2007年12月29日土曜日

ソーダ屋のソーダさん。

 なにがあろうと、淡々と更新し続けることを目標としているこのBlogですが、それでも節目となるような日には、これというものを取り上げたいと思っているんです、信じられないかも知れませんけど。12月ならたとえばクリスマス、そして大晦日あたりがそうした日にあたるかと思われますが、クリスマスには諸般の事情からそれほど特別でもないものを取り上げてしまったので、残るは大晦日。一年の最後を飾る更新です、これをというもの、一押しのものを取り上げたいじゃありませんか。そして私は湖西晶の『ソーダ屋のソーダさん。』を本年最後の更新における題材とするつもりであったのでした。しかし、それを前倒しして本日取り上げます。なぜか? それは単純なこと、私が待ちきれなかったんです。早くこれについて書きたいと、心がはやって仕方なかった。これほどまでに後押しされる気持ちは久しぶり、それくらいにがつんときた一冊であったのです。

 『ソーダ屋のソーダさん。』は、一迅社の『まんが4コマKINGSぱれっと』で連載されていた漫画で、第一号から同誌を牽引する役割を担っていたと認識しています。さてその『ぱれっと』ですが、創刊の当初、第一号は手に入ったのにその後がまったく続かなかったという恐ろしい巡りの悪さ、買う買わないを選択できる状況でさえなく、泣く泣くというべきか、湖西晶の投げ掛けた謎を追うこともかなわないまま、遠巻きに評判を伝え聞くばかり、私は隔絶された状況に追いやられていました。

その後しばらくして、私の行動圏内に『ぱれっと』の供給されていることを確認、しかし残念ながら中抜きとなったのはまずかった、こうなると私はよほどのことがないかぎり買いません。かくして私は、『ソーダ屋のソーダさん。』に関しては、完全にすれ違い続けたまま、単行本の発刊まで再び出会う機会を得ず、そしてこの単行本に出会ってすぐの頃、私は見送ろうかと思っていたのです。

危ないところでした。手にして読んだ今、私ははっきりとそういいきれます。もし見送っていたら、いやなにたかが漫画です、そんなにたいしたことがあるわけではありません。それはわかっているんですが、けれど私にとっては痛い損失となったことでしょう。そして私はその損失に気付かないまま過ごすんです。知らないあいだは仕合せですね。けれど、気付けばきっと歯がみしたろうと思います。ああ、なんと馬鹿な判断をしていたんだろうと、そう思ったに違いない。それくらいに思わせる内容を持った、力強い漫画であります。

そもそもからが謎で始まります。瀬戸内海に浮かぶ島、清涼島にて起こった怪事件。島唯一の商店、若く美しい女店主が死んだ……。しかし、彼女早田沙和はまるで生きているかのように振る舞い続けて、その秘密を知るものはただひとり、斎田青年だけ。この奇怪な出来事を発端に動き出した物語は、斎田青年の思惑を飲み込み、そして隠された事実を引きだしながら、駆動し続けるのですが、その下部に広がる苦渋や迷い、混乱、そしてあきらめがただただ苦いのです。表向きには可愛らしくきれいな絵柄で、またギャグや恋愛を絡めてのどたばたなど、見てほのぼのとさせる要素が支配的だから、なおさらつらさはいや増して、表面に浮かぶ甘さが心底残酷でした。そうした構造の故か、真実のむごさがあらわにされた先に、きっと悲劇的な終幕を迎えるに違いない、最後の最後まで私はそうした予感を捨てきれず、登場人物の一挙一動、感情の揺れに触れては、大いに心を乱し、まさしくその事件、現場において右往左往するひとりであるかのように動揺を来して、そして私は湖西晶の物語る強さ、強靱にして健全であろうとする思いの確かさに圧倒されて、声もなく、涙流すでもなく、けれど心の奥底にまで光が射したかのような深い感動がただそこに大きくある、そのような瞬間に立ち会うこととなったのです。

この人はすごい。百遍いっても足りません。この人はすごい。この人はすごい。絵が自ら物語り、言葉が生き生きとその先を探している。この人はすごい。この湖西晶という人は、すごい。この人を見誤ってはならない。この人はすごい。この人はすごい人です。

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