2007年12月14日金曜日

戦後日本は戦争をしてきた

 私は驚くほどに社会科に疎く、なんとなく、おぼろげにしかわからないでいることが多すぎます。そんな私が社会科に、具体的にいうと歴史に興味を持つことになったひとつのきっかけというのは、大学の講義で聞いた戦後日本を取り巻く状況についてでした。戦勝後アメリカは日本を去勢し、経済においても底辺的状況に置き続けようと考えていたところが、中国が共産化したため方針を転換。自衛隊の前身となる警察予備隊が設立され、また朝鮮戦争の特需により日本経済は回復したうんぬんというのをざざっと説明されまして、私はそれまで大きく歴史の流れというものを概観するという経験がなかったものだから、それこそ目からうろこの落ちるように思ったんです。私の悪い癖なのですが、近視眼的に物事を捉える傾向があり、特に若い頃にはそれが強かったものですから、余計そういう風に思ったんですね。

その授業をきっかけに、大きく歴史を見る、地理的広がりも見るということを学んだわけですが、そうしたら今度は大ざっぱにみるのはいいけれど、詳細がわからない。堂々巡りですね。歴史には様々な視座があり、それこそ多面多様な見え方がする。解釈や評価に幅があるためですが、こうなるとまた私には厳しくて、だってどちらがより真実らしいか見極めるだけの判断材料がないんですよ。それこそ世の中というものは極端なもので、証拠物件らしいものは山とあるけれど、ある人はこれを真実といえば、またある人は嘘だ、捏造だという。私は見てきたわけじゃないですからね。評価できないんですよ。それで、自分なりに考えてみて、より穏当と思える位置を探るのですが、それでもやっぱり揺れます。今もなおわからないわからないといってふらふらしています。

けれど知りたい、わかりたいという欲求は消えないんですね。なので時にそういうことを考えるためのヒントになりそうな本を見たら買ってみて、読んでみたりします。今回買ったのは、姜尚中と小森陽一の対談である『戦後日本は戦争をしてきた』。書店で見て、以前教師にいわれたことを思い出しまして、復習するつもりで読みました。そして感想はというと、ちょっとロマンチシズムに傾きすぎの嫌いがある、そして内容が出版された時点ですでに古びはじめているという、おおまかにいうとその二点かと思います。

古びはじめているというのはですね、第一章が2006年11月、第二章が2006年12月、第三章でようやく今年に入って2007年1月、第四章が2007年8月に行われた対談を元にしています。一番新しい対談で夏ですから、どれも安倍晋三首相退陣前の状況であるんですね。確かに突然の辞任であり、さすがにこれを見越してということは不可能だったでしょうけど、出版は2007年11月、この時点で読むにはちょっと新鮮味が足りず、じゃあ今はどうなんだろうと、福田内閣はどうなんだろうとそう思いながら読んでいました。ほんと、タイミングの悪い本だなあと、そう思わないではおられない感じです。

そして、ロマンチック。よくいえば理想主義的で、悪くいうとちょっと風呂敷を広げすぎのような気がします。括弧付きの「社会学」の論調といっていいかも知れません。すなわち、パオロ・マッツァリーノの用語における、ということです。事実としての体験や、研究者曰くどうこうだ、こういう見方がなされているなどというような部分、そのへんはいいんですが、現状、特に日本社会の、を見ようという時にちょっとそれは極端すぎないか、あるいは本当にそういっちゃっていいのか、と立ち止まらせることがあって、また私は自分自身の立ち位置を左、護憲よりと自覚している(なので姜尚中は割と嫌いじゃない)んですが、それでもそれはいいすぎじゃないのんかと思うところも一部あったくらいです。

でも、韓国や北朝鮮を巡る歴史の部分は興味深く、なにしろ日本史でさえ危うい私ですから、朝鮮半島を取り巻く歴史はまあ知らんわけです。とりあえずこの本でざっと流れをみることができたかなと。そして、ついぞ忘れがちになる、朝鮮戦争は終わっておらず、今は休戦中であるということについては何度も繰り返されて、そうした前提から語られる現状。そしてそこに休戦から終戦に向かわせたいという意思があるのだとすれば、姜尚中の眺める未来図が実現するに越したことはなさそうだなあと、そんなことを思ったのでした。だって、どうも私はアナーキズムに分類される考えを持っているようで、さらに血なまぐさくきな臭い、それこそ破滅的な願望を強迫的に抱えていましてね、そんな私の考える将来よか、姜尚中のロマンチシズムの方がはるかに健全です。ほんと、血が流れないならそれにこしたことはない。平和的に解決するのなら、それが一番いいに決まっています。

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