いやはや、世の中にはいくらでも私の知らない、面白いもの、ことがあるのだと思います。私は『安部窪教授の理不尽な講義』なる漫画の存在を知らなかったし、その作者である滝沢聖峰という人についてもまったく知らなかった。けれど、帰りに寄った書店にてこの漫画を見つけて、その背表紙、おそらくはタイトルに興味を引かれて立ち止まって、そうしたら立ち読み防止用の透明の帯が付けられていなかったのです。私は引き寄せられるままに本を手に取り、ざっと一話を荒く読んでみて、買おうと決めた。そうですね。それはなんでかといえば、この安部窪教授とやらのスタンスにやられたのでしょう。そう。私は幽霊をはじめとする怪奇があってかまわないと思っています。ただそれを怪奇として放っておきたくないとも思っています。知りたい。明らかにしたい。懐疑心を常に抱きながら、現象を明らかに見ようというスタンス。ああ、格好いいじゃないの。と、私はこの教授のキャラクターにこそ惚れてしまったのでしょう。
しかし、つくづく漫画にせよなんにせよ、大切なのはそのアプローチであるなと思うのです。『安部窪教授の理不尽な講義』はスタイルとしては非常にありきたりであるのですが、というのは、変わり者で趣味人の教授が、よくできた女子学生と軽い男子学生をともに、奇妙な現象の謎を解くというパターンが基本形としてあって、男子学生が狂言回しを演じているという点でもよくあるケースであろうかと思います。
けど面白い。おそらくこの作者は、よくあるスタイル、形式などなどを持ち寄って、アサンブラージュするみたいにしてこの漫画を作ろうとしているのでしょう。でもこのやり方は、過去に積み上げられた様式美を利用できるというメリットのある反面、ありきたりという印象を与えかねない危険もあって、けれどこの漫画に関してはうまくそのあたりを処理して、オリジナルの風合いを出していると思います。そしてそのオリジナリティは、作者の手跡そして工夫に発しているのだと思います。
工夫は、教授に持ち込まれる事象の見せかたと、その事象に対する教授のアプローチにあるのであろうと考えています。いやそうかな。それらも結局は突き詰めればなんらかの類型の中に解消されそうなものであろうかというもので、しかしそうした類型の集積になりかねないところがよい塩梅でもってオリジナルとして成立している。やはりこれは、作者の手跡が少しずつこの作者のらしさを作り上げているとしか言い様のない世界であると思います。
けれど、この漫画の一番の楽しみといったら、好奇心旺盛で深い洞察と多彩な特技を持ったタフなおっさんが、どんな風にかっこうよく描かれるのだろうかという、そこにこそあるのではないかと思います。うん、これはあれだね。おっさん萌えの漫画だと思う。教授の活躍を楽しむのが一番面白い漫画であると思います。
ところで思ったんだけど、教授とよくできた女子、できの悪い男子の構図って、昔の学習漫画を彷彿させますね。させませんか? そう思うのって私だけ?
- 滝沢聖峰『安部窪教授の理不尽な講義』第1巻 (ビッグコミックススペシャル) 東京:小学館,2006年。
- 以下続刊
川原泉は、なんか雰囲気がえらく違っちまったなあ、だなんて思うんです。絵がシャープになったというか、若干固くなってしまったというか。けど、見た目の雰囲気こそ変わってしまったけれど、その漫画の醸し出す雰囲気にはやっぱり川原色があるのだとも思います。よりよく生きようと、不器用ながらもがんばる人のささやかな喜びがつまっている。決して大それた仕合せやなんかを欲しがるのではなく、自分の身の丈にあった仕合せを求める人たちの物語なのだと思います。大きすぎず、また小さすぎず、あつらえの身にきっちりとあった服の気持ちよさがあるといったらよいでしょうか。こうした仕合せのかたちを称して小市民的というのかも知れないけれど、不相応に過分な富やらなにやら求めて、いつまでたっても満ち足りない不安を思えば、小市民的のなにが悪いのか。他の誰がなんといおうと、自分の求める仕合せをきちんと見つめられる人こそが人生をよりよくいきる人なのだと、川原の漫画からはそうした哲学が感じられます。
税金を納めに市役所にいくついでにと、漫画に強い書店にも寄ったのでした。って、実は嘘。税金の方がついでだったというほうがきっと正直で、今日は『
えー、ファンと一口にいいましてもいろいろございまして、作品につくファンがいるかと思えば、作者につくファンというのもございます。で、私はといいますと後者のたちでありまして、前々から申しておりますとおり、これだと思うところがあらば、その作者の既刊を集めて集めて集め倒してしまう。そういう類いの、作家からしたら非常にありがたい金づ……、げふんげふん、けど一歩まかり間違うと頭にスのつく困ったちゃんにもなりかねない、ありがたかったり迷惑だったりという、微妙なタイプなのですね。
写真を趣味にしている人はたくさんあって、それぞれが抱く写真への思いはさまざまです。写真という、瞬間を切り取るそのものが好きな人。カメラという精密にして精巧な機械に魅せられた人。被写体が好きな人もいるだろうし、写真を撮る自分が好きな人もいて、これは十人十色といっても差し支えないのではないかと思います。私自身、
『はれた日は学校をやすんで』。私が好きだったころの西原理恵子がここにはあります。遥かなる叙情性。心の揺れ、マイノリティの悲しみがここには描かれていて、しかしただ悲しむばかりではなく、その心揺れ動く季節に空を見上げるような悲しみに向けられた視線のあたたかさ。マイノリティというのは、ここでは、大勢に溶け込むことのできない人のことと捉えてくださるとよいと思います。人の和に入ろうとしてはいれない人。皆の中に入りたいと思うのだけど、あるいは入っているのだけど、そこになぜか落ち着くことのできないタイプの人間というのはあるのです。私もそうです。けれどひとりぽっちが楽しいわけもないのです。どうして自分は皆と同じにすることができないんだろう……。そういう悩みに直面したことのあるという人は、きっと少なからずあると思います。
私は甲野善紀という人が好きで、テレビやなんかで見ると、すごく得した気分になれるのです。なにが得かというと、動いている甲野善紀が見られるということ。古武術を通して身体を再発見、再構築していった甲野善紀が、その所作をあからさまに見せてくれるのですよ。現在、私たちが当然のように思って、疑問をさしはさむこともしない動きの常識を真っ向から崩してくれて、すごい!

新撰組について興味が出たら、まあこの本から読んでみるとよいよといわれるスタンダード中のスタンダードというと、やっぱり司馬遼太郎の『燃えよ剣』なんだろうと思います。実際、新撰組に関するブックガイドなんてのを見てみるとまず間違いなく『燃えよ剣』は入っているし、そもそも新撰組に関する記述を追えば、そこかしこに『燃えよ剣』の影を見つけることができます。その語り口であったり人物像だったりに、司馬遼太郎の影が見える。『燃えよ剣』の影響力は絶大であったのだと驚くほかないですね。
私はナムコのゲーム『もじぴったん』が大好きです。PS2版はずいぶん以前に買ったというのに、時間がなくてほとんど遊べていないのが残念で、しかも途中でどうしてもクリアできなくなった状態で頓挫しているというのも心残りで、余裕ができたらまた遊びたいなあ。ちょっとずつでいいからクリアしていって、いずれは全ステージを終了させるのが私のささやかな夢となっています。
胎教ミュージック、だいにだーん。今日はRaspberry Heavenの紹介です。もうこの曲についてはあれこれ説明する必要もないんじゃないかと思いますが、かの有名な漫画『
この間、
今日はちょっと恥ずかしい話。
おおた綾乃という人は、実に独特の雰囲気を醸しだす人であると思うのです。明るく朗らかで、はじけるように元気で、そしてあたたかでにぎやかな、祝祭的彩りに満ちた漫画を描かれる人です。それは、どの漫画を見ても同様なのですが、やはり私には『派遣です!』が一番しっくりときて、きっとこの漫画が私にとってのおおた綾乃入門となった漫画だったからでしょう。
先達て紹介しました『
最近買った四コマ。芳文社のも買ったんですが、それよりも前に『白衣な彼女』について書きたいと思いました。だってこないだ
今日は最初に謝っておきます。ごめんなさい、私はこの本買っていません。基本的にこのBlogでは自分の買っていないものは扱わない、例外的にDVD-BOXやコンピュータソフトウェアなど、内容は知っているけど買うにはいたらないというようなものもありますが、基本的には買っています。ところがこの本に関しては買っていない、さらにいえばちゃんと読んでいない。
今日はちょいと病院に行ってきました。といっても、どこか具合が悪いとかそういう話ではなくて、見舞いです。まあ別段深刻な状況ではないと聞いていたのでさほど心配もなく見舞って、実際そんなに気をもむようなこともなかったので安心したのですが、そりゃそうと、着いて最初にいわれたのが「あんたが来るんやったら、なにか本を持ってきてもらえばよかった」。すなわち、私がいくとは思われてなかったということでしょうね。
新聞は嘘ばっかり書いている、捏造ばっかりしているっていう人、いますよね。実は私もおんなじように考えています。いや、別に朝日新聞のことをいっているわけじゃないので、そこのところ早とちりしてくださらないでくださいましよ。私がいっているのは新聞です。新聞というメディアが嘘ばかりいってるっていっています。そしてテレビも。私が知りたいのは、その時、そこで起こったことはなんだったのか、ということ一点だけなのですが、なんでかわからんのですが彼らマスメディアが伝えたいことは私のニーズを満足させてくださいませんで困っています。まず思潮とやらがくるからややこしい。真実があって、分析のプロセスを経て、最後に評価がくるのが真っ当な手続きだと思うのですが、なんでか最初に思潮があって、評価がきて、分析があって、終わり。あれ? 真実は? ええ、本当にどこにいったんでしょうね。
私だって人間、意味もなく悲しくなったり寂しくなったりすることはあります。そんなときに聴きたくなる曲はなにかというと、悲しさの種類によっても違うのですが、例えば今私がとりつかれている悲しさの種類でいうとEnglishman in New Yorkが聴きたい、そんな感じです。
以前、
私はおたく娘が好きだというのは以前からいってきましたとおり。例えば、駅のホームにじゃれあっている中学生男子を見て転げ回らんばかりになっている(この感覚をもにょると表現するみたいですね)人を見たことがありますが、心がほのかに温まる素敵な瞬間でありました。って、大概私も変態的ですね……。
このBlogをはじめた当初に、素晴らしいゲームが、素晴らしい音楽があるというのに、絶版してしまったためにそれを皆に知ってもらうことができない。欲しいと思っているものもいるというのに、手にすることができない。なんて不幸なことだろう。受け取り手としての私たちにとっても不幸なら、作品にとっても不幸だと嘆いたことがありました。その音楽というのは『


