは作り上げられた成果物そのものについてをいうのではなくて、その作るという過程に残る手跡(マニエラ)なんですよ。いかになすか、どのように作り上げられたかというそこにオリジナルはある。ところが今の著作権云々っていうのは、自分のマニエラの残ったものをいかに他人に触らせないか、他者の手跡の付くことをどう阻害するかにあるようで、けど私はそれは違うんじゃないかと思っている。だって、その自分のマニエラの残った著作物っていうのも、マニエラを取り除いてしまえばどこかからの借用であったりするんですよ。借用といういい方に語弊があるなら、過去ないし同時代の誰かが作り上げ積み上げてきたもの — それを私は環境と呼んでいるのですが — から生まれた、どこかのなにかにルーツを持つ、あるいは包摂されるものに過ぎないじゃないか。これは特定の著作物についていっているのではなく、すべての、あらゆるものがそのようにしかあり得ないのだと、まったくの無から生み出されるものなんて残念ながらないのだといっています。

申し訳ない。長くなりすぎました。もう終わります。

山形浩生は彼一流の筆致でもって、延長論を批判しています。驕るな、クリエーター! 著作権保護は「創作から5年」で十分がサブタイトル。乱暴にまとめると、特権意識振りかざしてるけど、クリエーター気取りアーティスト気取りのあんたらってどれほどのもんなの? っていうような記事、取り立てて著作権者が保護される(しかも死後の家族まで!)という状況は、あまりにもバランスを欠いているんじゃないのという意見なんですが、語り口こそ過激ですが、けど内容は多くの人が感じていることを代弁するものだと思います。

で、これはちょっと違うのだけど、水野博泰の記事、『誰のためのデジタル放送か?(後編) (ニュースを斬る)』、このサブタイトルは「著作権保護」は既得権益を守るための便利な口実でして、コピーワンスについての記事なのですが、私がアンダーラインを引くならばこれかと思います:コピーワンスが守ろうとしているのは、現場の著作者の権利ではなくて放送局の“搾取権”なんです

このコピーワンスの文言を保護期間延長に置き換えてみても充分通じるフレーズであると思います。というわけで、最後に絵文禄ことのはの記事をひとつ紹介して、このうだうだと長い記事を終えたいと思います。

引用

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