『はれた日は学校をやすんで』。私が好きだったころの西原理恵子がここにはあります。遥かなる叙情性。心の揺れ、マイノリティの悲しみがここには描かれていて、しかしただ悲しむばかりではなく、その心揺れ動く季節に空を見上げるような悲しみに向けられた視線のあたたかさ。マイノリティというのは、ここでは、大勢に溶け込むことのできない人のことと捉えてくださるとよいと思います。人の和に入ろうとしてはいれない人。皆の中に入りたいと思うのだけど、あるいは入っているのだけど、そこになぜか落ち着くことのできないタイプの人間というのはあるのです。私もそうです。けれどひとりぽっちが楽しいわけもないのです。どうして自分は皆と同じにすることができないんだろう……。そういう悩みに直面したことのあるという人は、きっと少なからずあると思います。
そうした悲しみを共有できる人には、きっとこの漫画は優しく、懐かしく、そして暖かく感じられるのではないかと思います。傷つきやすい心がそっと、けれどそのままにまっすぐ描かれていて、ああここには私のもうひとつの心があると、そのように思えるのではないか。そんな風に感じることもあるのではないかと思います。
あまりにナイーブすぎるこの漫画に触れて、西原理恵子という人の過激さとのギャップに戸惑う人もあるのではないかと思いますが、けれどこのナイーブさは過激さと表裏一体にあるのだろうと私は思います。ナイーブであるがゆえに、あたりさわりのよい適当を選ぶことができなかった。表現するに際して、開き直りともいえるめちゃくちゃさを選択してしまわざるを得なかった。そうした過激さ、アグレッシブな表現に傷つきやすさを隠しているのだと思うのです。そしてその過激さは再びナイーブでデリケートな心象に返っていくのだろうと思います。
誰しもの心に訪れる傷つきやすい季節。私はその季節から未だ抜けきれずにあって、そうした顔を隠すべくさまざまな手練手管を身に付けて、そうした人はきっとたくさんいるでしょう。けれど、ときに深く色濃く立ちこめる悲しさに胸がいっぱいになっているときには、たくさんいるはずの思いを同じくする人のことを忘れてしまいがちです。自分以外の皆はなんの問題もなく普通にいられるのに、自分ばかりがこんなに悲しいなんて……。そんな風に思うときには、この本を手にするのがよいのではないかと思います。私は、そしてあなたはひとりではないと、その悲しい思いを言葉にせずとも共有している、顔も名前も知らない友人がきっといることを思い出させてくれる。『はれた日は学校をやすんで』とは、そうした本であると思います。
- 西原理恵子『はれた日は学校をやすんで』(アクションコミックス) 東京:双葉社,1994年。
- 西原理恵子『はれた日は学校をやすんで』(双葉文庫) 東京:双葉社,2006年。
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