今日撮った花の写真が青くて青くて困ってしまったのでした。現実にはむしろ紫だというのに、写真にすれば鮮やかに青く写ってしまって、これはカメラの癖なんでしょうか。しかし、この色の違いというのは私の目にしか残っておらず、だから後から写真を見た人はこういう色なんだと思ってしまうことでしょう。そして現実の花の色はわからなくなってしまって、結局は残ったものが現実のすべてみたいになってしまうのかも知れません。
と、そんなことを思いながら、ふとグレン・グールドについて思い出して、彼はもしかしたらそれを狙っていたのかも知れないなと思ったんです。かの矛盾に満ちた天才的ピアニストは、演奏以外にもたくさんの著述、言説を残していて、まさにメディアというものを意識した活動を繰り広げていた。そしてそこにはいくつものグールドの像が、ときには食い違い齟齬を来しながら群れている。本当に不思議な人であったと思います。
多分グールドは、他人に対していい格好をしたかったというわけではないのだと思います。ただ彼は、違う自分でありたいという願望をどこかに隠していて、それがわかりやすいかたちをとったものが一人二役ならぬ一人多役の録音、映像、インタビューなのでしょう。しかし、グールドにはそうしたあからさまな変身願望以外にも別の自分を装いたいという思いがあると見えて、それは例えば彼がいっていたことと現実の彼の行動の矛盾なんかにうかがえると思っているのですが、いうならば彼は文章をはじめとするメディアの上に、理想的な自己像を築きたいと思っていたのではないか。それが意図的であるかどうかはわからないけれども、彼は現実の自分を強烈に意識しながらも、こうありたい自分というものを遠くに眺めていた。そのように思うのです。
グールドは幸い現在の人でありましたから、周囲の人の証言も得ることができ、また映像、録音というリッチメディアが捉えた彼の姿を目にすることも可能です。もしこれが百年二百年前の人物であれば、伝説の中にその姿をくらませてしまったかも知れない。けれど私たちは、グールドと彼を取り巻くメディアが共謀して作り上げた伝説の向こうにかすむ彼の横顔を窺うこともできる。それもかなりの距離にまで近づけそうに思えるほどで、それは私の写真が捉えた花の青を眺めながら、その向こうに真実の紫を見ることのできるという可能性があり続けているということに同じであると思います。
けど、そうはいっても、私の目が見た紫が間違いなのかも知れないという可能性もあり、人の目には紫に見えるけれど、その光線をまっすぐに捉えることさえできれば真実の青があらわれてくるという、そういうこともあるかも知れません。だとすれば、グールドの真実の姿というのはどこにあるんだろう。多分それは、私も、皆も、そしてグールド自身さえも、つかめそうに思いながら決定的な確信は持つことができない、そういう彼岸にこそ見いだされるものなのではないかと思います。
- グールド,グレン『グレン・グールド著作集1 — バッハからブーレーズへ』ティム・ペイジ編,野水瑞穂訳 東京:みすず書房,1990年。
- グールド,グレン『グレン・グールド著作集2 — パフォーマンスとメディア』ティム・ペイジ編,野水瑞穂訳 東京:みすず書房,1990年。
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