税金を納めに市役所にいくついでにと、漫画に強い書店にも寄ったのでした。って、実は嘘。税金の方がついでだったというほうがきっと正直で、今日は『さんさん録』の発売日だったから、どうしても本屋にはいっておきたかったのです。『さんさん録』を描いたのは、このBlogにおいて何度もそのお名前を紹介してきたこうの史代。優しくやわらかでしなやかで健全で、ときにぴりりと一味かえて懐の広さやいたずらっぽさも披露されるところが実に楽しい。そうですね。昨日の表現を使うなら、私は間違いなくこうの史代という作家についたファンです。だから、きっと間違いなく『さんさん録』も手もとに置こうというのです。
『さんさん録』。このあまりに不完全な人たちを描いた漫画。しかしその完全でない人たちっていうのがこれほどに魅力的に映るのはなんでなんだろうと、そんなことを思うのです。考えてみれば、こうの史代という人の漫画に出てくる人というのは、みんなどこか引っ込み思案だったりして、自信に満ちあふれている人というのはない感じなんですよね。けど、これはそうした人たちが卑屈だとか駄目だとか、そういうことを意味しません。自分のことに自信を持てなかったり迷ってしまったりはあるけれど、けれどそれでもこういう自分が自分なんだと自然に受け入れているというような、そういう強さがあるように感じています。そして多分この強さは、こうの史代という人がその芯に、支えみたいにして持っている強さなんじゃないのかななんて思うのです。
正岡子規という人が『病牀六尺』という本の中で、悟りということを誤解していたといっています:
悟りといふ事は如何なる場合にも平気で死ぬる事かと思って居たのは間違ひで、悟りといふ事は如何なる場合にも平気で生きて居る事であった。
そうなんですよね。そして私はこうの史代の漫画からは、そうして平気に生きている人の強さを感じるのです。
とはいっても、人間というのは弱いものだから、いつでも平気というわけにはいかないし、そしてそのいつでも平気でいられないということをよく知っているのがまたこうの漫画であると思います。弱さを知っているから、誰かを好きになろう、好きになりたいという気持ちも涌くのだろうし、そして誰かの悲しみだとかつらさとかを放っておけない気持ちにも繋がるのだと思うと、こうの漫画の優しさ、やわらかさはここに発するのであるなと思わされます。
けど、本当のところをいうと、私が『さんさん録』2巻を読み終えて本当に思ったのは、なんて自分は不完全なんだろうということ。誰も愛さず、誰からも愛されず、自分で決めたことすら守ることのできない薄弱な人間で、けれどその弱さゆえに誰かを愛したいと思うのだということに気付いた。そして、やはり私はこうの史代はただ者ではないと。『さんさん録』においては苦手を描こうと自ら高いハードルを設定されて、そしてそいつを見事に越えてみせられた — 。
私は『さんさん録』は、生きるということを真っ当に真っ正面から真面目に描いた、泣き笑いの素敵な漫画、傑作であるといってはばかりません。
引用
- 正岡子規『病牀六尺』,「病牀六尺」からの孫引き。
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