今日、人に説明しながらプログラム書いていたときに、なんとなく思いついて、こんなの書いたのでした。
if ('俺' == 'ヒーロー') {
}
これ、もし 俺がヒーローだったら
を表してるつもりなんですが、今日、帰り道、やっぱり俺はオブジェクトにすべきだったかなあと思ったりなんかしまして、だって、('俺' == 'ヒーロー')なら結果は常にfalseにならざるを得ないわけです。だから、まずはHumanオブジェクトを定義して、それをvar 俺 = new Human();みたいにしてインスタンスを作成した後に、俺が英雄であるかどうかを判定すべきでしょう。で、人が英雄であるかどうかというのは、つまりその人の性質を判断するということになると思うので、Natureプロパティあたりを判定すればいいというわけで、つまり、こんな風に書くべきなのかなと思い直したのでした:
if (俺.getNature() == 'ヒーロー') {
}
なにあほなことゆってんの、てなものですが、人間疲れてくるとこんなもんです。とりわけ、プログラムなんて理屈やらなんやらで書くもんですから、途中で疲れてきて、どんどん頭が悪くなっていると自分でもわかって、言語支離滅裂になるし、しまいにはろれつもまわらなくなるし(やばい?)、そんなときにはこんなくだらないことでもしないとやってられません。
というわけで、さっきのプログラミング例を見ていただいておわかりのように、私は最近JavaScriptに取り組んでいます。JavaScriptというのはWebブラウザ上で利用できる言語でありまして、Webサイトの使い勝手をよくしたり、また最近ではAjaxと呼ばれる手法が花盛りで、過去には考えられなかったようなユーザーインターフェイスを実現したりと、まさしくJavaScript返り咲きといった具合なのです。だって、昔はJavaScriptといったら、ウィンドウをばんばか開いてうざがられたり、ステータスバーに文字列流してうざがられたり、Web上の嫌われ者という印象が強かったのです。ですが、Googleマップが火をつけたんでしょうかね、便利な例が人目につくところに現れて、それにAjaxなんて名前が付けられて、一気に広まって、それで気がつけば私もJavaScript書いてたりします。
Ajaxがばーっと広がったからか、Web上で参照することのできるJavaScriptリファレンスも充実してきて、実にありがたい限りだと思います。それこそ、ちょっと前までとなれば、文字を流す方法とか、ウィンドウ開く方法とか、便利なものだったらフォームの入力チェックでしょうかね、とにかくそういうことをやりたい人のためのサンプルコード集みたいなのしかなかったから、それを考えると格段の変化だと思います。けど、それでもまだ私には不満があって、というのは、ひとつのプログラミング言語としてJavaScriptを知りたいと思っても、そうした視点にたってJavaScriptを学べる環境というのが見当たらないというところです。
Web上の情報だけで済ませようという考えには限界があるなと思って、けれど巷のJavaScript本はといえば、結局サンプルコード集みたいなのばかりという印象で、だから私はオライリーの本に手を出すべきなのかなと迷っているところです。オライリーの本は、GISだったか、地図関連のコードブックをちょっと見たことがあって、けど本格的な本は読んだことがありません。DreamweaverにオライリーによるHTML/CSSとJavaScriptのリファレンスがついていて、それを読んだくらいでしょうか。
言語としてのJavaScriptを学びたいならオライリー本を読め、他には類書はないからという意見は何度か目にしていて、なのでオライリー本を買うべきなのかも知れません。その際には、やっぱりJavaScript 1.2中心の日本語訳第3版ではなく、JavaScript 1.5にまで言及している原書第5版を読むべきなんでしょうか。英語かあ。嫌だなあ。でも、コンピュータ絡みの新しい情報は英語ができないとどうしようもないからなあ、てな感じで迷っていたりします。
ところでHumanクラスで思ったのですが、JavaScriptはプロパティ(インスタンス変数)の隠蔽ができない言語なので、外からなんぼでも中をのぞけるんですよね。つまり、さっきHuman.getNature()みたいに、ゲッターを使ってNatureプロパティを参照していましたが、そんなことせずとも、Human.NatureでNatureプロパティにアクセス可能なのです。けど、これは便利な反面、危険もあって、それ以前に自分がインスタンスなら嫌だなあみたいな話でしてね、だって、内心の秘匿ができないわけです。つまり『サトラレ』みたいな状況ですよ。
そんなわけで、私はちょっとJavaScriptの国には住みたいとは思いません。
- フラナガン,デイビッド『JavaScript』村上列,垰井正雄,安藤進訳 東京:オライリー・ジャパン,第3版,2000年。
- Flanagan, David. Javascript: The Definitive Guide. 5th rev. ed. Sebastopol: Oreilly and Associates, 2006.
引用
- 高橋研『翼の折れたエンジェル』

はじめてみたときからなんだかよくわからない漫画でした。なにしろ、タイトルの正しい読み方もわからなかったくらいで、最近になってまるほんのじゅうにんでいいということが確認されたのですが、このいろいろとよくわからない、ナンセンス色の強い漫画がとにかく面白いのですから、私の趣味というのも微妙によくわからないなと思います。主人公は兄ひとり妹ひとりでけなげに日々を暮らす気苦労の絶えない小学生のりこ。彼女のまわりにいる人でまともなのといえば、友人のみかちゃんくらい。後はみんなどこか変で、そんな中で一二を争う変が兄と友人ちーちゃんなんじゃないかなと思います。




長月みそかを読むときは、彼彼女らの関係を、にまにましながら見守るのがいいのだと思います。中学生の多感な時期を、友達と一緒に迷ってみたりふざけてみたり、道草しながら歩くみたいにしてゆっくりと、けれど着実に過ごしていく、その日常の風景に垣間見せる表情やしぐさがドキッとするほど魅力的で、ああこんな季節がはたして私にもあったろうかってなんだかふつふつと疑念がわいてくる。ああ、私にはなかったかも知れないね。でも、似たような季節を通過してきたような気もします。少なくとも彼ら彼女らのような青春ではなかったけれど、けれどもし来し方を振り返ったときに、こんな一コマのひとつやふたつくらい見つけることができるのだったら、きっとそれが私と長月みそかを繋ぎ止めるものの正体なのではないかと思います。
私は本の病にかかっているような人間です。本屋を見れば寄らずにはおられず、例えば仕事帰り、駅にたどり着くまでに書店三軒をはしごします。書店はそれぞれに得手不得手があって、日によれば三軒が四軒になって、途中、乗換駅で改札でたところの書店により、しかも最寄り駅前でも寄ってと、一日に五軒六軒はやり過ぎだろうと自分でも思うのですが、寄らずにはおられないのだからしかたがない。それぞれの書店で新刊見つけては買い、面白そうな本を見つけても買い、そして今日買ったのは、きづきあきらの『
私は子供時分、暇があれば本を読んでいるような子供で、もしファミコンという新しい娯楽がこの世に存在していなかったら、きっともっと一杯、たくさんの本を読んで、今よりももっと豊かな読書体験をしていたことかと思います。そんな子供の頃に好きだった本が『






まんだ林檎といえば私の中では、『セーラームーン』の二次創作をしていた人という印象がいやに強かったりするのですが、でもある日本屋で出会ったその人は、すっかりBL作家でいらしゃった。その本というのは『コンプレックス』(ソノラマ文庫版)。やんちゃな少年二人がジャングルジムにのぼってという表紙イラストに私の目は釘付けになって……、といったら正直いいすぎですが、この表紙イラストが妙に気になったというのは本当です。なので、中身をぱら見して、よし買うかと決意して、電車で読んで、ちょっとドキドキした。特に一巻最後の話、あまりにべたといわれればそうかも知れないのですが、けどちょっとああいうの好き。そこに至るまでの過程が、それこそ十年分しっかりと書かれているから、すごくいいなと思って、だからこの続きはどうなるんだろうとずっと楽しみにしていたのです。
シューティングゲームの話題が続いているので、今日もシューティングゲームでいってみよう。べ、別にネタが尽きたからじゃないんだからね!
書店によったら並んでいた谷川史子の新刊。私はこれまでも何度もいってきたように、谷川史子の大いなるファンです。本が出ているとあらばなにがなんでも買い、なにをおいても読み、そして心に兆すなにかに大きく揺さぶられる — 。こうした揺さぶられ体験をもたらしてくれる谷川史子は私にとってかけがえのない作家であり、その人の生み出す漫画もまたかけがえのないものに他なりません。そして、この『積極 — 愛のうた』もやっぱり私の大切な一冊となりました。まだ一度読んだだけです。けれど一度読めばそれで充分なのです。しんと胸に染みる悲しさや切なさ、それらを越えて人を愛したいという気持ち、愛するということの実感、そして愛したということそのもの。多様な感情が押し寄せる感覚。ああ私はこの人に、この人の漫画に出会えてよかったと思う瞬間です。

最近、なんだかアニメづいております。しかも新作じゃなくて昔のアニメ。ほら、『






『花の湯へようこそ』で書こうと思ったら、
『
なんかこれがはじまったとき、妙な雰囲気の漫画だなあと思って、けど割合嫌いな感じじゃなかったので本式の連載が決まったときにはちょっと嬉しく思ったのを覚えています。なんてことはない漫画かも知れません。悩みのある人が公園のベンチにやってきて、天使に助けを請うというお話。この漫画の肝はといえば、その天使が筋肉質のおっさんということで、ほら天使といえば美形のなんて印象がありますよね。その先入観を逆手にとった出落ち系の笑いが変に気取ってなくて面白くて、そのきどらなさは全編漂ってるから、ほんまにこの人はやる気あるんだかないんだか、って感じでなんか苦笑系。楽屋落ちも多いし、しかも自分で楽屋落ちっていってるし。でもそういう真面目なんだか不真面目なんだかわからない脱力感の傍らで、内容は結構しっかりと真面目だったりするから、そのギャップが私には受けたのかも知れません。ええ、こういうつかみどころのないように見せてる漫画、割りと好きなんです。
当時は娯楽が少なかった、というわけでもないのだと思うのですが、ひとつ映画があたるとものすごい影響力を持って人口に膾炙して、しかも数年にわたり語り継がれることもあったようなのですね。というのはなにかというと、横溝正史の『八つ墓村』であります。小学生時分のことなのですが、誰も映画なんて見ていないというのに、あのたたりじゃあというフレーズが生き残っていたのですから、その浸透度合のほどが知れると思います。で、実際に私がこの映画を見たのは小学校の高学年くらいだったはずで、テレビでやってたのを見て、多分途中で寝てると思うんですが、だから私には『八つ墓村』の映画といえばたたりじゃの婆さん(ここを見れば、もう満足だったといえる)とそしてあの凄惨な殺人のシーン。この事件というのは実際に起こった事件(津山三十三人殺傷事件)をモデルにしていて、とにかく尋常でない。実際の犯行では頭に懐中電灯を二本、丑の刻参りするようにさしていたといいまして、このあたりは小説の方でも詳述されているのですが、映画ではどうだったでしょうか。
『
前にもいっていましたが、私は今、デアゴスティーニの隔週誌『
この間、新聞の書評で読んだのですが、『

なんか、いつもは読まないタイプの漫画を読みたくなりまして、その時たまたま目にしたのが『コックリさんが通る』。作者も知らなければもちろん漫画についても知らなかったのですが、なんかひかれるところがありまして、タイトルかな? あるいは表紙の娘さんが気になったのかも知れません。とりあえず手に取ってみて、シュリンクされてなかったので中身を拝見、ぱらぱらと読み進んでみて、わりと悪くないかもと思って購入したのでした。
ふと偶然目を留めた広告で『
旅行の写真を保存しようとDVD-Rを買いにいった電器店のゲーム売り場で『Quartett!』を発見。ああ、ついにPlayStation 2版が出たんですね。てなわけでちょっと欲しくなったのでした。けどまだ買ってません。それに、これから先も買うかどうかはわかりません。というのはなんでかというと、オリジナルを持っているからなのです。ええと、オリジナルはPC用ゲームでして、ええと、18歳未満は買えない呪いがかかってる? そんなタイプのゲームなんですが、なぜか持っています。忘れもしませんね。Amazonのおすすめに『Quartett!』が現れて、ええーっ、なんで? その手のゲームをブラウズした覚えもないのに? けど、お勧めされてしまったのですから仕方がありません。最初こそ黙殺したのですが、どうにもあの絵が気になりましてね、『
『北へ。』はバイト先の友人が持っていたんでした。彼は筋金入りのセガファンだったからもちろんDreamcastユーザーで、Dreamcast用アドベンチャーゲームとして鳴り物入りで登場した『北へ。』も買っていました。このゲームは恋愛アドベンチャーのなのですが、やってみればバーチャル北海道観光ツアーといったおもむき、名所解説よりも愛をささやいて欲しいとかいう突っ込みを聞いて大いに笑ったものですが、でも本心をいうと遊んでみたかった。絵が好みだから、キャラクターが好みだから。だって、自分が遊べないプラットフォームのゲームだというのに、しっかり絵柄もタイトルも覚えているくらいですからね。だから『Quartett!』がお勧めされたときに、これはっ! と思った。で、買っちゃった。悩んだ末ですよ。でも買っちゃったんですね。原画集まで買っちゃったんですね。もちろんビジュアルファンブックも買っちゃってるんですね。
