2009年1月15日木曜日

手紙

 書店にいって、谷川史子の新刊を見付けて、そうなればもう買わないではいられない。私は、谷川史子のファンなんですよ。学生のころ、別の漫画目当てに買っていた雑誌にこの人の漫画が載っていて、それがどうにも気になりましてね、『くじら日和』でしたっけね、単行本が出れば買いまして、さらには既刊にも手を出して、もう好きで好きでしようがありませんでした。思えば、あのころ読んでいた少女向けの漫画、今も継続的に読んでいる人といえば、もう谷川史子くらいしか残っていないんじゃないかな。他の作家は、だんだんに疎遠になったりして、それは私の年齢がいって、どうにも馴染まなくなったってことなのだと思います。ですが、谷川史子だけはちょっと違っているようで、今も変わらず好きであるようです。新刊が出れば買う、それも、ただ買うだけではなくて、ああお元気に活躍していらっしゃるんだと、まるで近況お伺いするような気持ちで買う。そうした気持ちにさせてくれる作家は、確かにほかにもありますけれど、でも谷川史子に関してはそうした気持ちが非常に強く、それはとても不思議、自分自身からがとても不思議であるのです。

その新刊は、タイトルが『手紙』。ちょっとした誤りから読んでしまった他人宛の手紙。そして返信。私は最初この導入に、うわっ、さいてー、と感想をもらしてしまって、いや、だって、そうでしょう。なりすましですやんか。手紙というものは、相手に自分の気持ちを伝える大切な手段。それをインターセプトしたのみならず、よりによって返信してしまう。ひでえヒロインだな。しかも、その誤ちに気付くまでが長い。それはもう、無神経の域に達していると思ったほどでした。

しかし、そこから展開する物語の見事なこと。私は、この時点で、一点をのぞき、この話の仕掛けがわかってしまったんだけど、けれどそんなこと気にさせないくらいの大きな感情のうねりがあって、私の心はすっかりもっていかれてしまったほどです。しかも、これは長編ではない。短編なんです。長くない、それに、内容にしても特に新規という感じもしない、オーソドックスで、よくあるといえばそんな感じの話であるというのに、あらがえなかった。いや、むしろ、自ら身をゆだねたのかも知れません。とんとんとん、と進んでいくテンポのよさには、持ち前の陽気さ、明るさが添えられて心地良く、そしてラストまわりの揺り返し。涙が止まりませんでした。大げさなことはいっていない。それはとてもありきたりなこと。しかし、それはきっと誰もが感じることであるのでしょう。身に迫る実感が、つらくもあり、切なくもあり、この少女という季節を抜けて大人になりつつある頃の思い、それはとうに青年でさえなくなっている私にも容易に重なって、重み、確かな手応えを残したのでした。

収録の三編は、ハッピーエンドもあり、ちょっと悲しい終わり方をしたものもあり、けれどそのどれもに、人の誰かを思いやる、そうした気持ちがあふれていました。かけがえのない誰かのことを思う。しかし、人というものは哀しいもので、そのかけがえのないということを時に忘れてしまうんですね。あたりまえと勘違いしてしまう。そうなれば、思いは軽んじられて、ないがしろに、粗雑なものにされてしまう。そして、いつか後悔する日がくるのです。その後悔とは、きっとたまらなく深いものになるはずで、というのは、私もまた、そうした後悔に苦しんだことがあるからなのですね。

かけがえのない誰かが身のそばにあるときには、精一杯心を砕かないといけないんだ。そうしたことが語られた漫画であったと思います。見せ方はさまざま、仕掛けもいろいろでありましたが、語られることの真ん中には誰かを思うということがしっかりと息衝いていて、時に暖かく、時に切ないのでした。わずらわしいと思う気持ちが、心を遠ざけることがある。自信のなさや迷い、怖れが、人を思う心を弱らせて、ひとりよがりに陥ってしまう。けれど、谷川史子はそこに健やかさを一滴落してくれる。それが、あたりまえのことをあたりまえにできない、そうした弱さをはらってくれるように感じられるのです。朝の光が夜をはらうように、昨日の悲しみは少しいやされ、とげとげしかった気持ちもやわらげられる。そんな感覚が気持ちのよい三編でした。

  • 谷川史子『手紙』(りぼんマスコットコミックス クッキー) 東京:集英社,2009年。

2009年1月14日水曜日

NHKスペシャル|シリーズ 女と男 最新科学が読み解く性

一昨日の夜、黙々とBlog用の文章を用意していた時のこと、母の見ていたテレビが妙に気にかかりまして、なにかというと男と女の差を扱った番組です。脳の理解が進んだことで、男と女の得意とすることが違うということが、次々わかってきているといいます。ほら、ずっと前に話題になった本で、『話を聞かない男、地図が読めない女』というのがありましたけれど、そういった類の話だと思ってくださればよろしいかと。この番組におきましても、男は空間把握に長け、女は言語能力に優れているなどなど、そういった話がなされていて、そしてそれはかつてヒトが狩猟採集生活を送ってきた、その名残りなのだというのです。男は、逃げる獲物を追って遠出をした後、最短距離で帰るための能力が求められた。対して女は、動かないものを採集するため、目印を頼りに移動していたなどなど。しかし、これだけなら特に真新しい話ではなく、だから音楽など聴きながら適当に見ていたのです。それが、きちんと見よう、そう思ったのは、途中途中に差し挟まれた小芝居、そのあまりの意外さのためでありました。

小芝居といいますか、ミニドラマだそうです。筧利夫と西田尚美のふたりが、なんだか居酒屋? いや、定食屋だっけ? でなんかやってる。それが妙にコメディタッチで、それがあまりにNHKスペシャル風ではなかったものだから、飽きた母がチャンネルを変えたのかと思ったくらいでした。けれど、気がつくとNHKスペシャルに戻っている。なんだろうと思って母に聞いてみれば、チャンネルはそのままだというんですね。そうか、あの小芝居含めてNHKスペシャルなのか。ここで、私はヘッドホンをはずしました。無視できないくらいに、興味が大きくなってしまったのですね。

母のいうには、この番組はその前日もやっていて、その時のテーマは恋愛であったのだそうです。そうかあ、どんなだったんだろうとNHKのサイトを確認してみれば、なんだか面白そうだ。再放送予定を見れば、14日午前にあるという。なので、遅ればせながら見たのでした。

恋愛における男と女の脳の働きの違いが語られていました。男は視覚優位、女は記憶優位であるという話。それは男は、相手が子供を産めるかどうかを視覚情報にもとづき観察する。女は、子を産み育てるに際し相手が協力的であるかどうかを、その行動の記録から判断するというんですね。しかし、そうして育まれた愛は、せいぜい三年四年で終わってしまう……。なぜか。その理由と、そして破局を避けるにはどうしたらいいのか。米国での離婚防止の取り組みなどが紹介されて、ええ、正直にいいますが、これは本当に役に立つ番組であったと思います。

いや、役立てる機会があるかは別の話ね。ただ、いつなんどきなにがあるかわからないのが人生ですから。

この番組は、ミニドラマで興味を繋ぎつつ、現在わかっている事実をわかりやすく紹介し、そしてその結果が社会にどうフィードバックされているか、例えば第1回なら離婚防止のカウンセリングであり、第2回では男女別クラスであるなど、理屈とその実践をバランスよく紹介しているところがよかったです。女性との話し合いを口論にしないためにはどうしたらいいか。クライアントの性差によって効果的な営業のアプローチはどう違ってくるか。男の子に教える場合、女の子の場合、それぞれどういうやり方が適しているか。それらは、ただの知識にとどめてもいいし、あるいは人生における実践の場で役立ててもいい。それは見た人次第でかわってくる。そうした発展の可能性、広がりを持ついい特集であったと思います。

2009年1月13日火曜日

キミとボクをつなぐもの

 『キミとボクをつなぐもの』は、ご存じ荒井チェリーが『まんがタイムきららフォワード』にて連載していた漫画であります。芳文社では主に四コマを描いている作者ですが、これは掲載誌の関係もあって、コマ割り漫画でありました。連載の開始されたのは2006年。二年近くかかって完結した、こうして振り返ると意外に息の長い連載であったのですね。内容は、当時の流行を受けたのでしょうか、生まれ変わりものです。ひょんなことから前世の記憶を取り戻してしまった美少女浅川真雪が主人公伊達朝陽に迫ります。といっても、特段オカルトに走るわけでもなく、というか、作者はそちらの方面に関しては割と冷淡な感じであるから面白い。物語の都合から生まれ変わりは肯定されてしまうのだけど、序盤においてはやれくだらないだ、やれおかしいだ、おそらくは作者の地が出ていて、そうしたリアリスト的視点と少しオカルトな物語が、融和するでもなく進んで、なんとなく混ざり合って解決した。そのような構造が、煮え切らないといえば煮え切らない、けれどその曖昧性もまたこの人の味なのかも知れないと思われるラストでありました。

物語は、最初にいいましたとおり、前世の記憶や生まれ変わりを扱うオカルト志向。前世を見通す能力を持った少女も出てくるなど、描く人が描いたら、きっと強烈なやばさを感じさせるものになったかも知れないような話であるのですが、しかしさすが荒井チェリーというべきでしょうか、結構なあっさり風味にしあがっています。ただ、恋愛を扱ったコメディとしても少々薄味という感じもしますが、それはこの人の作風でしょう。他の連載でも、誰かが好きとか嫌いとかいいだしたりしているのに、恋愛ものにシフトしたりする気配はありません。恋愛となると、その方面にのめり込むかのように没頭させてしまう作家もありますが、荒井チェリーに関しては、恋愛至上主義という考えなどは露ほどもないのかも知れません。

以上のようなわけで、前世の因縁がからみあう恋愛のドラマティックを期待する人にはおすすめできない漫画であります。浅川に翻弄される主人公にしても、前世の記憶や過去の関係に悩まされながらも、実質は自分の魅力にも相手の気持ちにも鈍感である浅川の性格に手を焼いているという感じです。こうした印象が、オカルトを題材にする漫画でありながらも、そうした雰囲気に沈みこむまでには至らせないのかも知れません。あくまでも軸足は現在の彼らの関係にある、現在の彼らの気持ちに置かれているってことなのかも知れません。

生まれ変わりもの、前世ものといえば、私たちの世代ではどうしても『ぼくの地球を守って』が思い出されます。あれは、前世とその記憶に翻弄される少年少女を劇的に描いて、強烈な印象を当時の読者に残しました。ちょっとした社会現象として扱われた、全国紙が前世を求める青少年を特集するくらいでありました。そしてその物語は、登場人物たちに、前世を乗り越えさせることで完結したのでしたっけ。

『キミとボクをつなぐもの』もそうした道筋をたどって終結して、それはこと前世というものを扱うかぎり、こういう決着しかありえないということなのかも知れません。あるいはまったくの対極に振れて、前世に、因縁に飲み込まれるという方向にいくのでしょうか。しかし、この漫画は、過去は過去として、それらを乗り越えさせる方向に進みました。前世は現世における出会いもろもろをうながしはしたものの、現在の物語は現在の彼らが紡ぐのだ、そうした前向きな終わりかたをしてみせて、それは私は、前世などというオカルトに振り回される人もある現在における、健全のひとつのかたちであると思います。

2009年1月12日月曜日

森田さんは無口

 佐野妙は私にとっては『Smileすいーつ』の作者であります。姉と妹の暮らしを描いた漫画、姉が妙に色っぽいことがあって、別にそうしたニュアンスを強調しようだなんて風でもないのに、ドキッとさせられる。あんな素敵な人が上司だったら、どんなにかいいだろう。そういう気持ちになったことは、一度や二度ではありません。さて、私は『Smileすいーつ』ですっかり佐野妙の漫画を気に入ってしまったようで、だから『森田さんは無口』という漫画が出るよと聞いたとき、どんな漫画か知らないけど買い決定だ、そう心に決めた。いわゆる作者買いってやつですね。そして実際に買ってみたのでした。

森田さんは無口、ええ確かに無口であります。けれど、それは本当に無口、しゃべろうとしないのではなく、話そうとするその時に、どう話したらいいか、あるいはこれはいうべきことだろうか、いろいろ考えすぎた挙句に話す機会を逸してしまう。結果無口、寡黙と見られることになってしまい……、そうした森田さんの身の回りに起こることを描いた漫画であるのです。結構これが面白くて、けれどそれは『Smileすいーつ』とは違うタイプの面白さでありました。私はこの作者のまた違ったアプローチを知って、こういうのも悪くないなと思ったのでした。

違うのはアプローチ、私はそういいました。ということは、変らないものがあるということ。それは、人との繋がり、関係性ではないかと思います。森田さんが見る友人たち、そしてクラスメイトの見る森田さん。森田さんの真実を周りの皆は知らない、誤解している。逆もまたしかり。ある種の変わり者である森田さんの見る世界認識は、やはりちょっと独特なんだと思う。しかし、こうしてすれ違い続ける認識、誤解の積み重ねがあると思えば、そうではない、ちゃんとわかっているという関係もあって、例えばそれは森田さんの友人である美樹がそう。そうした関係性の違いに生じる濃淡、わかりわかられ、あるいはともに誤解する。そうした様を、一望できるというところが面白いんじゃないかと思ったりしています。

しかし、この漫画に対する、いやはっきりいおう、森田さんに対する感触は、実に危険な領域にある、そんな風に感じられてしようがありません。危険? ええ、ちょっと危険。先ほども少しいいましたが、私は読者の特権で、森田さんの真実に触れることができる、そんな立場にあります。それはすなわち、多くのものにとっては謎めいた存在である森田さんを、より正しく見つめることができるということであり、誰よりも彼女を理解しているのは私なんだっ、っていう錯覚に陥ることも可能ということです。だから危険。誰にでも好かれる、そんなキャラクターよりも、孤立ぎみのキャラクターにひかれる人には、ある種、訴えるものがあるのではないか。彼女は誤解されている、彼女のよさを知っているのは私だけだ、ゆえに彼女は私がまもるよ! こうしたパターンが確立されている人、そうした要素を受けて狂信的な愛に向かってしまうような人には森田さんは格好の獲物、失礼、ヒロインとなる可能性があります。

けれど、森田さんは特に孤立しているわけでもなく、その無口であるというところも含めて受け入れられている、つまり不幸ではない。いやあ、本当によかった。それは森田さんのためによかった、そして私のためにもよかった。私の狂信をトリガーする最大の要素は不幸です。森田さんには不幸の影はなく、たとえ誤解されて、ムラムラ、じゃないや、イライラするといわれることがあったとしても、そこには険悪といった印象はありません。だから心安らかに読める。そのテイストは、女の子社会におけるふれあい、であるような気がします。女子的コミュニティの雰囲気といったらいいか、それが私には新鮮であるように感じられて、長く女子的コミュニティに暮らしていたんだけどな。私にとって女子とは、なおも謎であり続けているようでありますよ。

さて、余談ですが、冷凍イカの目の森田さん、すごく魅力的でありますが、でもきっと、現実にこういう人がいたらムラムラ、おっと失礼、イライラするような気もするのでありますが、そうした森田さんにはじめはただの興味から、しかしいつしかただの興味ではすまなくなってしまっているような女子、あの眼鏡の娘さんが気になってしかたありません。

あ、それと、これも余談ですが、どうも私も磁石のM極の人間である模様です。あのお母さんも婀娜っぽくて素敵だなあ。

  • 佐野妙『森田さんは無口』第1巻 (バンブー・コミックス MOMO SELECTION) 東京:竹書房,2008年。
  • 以下続刊

2009年1月11日日曜日

山吹色のお菓子

Bright yellow coloured pastry今日、人と会う機会がありました。学生時分からの友人であるのですが、年に何度かあるイベントにいくと会える、そう、今日はそうしたイベントがあったのですね。そのイベントでのこと、新年明けて最初のイベントですから、挨拶まわりする人も多い、特に長年活動していたりすると、結構な繋がりができていたりするのでしょう。友人が山吹色のお菓子を貰っていたのでした。ふふふ、お主も悪じゃのう、そうした台詞がつい口をついて出そうになる、時代劇における定番お約束ともいえる贈答品。しかし、なぜそんなものが現代に!? それは、そうした名前のお菓子が実際に売られているから。知る人ぞ知る、というか結構有名? 山吹色のお菓子であります。

私も名前は知っていたのですが、実際に目にするのははじめてでした。詳細は、書いちゃっていいのかな? まあ、販売しているサイトにも詳しくあるのでかまわないっちゃあかまわないんでしょうが、けれど実際に目にしたときのインパクトを損ないたくないという人は、説明をすっとばして、末尾のリンクをたどってみてください。

山吹色のお菓子は、風呂敷を思わせる包装紙に包まれています。今回の場合は熨斗紙がついており、そこには袖の下の文字が! これ、注文時に熨斗紙を依頼できるそうなのですが、カスタムではないとのことです。つまり、選択肢に最初から含まれているというんですね。熨斗紙を取り除け、包装紙を開くと、現われるのは重厚さを感じさせる黒塗りの箱。山吹色のお菓子という箔押しの文字が眩しい。そろりそろりと箱を開けますと、薄紙の向こうにきらりと光るものがずらりと並んでいて、こ、小判ですよ!

この一連の作業、実にわくわくできる、楽しいものでありました。しかし、洒落の固まりみたいなお菓子です。熨斗紙のオプションにデフォルトで用意されている袖の下にしてもそうですし、そもそもこうしたものを実際のお菓子として作って売ってしまうというところからがそうです。しかも、サイトが素晴らしい。商品についての一問一答風FAQは山吹色の質問に玉虫色の回答ですし、熨斗紙説明ページの弔事の場合なんかもすごい。本当にセンスあふれるサイトであると思います。

このお菓子を拝見して、そのインパクトや面白さを見知って、そして、今の時代、不況とはいいますが、それでも必要なものはある程度いきわたっているといっていい状況に達した日本においては、こうした付加価値が重要になってくるのだろうなあと実感しました。付加価値とは、質の高さであってもいいし、こうしたエンターテイメント性でもいい。これはいい、面白い、話題性がある、なんでもいいから他にない価値を付加することが重要。その価値が認められれば、多少くらい値がはろうとも売れる。その価値を、たとえ無形であったとしても、買おうという人があるってことなんだなあと思いました。

こうしてかたちとして提示されれば、ああこういうのありだな、って思えるけれど、実際に作ってみる人っていうのは少ない。それこそ、コロンブスの卵の故事に似たものがあると思います。着想こそが価値だけれど、実現されるより前にそれを思い付けただろうか、そして思い付いたとしても実行できただろうか。大切なことは、発想することを忘れないこと、思い付きを思い付きのまま捨てないこと、行動することなのでしょうね。

お菓子、お裾分けをいただいています。これは、食べるだけならただのお菓子、けれどそこにはそれだけではない価値が上乗せされています。その様子に触れて、はたして私は自分にどのような価値を付加できるだろうかと自問、新年から少し新鮮な気持ちを呼び起こすことができました。

2009年1月10日土曜日

YAMAHA ソプラノサクソフォン YSS-875EXHG

 世間は不況だ、ものが売れないだとかいわれています。このままじゃデフレスパイラルに陥るぞ、とにかく今は消費を増やさないといけない、そういわれているのに、消費が増える気配はちょっとありません。ということは、この先にはやっぱりデフレスパイラルが待っているというのでしょう、いやだなあ。そう思ったものですから、ちょっと頑張って経済に貢献してきました。楽器、買ったのですよ。ソプラノサクソフォン。ほら、あの真っ直ぐなのがかっこいい楽器ですよ。私の心のようにねっ、っていいたいところですが、私はきっとカーブドネックを使っていくと思うから、残念、ちょっと曲ってしまっています。

買ったのは、昨年末に一目見て欲しくなった楽器です。YAMAHAの製品、ソプラノサックスでは最上級機種にあたるYSS-875EXHGでありますね。この型番、EXHGというのは、エクストラ・ハイ・グレードではなくて、High Gキー付きのEXという意味。ああ、EXがなんの略かは知りません。High Gキーというのはなにかというと、通常サックスでは最高音がHigh F#までなんだけれど、さらに半音上の音を出せるよう孔をあけました、ってことなんですね。これにより、高音域での演奏がさらに容易になりました、みたいなことがカタログには書いてあるけど、ただ孔をあけたら出るってもんじゃないからなあ。実際、今日試奏していたときも、確かに出るには出るんだけど、実用になりそう? っていわれたら、自分にゃ無理と答えたいところです。そもそも体力に劣り、少々へこたれてもいる私には、High Fくらいが限界って感じでありました。

試奏したのは、楽器を選ぶのではなく、楽器に取り付ける部品(といっていいのかな)、マウスピースを選ぶためでした。楽器っていうものは、こういうと語弊があるかも知れませんが、当たり外れがあるものなんですよ。いや、それはすべての工業製品にいえることではあるんです。車なんかでも、コンマ1秒以下で競い合うような世界においては、部品を精査して、精度の高さを追求します。楽器もそれと一緒で、とにかく性能命のものだから、同じメーカーの同じ型番のものでも、選んで使うのが普通のこととなっています。

その選定に数時間がかかってしまって、多分三時間くらいやってたと思います。あるいはそれ以上? ふたつのメーカーの5モデル、7本から最終候補を2本にしぼって、どちらがいいか、片一方は非常にオーソドックス、もう一方は広がりのある個性的な感触が面白かった。結果的に後者を選びました。マウスピースの個体差としては、前者の方が優秀だったかも知れないけれど、モデルとしての面白さで選びました。前者はバンドーレンのS27、後者は同じくバンドーレンのSL3で、そのどちらも息の入りはよかった(選ばれなかったものの中には、息が入らず、音量がかせげない個体もあったんですよ)。アンブシュアさえしっかりとしてくれば、高音から低音までしっかりと吹けて、しかしこれらは当然クリアされるべき最低限の資質です。よって、どれくらい表現しやすいかが重要になるのですが、まあどちらでもよかったと思っています。というか、余裕があったらそのS27も押さえておきたかったくらい。余裕がないから見送りましたけど。ちょっと未練ですね。まあ、S27を買ったら、SL3に未練を感じるに決ってるんですが。

サックスにおけるトップシェアは、おそらくはセルマーの製品だと思います。それはことマウスピースにおいては断トツで、あ、これはジャズじゃなくて、クラシックや吹奏楽での話ですよ、そういったわけで基準はセルマーということになっているらしいです。いやあ、それで参りました。サックスはマウスピースのほかにリードも必要なのですが、そいつをマウスピースに取り付けるためにはリガチャーという器具が必要で、それでもまた音が変わってくるので、当然また選ぶことになったのですが、バンドーレンのマウスピースはちょっと太いからリガチャーが合わないんです。ネジがしめられない。無理にやってゆがめてしまったら、お店に迷惑がかかります。唯一付いたのはロブナーで、しかしこれ重いっすね。抵抗感がすごくて、非力な私じゃ吹けない。ほんと、参ったなあ。お店の人に相談したら、バンドーレンのリガチャーが出てきて、そりゃもう当然ベストマッチですよ。なので、リガチャーに関しては選ぶ余地すらありませんでした。

余談だけど、アルトサックスでも私はバンドーレンのマウスピース、A20を使っているのですが、それにはハリソンのリガチャーを合わせています。これは、マウスピースの径に合わせて複数モデルが用意されているからこそ可能な組み合わせであるのですが、だから、ソプラノでもそうじゃないのかと思って聞いてみたら、カタログには1モデルしかなくって、ああもう、ソプラノってそんなにマイナーか! そんなにみんなセルマーが好きか! ひねくれて、星をにらんだ私でしたよ。

今回買った楽器は、プロ奏者による選定品。だから私が選ぶ必要はなかったのですが、いい機会だから875EXも試してみようと思っていたのです。もちろん、875EXの方がいいと思ったらそっちを買います。ですがそっちは売れてしまっていて、おお、私のほかにもソプラノ買った人いるんだ! 素晴しいなあ。ちょっと感動した。で、今の心配は、私の選んだマウスピースが正解であったかどうかがわからないってところですね。同じモデルの2本から選んだ、それはいいのですが、それはただましな方を選んだというだけで、たとえば30点と50点とあるうちの50点だったかも知れませんよね。もちろん30点と80点だった可能性だってありますよ。でも私には基準といえるものがなかったものだから、結局は相対評価にすぎず、レッスンにいってみたら、あんまりよくないね、っていわれるかも知れんわけです。不安だなあ。まあ、それもひとつの経験ですよ。

そう割り切って、これからさらに経験を積んでいきたいと思います。もしマウスピースに不満が出れば、その時には、きっともっとよりよく判断できるはずでしょうからね。ただ、バンドーレンを大量に置いているところってのを知らないからなあ。そういった情報を仕入れるのも、課題のひとつかと思います。

引用

2009年1月9日金曜日

夏乃ごーいんぐ!

  昨日、背の低いヒロインが好きだなんていってましたが、当月は同じく背の低いヒロイン夏乃陽子の活躍する『夏乃ごーいんぐ!』の4巻も発売されて、そりゃもちろん購入ですよ。私は、この漫画が好きで、たかの宗美の芳文社初登場となったこの連載に、ほー、知らない人だけど、面白い漫画を描く人が出てきたなあ。キャラクターもいきいきと動いて魅力的だし、なんて思っていたら、えらいベテランの人でした。ごめんなさい、存じあげませんでした。道理で、飛び蹴りが無闇にうまいわけです。

私がこの漫画にひかれたのは、背の低いヒロインが好きだから、ってのももちろんあるのですが、それに加えて夏乃陽子のアグレッシブさ、なんにでもポジティブに取り組み、必ずや成果をあげる、そのタフさに魅了されたんでしょうね。小柄、ちんまりとして可愛くて、声なんかちょっと聞き取れないくらいに小さくて、けれどアクションはダイナミック、やることなすこと強引、そしてなによりも元気で明るい。魅力的じゃないですか。ええ、すごく魅力的でした。

人は自分にないものに憧れるだなんていいますね。そういうことだったと思うのです。私はとにかく活力のない、そんな男でして、だから溌剌と仕事に取り組む夏乃陽子がまぶしく感じられた。夏乃陽子はデスクワークが嫌い、ですが私はまったくの逆で、体使う仕事が嫌い。そんな、自分と対極にあるようなキャラクターの活躍する様は、強引で無茶で過激で過剰なものでありましたが、晴れ渡った空のようなすがすがしさもあって、このすがすがしさ、さっぱりとして淀みのないところ、それが私にはとてもよかったのでしょうね。

おおっと、これって私が曇り空のように、どんよりとして淀んでるっていってるのと同じじゃないのんか? ……まあ、間違っちゃいないか。

夏乃のそうしたよさは、ただキャラクターの性格というだけではなくて、漫画全体からも感じられるような広がりを持っています。シンプルでわかりやすい。ひねったりうがったりするくらいなら直球勝負だ。そんな風にさえ感じられるネタは時に強引で、時に無茶なんだけれど、単純であるがゆえに面白いというところもあって、そして大切なのは単純だけど単調ではないってことだと思います。定番のネタでも、ちょっとした意外性をもって現われれば、おっと思う。しかもそれが勢いよく、最短距離を突っ切るようにして飛び込んでくるのだから、なおさらです。いきがいいなあ、そんな印象があざやかであるのですね。

さて、どんよりと淀んだ私のお気に入り夏乃はといいますと、4巻79ページ、綿入れ半纏はおって、横着に首つきだしてコップからお茶? すすっている姿だったりします。こういう、気取らない様子っていうのが好きなんです。気取らず、気張らず、真っ直ぐ。さっぱりとして実にいいじゃありませんか。

  • たかの宗美『夏乃ごーいんぐ!』第1巻 (まんがタイムコミックス) 東京:芳文社,2003年。
  • たかの宗美『夏乃ごーいんぐ!』第2巻 (まんがタイムコミックス) 東京:芳文社,2005年。
  • たかの宗美『夏乃ごーいんぐ!』第3巻 (まんがタイムコミックス) 東京:芳文社,2007年。
  • たかの宗美『夏乃ごーいんぐ!』第4巻 (まんがタイムコミックス) 東京:芳文社,2009年。
  • 以下続刊

2009年1月8日木曜日

先生はお兄ちゃん。

  先生はお兄ちゃん。』の第2巻が発売されて、およそ一年での単行本化、人気があるのだなあ、わがことのように喜んでいます。そういったこと思うのは、私がこの漫画のファンであるからなのですが、それこそゲスト掲載のころからなんかいいなあと思ってきて、それが人気があるようだときたら、嬉しく思うのも人情であろうかと思います。しかし、なにがそんなに面白いと思ったのか。主人公は背の低いことを悩んでいる妹。彼女には、妹大好きの兄貴がひとりあって、それがクラス担任をやっている。常軌を逸した妹偏愛ぶりに、皆はあきれ、当の妹はおかんむり、それがパターンとなっています。ありがちといえばありがちな設定です。けれど、これが面白くていいなあと思ったんですね。

なにがよかったのか。自問自答してみれば、やはり妹の可愛さがあるのではないかと思われます。ああ、あんた背の低い娘、好きだものね、っていわれればそうなんですが、けれど妹に関してはそれだけではなくて、その話し口ですよ。見た目、花のような美少女であるというのに、口調はきっぱりはっきりとして、むしろ凛々しさ感じるくらいで、だからもしこの妹が女おんなした口調性格してたとしたら、ここまで好きになってなかったと思う。ええ、私はこういったさばさばした人が好きなんです。男でも、女ならなおさら。だもんだから、この妹、桜木まゆはよかった。そして、もう一点、好きなものを前にしたときの妹のハイテンションぶり。それは、妹を前にした兄を彷彿とさせて、なんという似たもの兄妹! そう思わせるためのギミックであるのは重々承知しながら、そのギャップにやられてしまって — 、というのは以前にも話しましたとおりです。

第2巻では、不動不変と思われたこの漫画の設定にちょっとずつ動きが見えはじめて、兄が同僚の養護教諭神奈月子を少し意識しているような描写が出てきたり、登場人物、準レギュラーですかね、も増えて、妹をめぐる男性の影もちらほら、なんだかそれはこれまでになかった傾向を期待できそうで、いい感じです。そして、進級。私はこれに驚いて、この漫画は永遠の現在を高校1年設定で突き進むのかと思っていたのに、あっさりと進級。その際のアナウンスも気がきいていて、面白かった。ええ、随所に見られる漫画的表現や約束ごと、過去に蓄積されてきたものがうまく利用され、そしてうまく機能している、そういうところも私のこの漫画がいいなと思うところであります。

そうしたギミック的な面白さというのは、漫画としての面白さを工夫しようとしたその結果生じたものであると思います。楽しみまた楽しませようという思いは、毎回の面白さとして現われて、そして単行本ではおまけとしての描き下ろし、たくさん描きすぎて、収録本数削られたとのことですが、そのサービス精神には本当に頭が下がる思いです。それに、その描き下ろしがですね、実に気のきいたもので、本編漫画に+αされる面白さがとてもよかった。ああ、この雰囲気、やっぱり好きだと再確認するような気持ちで読めました。連載を追っていた人間も、新鮮な印象を得ることができる — 、それはひとえに漫画をよりよいものにしたいという意識のたまものでしょう。そうしたところからも、この漫画に対する作者の愛情といったようなものを感じられる、そんな風に思うんです。

2009年1月7日水曜日

恋愛ラボ

  今日はまんがタイムコミックスの発売日、というわけで、今日まで漫画の話をしないようにしてきたのでした。一年最初の漫画の話題はこちらです、ってやりたかったんです。しかし、なぜそこまで四コマに、しかもまんがタイム系にこだわるのか、って感じですが、まあ、私の四コマの入り口がまんがタイム系だったから、なんでしょうかね。

さて、一年最初の漫画の話題は『恋愛ラボ』からです。女子中学生たちが、理想の恋愛を思い描き、特訓をするというコメディなんですが、第2巻ではフルメンバーが揃って話もどんどん進んでいって、これがもう面白い。私の、かなり気に入っている漫画です。

『恋愛ラボ』は、あくまでも基本はコメディ。恋愛特訓の的外れっぷりを楽しもうという漫画であるのですが、いやはや、それがもうただごとではない感じで、よくもこうまで話を膨らませることができるものだ、読むごとにワンダーを感じてしまいます。

なにがワンダーなのか。基本優等生で深窓の令嬢風の真木夏緒の暴走が半端でないのです。なにが彼女をこうまで駆り立てるのだろうと思うほどに過激、苛烈、極端で、狙いどころは定番中の定番シチュエーションであったりするのに、なぜそれを実際に試すとそうなるの!? それは疑問であり、それは不思議であり、やっぱりマキはすごい、恐ろしい子! ワンダーなのであります。

当初は、ボケ役のマキにツッコミのリコ、倉橋莉子のふたりで進行していたコメディが、途中からスズ、棚橋鈴音が加わり、そして第1巻の最後でエノ、榎本結子とサヨ、水嶋沙依里が参加して総勢五名となりました。この、登場人物が増えるたびに、基本保守的で変化を嫌う私は心配をしてきて、散漫になるんじゃないかとか、面白さの質が変わってしまうんじゃないか、そんなことを思ってきたのですが、いやいや、全然問題ないですよ。参加者が増えてネタも広がり、またボケとツッコミの畳み掛けもよりその密度を増して、面白いなあ、っていうか、みんな夢見すぎじゃないのんか、とはいいながら、男も女も、ああして恋に異性に夢をもってしまうというのは、しかたのないことのようにも思うんですね。

うん、私もちょっとは夢見たくなることがあります。

登場当初は妨害者であったエノとサヨ。そのためにちょっと悪印象を持ったりもしたんですけど、だってエノはえらくツンツンしてるし、サヨは変に無敵キャラだしで、でもエノに関しては砂糖菓子発言から、サヨに関しては打ち明けて謝るなら今だったのにあたりから、その印象をがらりと変えて、いい子たちじゃないか、そんな風に思うようになって、ええ、この印象を一変させてしまった一連の流れ、これもまたワンダーであったと思います。実際、登場する子らをこうも皆個性的に描いて、そしてその誰もを魅力的に感じさせてしまう、その手腕はただものではない、そう思わせるに充分なものがあるのです。なんだ、いい子じゃないか。そうした印象は、読者である私だけでなく、登場人物間にもあるのかも知れません。なんだかんだ過去にあったとしても、それを引き摺ることなく、親密の度合いを増していく。そうした、友情を深めていくところ、それもまたこの漫画のよさであると思うのですね。

ええ、本当に素晴しい、そう思います。友人であるあなたをこんなにも大切に思っている、そうした気持ちが伝わってくるエピソードがあるんです。押し付けなんかでない、自然に素直な気持ちが伝わってきて、もう私は泣いて泣いて、こらえていた涙が、こう頬をスゥ…って。いや、ごめん、冗談なんかじゃなくて、あれは本当に泣く。コメディの楽しさの中に不意にさしはさまれたシリアスは、ただ物語を盛り上げるための薄っぺらな刺戟なんかではありえない、自分も感じていたことが今そこに描き出された、そう感じないではいられないほどに確かな重さを持った表現だったからこそ、涙を、共感を誘われるんです。それはもう、練習どころではなくなるほどに……。

すいません。ここは読んだ人しか相手にしない酷いBlogなんです。意味がわからない人は、多分、今年の後半くらいに第3巻が出るでしょうから、それを待ってください。私も楽しみに待ちたいと思います。

しかし、第2巻も見どころがかなりあって、それこそ個々のエピソードに触れていきたいくらいですが、それやるときっといつまでたっても終わらないので、しかしこの面白さは並大抵ではありません。そんな私のお気に入りはマキマキオ。エノが可愛いったらありゃしない。そういう私は、リコが好きですが、というか、あの娘はかなり魅力的だと思うですよ。ああ、そうか、私がこの漫画がいいなって思うのは、この娘たちに、私の嫌いな女臭さがこれっぽっちもないからなんだ。それは宮原るりの描く女性全般にあてはまるんだけど、自然体のその人らしさを感じさせる、そんなところがあるでしょう。その自然なさま、振舞いに、私はひかれているんです、きっと。

って、ほら、いつまでたっても終わらない。あ、そうそう、おまけにも言及しておきたい。子供っぽい友情と、少し大人になった友情、それが対比されるエピソード。一旦ウェイトを置いて、そして感情をふわっと広げてみせるそのやり方に、また、スゥ…、ですよ。ええ、彼女らの友情の確かさ、取り戻された関係、その幸いに、スゥ…。泣き笑いですね。ええ、幸いさに涙が流れることもあるんですね。

  • 宮原るり『恋愛ラボ』第1巻 (まんがタイムコミックス) 東京:芳文社,2008年。
  • 宮原るり『恋愛ラボ』第2巻 (まんがタイムコミックス) 東京:芳文社,2009年。
  • 以下続刊

引用

  • 宮原るり『恋愛ラボ』第2巻 (東京:芳文社,2009年),30頁。

2009年1月6日火曜日

無伴奏チェロのための6つの組曲

 去年の末にバッハの無伴奏チェロのための組曲の楽譜を買ったといってました。ただしそれはチェロの譜ではなく、サクソフォン用に編曲されたもの。昔、学生のころに練習しはじめて、楽曲の魅力にとりつかれてしまった、そんな話でありました。学生時分に使っていたのはコピーしたもので、今こうして原譜を手にいれて、久しぶりにまっさらの楽譜で吹いてみて、その景色の違いに新鮮味あるいは違和感を覚えたりして、いやあ、ちょこっと変わってるところがあるんですよ。アルマンドの最後から一小節、そこに確かにあったリタルダンドを示すrit. の表記が消されていて、なんでこれに気づいたかというと、そこの音符が手書きしたようにぐにゃぐにゃになってたからなんです。プレートナンバーは同じみたいなんだけど、使いまわしを続けたせいで、傷んじゃったのかな? 年月を経れば、楽譜の風景も変わるものなのですね。

さて、その問題のrit. ですが、コピー譜を見れば鉛筆で塗り潰されていて、どうも私はこのリタルダンドが気に入らなかったみたいですね。けれどこれは元ネタがあって、チェロの譜を頼りに、この編曲者がつけくわえただろう指示を消していったんです。私にとっては、あくまでもバッハの意図しただろうようになっている必要があったんでしょう。しかし、楽譜とは、それがどのようなものであったとしても、どこかに校訂者の意図の入るものであります。そうした中、演奏者はこれという楽譜を選び、そして研究者もまたこれという楽譜を選びます。

演奏者と研究者の好む楽譜は違っていることも多いのですが、最近の傾向だと、その差は縮まりつつあるのでしょうか。そもそも演奏からしても、演奏者の感性の発露よりも、作曲者の意図をいかに汲み取るかという方向にシフトしているわけです。そうした点からしても、両者の向おうとする地点は近いといえる、そんな気がします。その地点とは、できるだけ混じり気のない、作曲者の書いたとおりであろう楽譜です。

こうした、作曲者の意図が最も反映されたであろう資料をもとにして校訂された楽譜を、原典版というのです。作曲者の意図といっても、ことはそう簡単ではないのですが、だって一度出版されてからも変更が加えられるケースもあるわけで、特に、楽譜に書かれたものが音楽の完成品ではなく、あらかたの骨格を示す程度であるようなケースもあるわけで、楽譜にはこうあるけれど、実際にはオクターブ音を重ねて弾かれることが多かったとか、そういうことが書き加えられるようなこともあります。作曲者にとっても常に変化していた、そうした音楽をとどめる楽譜とは一枚のスナップショットに過ぎないのかも知れません。

まあ、そういう問題はあるにしても、校訂者がああだこうだと研究考察して、ひとつの結果を出す。それが原典版として出版されて、演奏者、研究者が手にする。その楽譜が解釈の出発点になっていくんですね。

私が音楽を学んでいた時、バッハといえばウィーン原典版あるいはベーレンライター原典版がよいといわれていたような覚えがあります。ウィーン原典版は赤い表紙、ベーレンライターは青い表紙で、当時私はようわからんままに、こうした楽譜を手にしていました。チェロ組曲に取り組んだときも原典版を図書館で探して、これを参考にしたんですね。ベーレンライターでした。けど、これが人気というか、いったい誰がストップさせるのか、最初のころ、なかなか返却されなくて往生して、しかたがないからファクシミリ(手書き譜の写真版)を借りたら、これがまたよくわからない。やっぱり印刷譜っていいですよ。

こないだ、古い友人と電話で話したとき、この曲の話題になって、彼はチェロ譜を見てやってるといっていました。そうか、それで充分いけるよな。そう思ったものだから、一番がある程度吹けるようになったら、今度はチェロ譜を買おうと思います。その際には、いったいどの楽譜がいいのか。実際に演奏する人は、どこのを使うことが多いのか。そういう情報を持たない私は、きっとベーレンライター原典版を選ぶような気がします。ここには、この楽譜なら間違いないだろうという信頼と、権威への弱さが見てとれて、いやはやいけませんね。ベーレンライターを選ぶなら選ぶで、なぜそれを選んだかちゃんと説明できるのが理想ですが、ちょっとできそうにないなあ。こういう横着さは、重々反省されねばならないところであります。

2009年1月5日月曜日

Gnome Partition Editor

今日は、新年最初の出勤日でありました。ああ、今日からまた一年が始まるな。そう思いながらの出勤は、特になにか晴れ晴れとしたものがあるわけでもなく、昨年に予告されていた仕事、機器セットアップの手順をどうしようかというものでありました。機器セットアップといってもたいしたことはなくて、職場で使うコンピュータに必要な設定を施してソフトウェアをインストールするという程度。まあ、一日かけることもなく終わるんじゃないかと思っていたのでした。しかし、これが思いもかけないことになるのですから、世の中っていうのは面白いです。その思いがけないことっていうのはなにかというと、パーティションの作成でありました。職場のPCは、詳しいことはいえませんが、Dドライブを必要としていて、ところが作業者がいうには、PCの初期設定が完了し、添付のバックアップツールを実行したらDドライブが消されてしまったとかいう話です。そんなわけで、急遽Dドライブを用意する、つまりパーティションを操作する必要が出てきたのですね。

しかし、残念なことに、私はこの手のツールには詳しくありません。泥縄式にツールを探してみて、そして見付けたのがGnome Partition Editor。パーティションを操作するためのオープンソースソフトウェアであります。GUIが用意されていて、NTFSを含む各種ファイルシステムに対応するという素敵ツールで、しかもLive CD、CD-ROMから起動して使うことができるというのですね。

早速isoイメージをダウンロードして、ディスクを作成。使ってみたのでした。

結果からいいましょう。うっかり失敗してしまって、データをきれいさっぱり消し去ってしまいましたとさ。いやあ、思ったようにパーティションのサイズが変更できなかったものだから、試しにパーティションテーブルを触ってみたら、情報が飛んじゃったんですね。いやはや、慣れないことを、慣れないツールで、軽率にやるもんじゃありませんな。反省しました。

とはいっても、セットアップ途中のPCですから、損害は時間と手間だけです。再度リストアを開始して、その際には同ツールでもってDドライブ分の領域は確保しておいて、ところがリストアツールがディスクをきれいに再フォーマットしてくれたものだから、その作業はまたもやパー。と、これをこのツールの名誉回復の機会と捉えまして、再度チャレンジしてみたら、今度はあっさりと完了しました。

このツールのすごいところは、多様なファイルシステムに対応するだけでなく、サポートする言語もまた豊富であることでしょう。日本語が選択可能なんですよ。こうした、失敗してしまうと取り返しのつかない作業を、慣れた言語でできるというのは非常に大きなことだと思います。まあ、それでも私は一度失敗したわけですが。でも、日本語で作業できるのはすごく楽でした。というか、すごいなと感心するばかりでした。

昔は、フリーソフトウェアというと、製品に比べて信頼性や性能が劣るものであり、サポートに期待はしないのが鉄則という印象がありましたが、今や下手な製品よりも高性能、高信頼性を持っていたりするから怖ろしいですね。実際、パーティション操作ツールは製品として販売されているのもあるわけで、ですがちょっと調べるだけで無料で使えるオープンソースソフトウェアが見付かってしまう。しかも、昔なら言葉の壁とか、技術の壁とかがありましたけど、Gnome Partition Editorに関しては、日本語が用意されていて、バイナリも用意されていてという至れり尽くせり。ソフトウェアを作って売っている人たちからしたら、脅威どころの話ではないだろうなと思いますよ。本当、ソフトウェア産業ってどうなっていくんだろう。

などとちょっと心配にもなりながら、けれどその恩恵をうけているのですから、あんまり偉そうなことはいえません。でも、本当にすごい時代になったものだと思いますよ。

2009年1月4日日曜日

女性ジャズボーカリストのためのスタンダードソングブック

 音楽をやっていて実感するのは、楽譜の大切さであろうかと思います。確かに、必要にせまられて耳コピーをすることもあるけれど、曲のつくりなどをしっかり把握したいという場合は、やっぱり楽譜にあたらないといけない。意外と、歌いやすいよう、やりやすいように変えて採ってしまっていることがあるんですよね。楽譜を見てわかること、そういうことは非常に多い。楽譜に向きあって、書かれているように歌う、演奏するということの難しさを実感するとともに、なんと、こういう趣向、仕掛けがござったか、と舌を巻く。いやあ、本当、楽譜大事。そういえば、昔、私の師匠にもいわれたものです。楽器は最悪なんとかなる、とにかく楽譜だけは忘れるなって。特に日頃使っている楽譜、書き込みをともに育ててきたものなら、その価値ははかり知れないものがあって、本当に楽譜というものの大切さは取り組むほどに実感されるように思います。

というわけで、音楽やってると楽譜がとにかく増えるんですよ。私は今はあんまり増やさない方向でやっているけど、でもそうもいってられなくなってきました。去年の末、リクエストに応えるために『歌謡曲のすべて』を買いました。まずは『秋冬』のために買った曲集ですが、ほかにもいい歌がたくさん入っているものだから、少しずつ歌える歌を増やしている途中で、けれどまだほかにも歌いたい歌はたくさんある。だもんだから、次は『フォークソングのすべて』でも買おうか、それとも中島みゆきかさだまさしの曲集でもないものか。いろいろ企むわけですが、そんな私が今欲しいのが『女性ジャズボーカリストのためのポピュラーソングブック』であります。

おまえさん、ジャズボーカリストでもなければ、そもそも女性でもないじゃんか。

そんな声が聞こえてきそうですが、まあまあ、話を聞いてつかあさい。そもそも歌うかどうかわからないじゃありませんか。っていうのはですね、昨年末に復帰したサクソフォン、そいつでやりたい曲があるのですよ。それはなにかといいますと、Calling Youであります。映画『バグダッド・カフェ』の主題歌ですね。これがもう本当に切なくていい曲で、ふと『バグダッド・カフェ』を思い出して、それと一緒にこの歌も思い出して、もうこれを演奏したくてしたくてたまらない感じになってしまって、はたして楽譜は出てるのか? と思って調べてみたら、ありました。それが『女性ジャズボーカリストのためのポピュラーソングブック』であります。

とはいえ、現物を確認してみたわけではないので、買うならまずは書店等でどんなものか見てからになるでしょう。とりあえず今わかっているのは、収録曲と楽譜の構成くらい。メロティ、コード、歌詞のみの楽譜(リードシート)にワンポイント・アドバイスが付いているみたいです。模範的な譜面およびコードと歌詞を付けて収録しているみたいです。ということは、伴奏譜は期待しちゃいけないのかな? ということは、伴奏者を頼むときは、コードを見て弾ける人を選ぶか、あるいは伴奏譜を自分で書いて渡すかどっちかってことになりそうですね。まいったな、ピアノのアレンジなんてできませんよ。だって、ピアノ弾けないんだもの。

この先、本当に期待どおりに仕事がくるのかどうかわかりませんが、もし仕事になるとしたら、こうした曲集でも持って、レパートリーを増やすことも考えないといけません。その時々の流行曲を演奏する、それも必要で、ある程度定番になった曲も演奏できる、それもまた大切なことであります。だから、こういう曲集を何冊か持っておくと、助かることも多いんですよね。

といったわけで、今度楽譜売り場にいったら、この本をチェックしてみることにします。とかいいながら、シャンソンを買っちゃったりするんですよね。どうにも落ち着きのない私です。

引用

2009年1月3日土曜日

アメリ

 昨日、少し触れました『バグダッド・カフェ』、停滞していたところにひとりの女が現われて、状況をどんどん塗り替えてしまうという、そんな映画だといっていました。なんというのだろう、見ると元気になるというか、再び潤いをとりもどせる、そんな感じの映画であったのですね。この映画の制作されたのは1987年、西ドイツ作品だそうですが、こうした状況を打破する女性といえばもうひとつ思い出されるものがあって、それはフランス映画、制作年は2001年、『アメリ』であります。この映画、『バグダッド・カフェ』とはタッチも違えば、その受ける印象も違うんだけど、思い出してしまったものはしかたがない。というか、これまで一度もとりあげていなかったというのが意外なくらいで、DVDも買っちゃってるくらい好きな映画であるんですけどね。

しかも映画館にいって見たはずなんです。職場の誰かと連れ立っていったんじゃなかったかな。で、DVDまで買う、しかも缶入りのものを買うという、まあこれは同じ買うならレアなのを選んだ方がいいんじゃないの? という、マニアにはよくある思考からなんですが、まあ、嫌いな映画ならそこまではしませんわね。

この映画は、ちょっと変な女の子、というにはとうがたちすぎているようにも思いますが、アメリのちょっとしたいたずらや楽しみ、興味が、誰かの人生に影響して、自信や優しさを取り戻させたり、生きる希望を沸き起こさせたり、そうした様子をコミカルに、テンポよく描いて見せて、実に面白かったのでした。いたずらというのも、変に手が込んでいたり、変に大掛かりだったり、けれど見る人を嫌な気分にさせるようなものではないんですね、一部は除きますが。こんなことが身近にあったら、私の色褪せた暮しも、素敵なものに変わるかも知れない! ささやかに生活、人生を応援するようないたずらとその顛末が、ユーモラスに、キュートに描かれるのが本当に気持ちを高揚させて、そして時に緩ませてくれる。ほっと、暖かな気持ちになれる、それがヒットの理由だったのだろうと思います。

しかし、さすがフランス映画とでもいいましょうか、ポップで、コケティッシュ、どこかノスタルジーを感じさせるフランスをハイセンスに描いているその端々に、なんともいえない皮肉っぽさというか、意地の悪さみたいなのも感じとれて、とてもフランス的。人生あるいは世界に対して向けられたシニカルな視線というものが感じとれる、そんな気がしましてね、ただ可愛いだけの映画ではないんですね。だいたいにして、ヒロインであるアメリ、彼女からがビザール、変な娘であるわけです。フランスにおいて変なら、日本においてはさらに変だろう、そんな、ある種、社会から外れた人間による偏った世界認識、そうしたものがベースにある映画であると思います。ですが、こうしたベースがあるからこそ、あの各種いたずらや報復劇、あまり一般的とはいえない趣味が生きてくるのだと思うんですね。そして、こうした下地を受けるからこそ、アメリに対して与えられるアドバイス、怖れずに踏み出せという、それが生きるのでしょう。

一歩、世界に対して距離を置いていたアメリが、そうして距離を置いていたからこそ可能だった試みの数々を経て、ついには世界に対し一歩を踏み出す。ひとりの娘が、怖れを越えて変わろうとすることを望むまでの様子。他人の思いを変えるきっかけを与え続けていた彼女が、ついには自分の気持ちを変えるにいたった。そうした、変化を望み、変化に身を投じるまでのプロセスが、なによりも魅力的と感じられる映画であったと思います。

2009年1月2日金曜日

バグダッド・カフェ

 昨年末に会ったイタリア人の悩みとは、日本のコーヒーがおいしくないというものでした。彼はその妻とフランス語で会話するのだそうですが、その妻のレポートするところによれば、オ・ドゥ・ショセットといって文句をいうらしい。オ・ドゥ・ショセット(eau de chaussettes)ってなにかというと、eauは水、chaussettesは靴下、靴下しぼった水っていう意味らしい。ヨーロッパ人のセンスっていかしてるわ、私はこの悪口をいたく気にいったのですが、確かに日本で飲むコーヒーはヨーロッパで飲むコーヒーとは違う、それくらいは私にだってわかります。

土地あるいは文化におけるコーヒーの違い、こういう話になると必ず思い出す映画があります。それは『バグダッド・カフェ』という映画なのですが、この映画の冒頭に、ドイツ人の忘れていった水筒のコーヒーをアメリカ人が飲むシーンがあるのですね。一口飲んで、顔をしかめて、水を足すんですが、つまりヨーロッパのコーヒーは濃い。あのシーンは、ヨーロッパ人とアメリカ人のコーヒーに対するイメージの違いを如実に現わす、好シーンだと思います。

私がこの映画を見たのは、もう十年くらい前になるんじゃないかな。以前の職場、図書館につとめていた時の話。当時、まわりには映画好きが集まっていたものだから、おすすめしたりされたりして、思えば私の映画に対する好みというのはあの頃に固まった、そんな気もする次第です。

その頃に、見るといいよ、名作だから、といわれたひとつが『バグダッド・カフェ』でした。私、タイトルで思い違いをしていたのですが、これは中近東あたりを舞台とする映画ではなくて、西ドイツ、アメリカの合作、舞台もアメリカはモハヴェ砂漠にたつカフェ。バグダッド・カフェというのは、そのカフェの名前であるのですね。しかし、それにしても独特な印象のある映画でした。全体に重いあるいはくすんだ色調が支配的で、そして映画の内容もそうしたくすみを帯びたものでありました。

アメリカにひとり取り残されたドイツ女が、バグダッド・カフェにやっかいになるという序盤に、そのくすんだ色調は色濃かったように思われます。不和や倦怠があちこちに顔を出して、アンニュイな映画、そんな印象を持ったものですが、けれど時間が過ぎていくごとに、その印象は新たな色で塗り替えられていきます。バグダッド・カフェに新たに加わったドイツ女の、飾らない人柄が魅力的でした。若くもない、美人だったという印象もない。けれど、すごく人懐こくて、すごくチャーミングであった、そういう風に記憶しています。よく働く人、ほがらかで、さんさんと照る太陽のような暖かみをもって、人を、場所をすこやかに変えていった。その変化の様が、ちょっとコミカルで、時に胸をかきむしるかのように切なくて、そして幸いで、いい映画だ、名作だと一押しされる理由がわかろうものでありました。

切なく感じさせたのは、Jevetta Steeleの歌う主題歌、Calling Youのせいもあったと思うんです。絞り出されるような I am calling you の響きに胸はいっぱいになって、それからしばらくの間、心がこの曲にピンで止められたようになって、忘れられなくなってしまった。

I am calling you
Can't you hear me
I am calling you

私は呼んでいます。聴こえませんか、私はあなたを呼んでいます。

切なさに胸がいっぱいになります。なんて美しい歌だろう、泣きそうな気持ちになって思います。

引用

  • Telson, Bob. Calling You.

2009年1月1日木曜日

ベルリン・天使の詩

 昨年の末、恩人の連絡先を見つけようと、古い年賀状をここ十年ほど遡ってみる機会を持って、しかし、それは思いの外に切ない作業となりました。端書をめくるその途中に見付ける懐しい名前。それは昔の友人であり、恩師であり、皆さん、今はいかがなされているのだろう、そうした思いに少し微笑みなどして、そして鬼籍に入った人からの年賀状 — 。ああ、この人はもう私たちの住まう岸にはいらっしゃらないのだ。旅立たれて数年が過ぎて、得難い人、類縁の者、そのかけがえのなさに思い至り、少し寂しさ、悲しさを胸に抱いたのでした。

これもまた昨年のこと。『刑事コロンボ』でとりわけ知られる名優、ピーター・フォークの近況が知らされて、アルツハイマー型認知症に罹患されているということがわかりました。誰にも訪れる老い、そして病。自身、また身の周辺を見回しても、その色は年々濃さを増して、おそろしさに気の遠くなるような思いをすることがあります。そしてそうした病とは、思い出のヒーローにもふりかかるのですね。往年の姿が思い出される、そうしたことごとが、現実というもの、時間の過ぎたということを、これほどに切なく思わせて、私はたまらなさに言葉を失なってしまいます。

多くの人にとって、ピーター・フォークは『刑事コロンボ』の人であると思います。ですが、私には彼は『ベルリン・天使の詩』の人であって、それは私がこの映画をとりわけ好きであるからなのだろうと思います。

『ベルリン・天使の詩』、人間の世界を訪れた天使が、あまりに不完全であるはずの人間に憧れを持つ。そうした映画でありました。モノクロームで構成された画面は、天使の眺望であるというのでしょうか。人の世界を傍観するかのごとくに、転々とその視点を変えていきます。見始めのころなどは、これは一体なにを描こうとする映画なのだろうかと思うほどに淡々として、脈絡といえるものがつかめるまで、支えを失なったかのような感覚で見ることになったのでしたっけ。でも一度その仕掛けがわかれば、その魅力はしんしんと身に迫るようで、少々センチメンタル、けれどラストは前向き、極めて美しい映画であると記憶されたのでした。

ピーター・フォークは、この映画において、非常に重要な役を演じています。ピーター・フォークその人を演ずる、しかしそれは現実のピーター・フォークとは少し違っていて、彼はかつて天使であったが、その位置を捨てて、人の瀬に降りたという、そうした特異な役どころであったのでした。天使の、完全ではあるが生きているという実感に乏しいありかたに満足できなくなり、人として生きることを選択した元天使の姿は、まちがいなく、役者ピーター・フォークをなぞっていて、その語り掛けの自然さには、現実のピーター・フォークがかつて天使であったとしてもかまわないと思わせる、そうした真実味さえ宿っていた。そのように思います。彼がその身のそばに、もう見ることのかなわない天使の存在を感じとって、人として生きることの意味、実感、喜びを語る段にいたっては、映画を見ている私にしても、生きるということは素晴しい、孤高という孤独の座に留まることなく、人生のせせらぎに降り、その流れに身をさらすということがどれほどに素敵であるかということを、確かに感じたように思ったものです。ええ、この世界には、たとえ苦しさや厳しさ、いたましい現実があふれているのだとしても、それでも素晴しいなにかがある。そして、そのなにかとは、自ら手を伸ばしてはじめて触れることのできるものであると、そう確かにピーター・フォークはいったのでした。

ピーター・フォークの現在について知ったとき、私は寂しさや悲しさをせつな感じたものだけれど、それは彼がかつて天使であったころに、段々にかえってゆかれる途中であるのかも知れないと思うにいたって、切なさも少しやわらいだように思います。そして、おそらくは、すべての人がそうであるのでしょう。かつて彼岸の存在であったものたちは、この岸に降り、人生という川縁にしばし佇んだのち、またかの岸に戻るのかも知れません。だとすれば、それはなんと自然なことでありましょうか。それは、あるいは、悲しむ必要さえないことなのかも知れません。