えい出版(えいは木偏に世と書くんだけどコンピュータじゃ使えないみたい)から文庫が続々出版されていた時期があって、だんだん充実していくえい文庫の棚にたまたま見つけて、そのタイトルの面白さから買ってしまったのがこの本です。内容はまさにタイトルどおりで、ライカで撮ったモノクロ写真についてのこと。けれど写真本を期待しちゃいけないと思う。内田ユキオという写真家のエッセイが中心で、そこに写真がアクセントとして加わる感じといったらいいでしょうか。けどただのエッセイ本というには写真はしっかり充実してるから、写真を見たい人にもいいかも知れません。
でも、正直なところをいうと、どっちつかずの中途半端な本という印象も否めません。けど、私はこの曖昧さは結構嫌いじゃないのですよ。
さて、ここでことわっておかないといけないのですが、私は内田ユキオという人を全然知りません。この本を知る以前にも、この本を知った以降にも、この人について知る機会はついぞ与えられず、つまり私にとって内田ユキオとはこの本でしかない。しかもさらにいえば、私はこの本のタイトルこそは覚えているけれど、著者の名前はちっとも覚えていなくって、だから私にとってこの本はこの本そのものでしかない。
こういうスタンスは私の写真に対するスタンスそのものといっていいのかと思います。そりゃ私だって何人か写真家の名前くらい列挙はできるのですが、けれどそれでも私にはそれらはあんまり重要じゃないんですね。写真を見る。美しいな、すごいな、迫力だな、神秘だな、と思うことはありますが、けれど私にとっての写真は見るものではないのです。撮る。それでしかなくて、撮るという行為によって私がそこにいたということを確定したい。いや違うか。私のいた風景を確定したいという方がそれらしいかも。そりゃ出来がよければそれに越したことはないけれども、私における写真とはまず撮るであり、それ以上でもそれ以下でもないんですね。
いま、『ライカとモノクロの日々』を思い出したのは、GR DIGITALを欲しいと思ったことが関わっていて、でも私がGRを買ったとしたらなにを撮るの、という疑問も涌いてきて、だから写真を撮るってどういうことだろうと、思わずこの本を出してきたとそういうわけです。でも、答えがこの本にあるわけじゃなくて、とにかくこの本に収録された写真を見たかったんです。それで、写真というのが決して大振りに構えて撮らなければならないものでないと確認したかったのだ、と思います。
この本には、素敵な写真がいっぱいあって、その写真の半分くらいかそれ以上を日常ぽさの残されたスナップが占めていて、こういうのを見ると写真を撮るには大げさなロケーションとかいらないというのがわかって、だとしたら私がGRを手に歩いたその時々の印象を撮ればそれで充分なのかも知れないという気にもなれるというわけで、ならGRを持つことは悪くないと思えてくるというわけで、じゃあ買おうという気にもなれるかも知れない。
現実にはなかなかそういう風にもいかないんですけどね。
この本の写真を見て、ああこの感じがいいなと思う写真のほとんどがズミクロンの50mmで、やっぱり私は標準レンズが好きなのかもと思えば、GR DIGITALの28mmは不安になります。いや本当どうしたものか、50mmには被写体の側にたっているような感じがあるんですね。そして多分私はその感覚が好きなんですね。いや本当どうしたものでしょうか。
- 内田ユキオ『ライカとモノクロの日々』(えい文庫) 東京:えい出版,2002年。
 
私はずっとデジタルカメラが欲しいと思っていて、その割に全然買う気配を見せないのはなぜかというと、好みのカメラがどうにもみつからないんですね。私の好みというのはどんなかといいますと、シンプルであろうかと思います。デジタルガジェットとしての面白さなんてなくていいんです。とにかく、操作が簡単でちゃんととれればいい。そして、これが重要なのですが単焦点。ズームは面倒くさい。カメラは単焦点でいいのです。
私がこの本に出会ったのは高校に通っていたころ、図書室においてでありました。もともとから自然科学に興味のある私には、このストレートなタイトル『クジラは昔陸を歩いていた』の訴える力はかなりのもので、とりあえず内容もよくわからないのに借りてみて、そしてはまってしまいました。丸ごと一冊がクジラでもって貫かれていましてね、またそれがちょっと想像を超えるような話ばかりですから、いや本当にすごいなあと感心するばかりなんです。クジラの潜水能力、そして餌を得るための攻防。それら描写は、どことなくのんびりとおおらかに見えるクジラのまた別の側面を描き出して、お気に入りの一冊になりました。
なんだか買い物ノートのような様相を呈してきたこのBlogですが、そう、今日の買い物は『
デアゴスティーニの隔週誌『
私がその発売を楽しみにしている漫画雑誌『
図書館で借りた本、本の表紙をめくったところにはポケットがつけられていて、そこに図書カードが差し込まれていたというのはいったいいつの頃のことでありましょう。図書カードには、これまでこの本を借りた人の名前が書かれてあって、もちろん一番最後には今この本を手にしている私の名前があるはずで、そしてその上にはいつも同じ名前があったとしたら……。
私はヨーロッパの中世という時代が好きで、とりわけ好きなのはゴシック、と思っていたのですが、どうやらそういうわけでもないみたい。昔、図書館に勤めていたときに、中世っぽさを持った建築について知りたいという欲求にとりつかれたことがありまして、それは例えば城であるとかについてとかが知りたかったのですが、残念ながら城についての資料を見つけることができず、かわりにたどり着いたというのがロマネスクという様式、そして修道院であったのです。ロマネスクというのはゴシック以前のヨーロッパに生まれた様式で、天を目指して上へ上へとのびんが如しのゴシックとは異なり、簡素でやわらかな印象を与えるロマネスクは地にありて粛然としています。
iPodで音楽を聴いていると、新たな発見が次々とあるのです。今日、朝、通勤の電車を降りて歩いているときに、彼方に響くようなピアノの連打音が印象的に聞こえてきて、ああ、これは『ヴァルトシュタイン』だ。けれど私はこれをずっと『ハンマークラヴィーア』と思い込んでいて、あの低音の連打音。これは、確か、新しいピアノを手に入れたベートーヴェンがその音域の広がりを確かめるように、新しい表現の可能性を試すようにして書いたものだったはず。そう、この新しいピアノ、つまりハンマークラヴィーアを手にしたベートーヴェンの喜びがあふれるような曲であるから、私はこの曲を『ハンマークラヴィーア』と誤解して覚えてしまった。けれど何度もいいますがソナタ21番は『ヴァルトシュタイン』。ベートーヴェンの中期ピアノソナタにおける傑作であります。
去年だかおととしだかくらいから、百合などといって女性同性愛をモチーフにした漫画やライトノベルが流行っているようですが、私はこうした傾向は大歓迎。なんと、これらの流行がおこる以前から私の中にはこういったものへの傾倒があったんですね。これからちょっとややこしいことをいいますがどうか黙って聞いてつかあさい。
なんかここのところ重野なおきづいているといいますか、『
私は第二期くらいに属するガンダム世代でありまして、再放送の再放送くらいでその洗礼を受けたのです。はじめてみた回は、忘れもしません第36話「恐怖!機動ビグ・ザム」。このことについてはもう
今日はなぜか歌を歌いたい気分だったのか、手持ちの楽譜を次々、それこそ棚卸しするみたいにしてひとつひとつ歌っていって、そうしたら『さとうきび畑』の楽譜があるのを発見、歌ってみてそしてこの歌のあまりに歌いづらいことに気付いたのでした。技術的に困難というんじゃないのです。楽譜の一番あたまに記された発想の表示は、淡々と、感情をおさえて。ええ、これは本当に必要なことであると思います。表現の上でもそうであれば、それ以前の歌う姿勢として私には大切な心構えで、というのも、だって、私は油断をするとうっとつまってしまって、感極まってしまうのですね。つとめて感情を抑えていないと、歌うどころではなくなってしまうんです。


ご存じ重野なおきのお送りする熱血教師学園四コマ。私の購読しているまんがタイム系列誌にこの人を見つけて、ああいい漫画を書く人だなあと思って、単行本を買いはじめて、その判断は正解だったと思ったものでした。たまにあるんですけど、雑誌によって作風を使い分ける人というのはあって、だから未見の漫画を買うというのはちょっとした冒険なのです。まとめて既刊を買って、うわー、やっちゃったよー、なんてことももちろん一度や二度ではなく、だからもしこれから重野なおきに挑戦してみたいという方がいらっしゃったら、私が保証します。なにか重野漫画で好きなものがあれば、他のものもきっと同様に楽しめますよ、と保証します。
私はナムコのゲーム『

『
私はいうまでもなくさだまさしのファンで、けれど、残念ながらそれほどレコードやなにかをもっているわけでもなく、その楽曲のすべてを網羅しているわけでもなく、でもそれでもさだが好きなのです。どこが好きなのかといわれれば、叙情性と滑稽味とが合わさって、けれどただ美しいだけでなくぐさりと突き刺すような透徹して鋭い詩の世界が音楽と拮抗して、そのせめぎあいと調和がさだの魅力なのであるかと思います。けれど、後年の曲にいたっては、より散文的な色合いを強めてしまって、そうしたほとんど散文といえるような歌詞で曲を書けるというのもすごいことなのですが、でも私は初期から中期にかけてのさだの、美しい詩情の世界がことさら好きなのであります。
私だって少しくらいジャズも聴きます。けれど詳しいかといわれたら、すこぶる疑問なのですよね。残念ながら、ほとんど知らないといわざるを得ません。定番中の定番といわれるようなプレイヤーの、さらに定番といわれるようなアルバム、演奏を知っているくらいのものでありまして、ちょっと突っ込んだところに話が向かうと、途端になにも話せなくなる。それくらいに私はものを知りません。
私は川本真琴が好きです。歌に元気があふれて、それはもうはじけるようにはつらつとしていて、けれどその明るさのなかにはどことなく暗い影が差していて、そのギャップにひかれているのかも知れません。基本的に素直な歌。けれど屈折している。素敵であると思います。
今日はちょっとイベントの手伝いにいってきまして、といっても自分がなにかするというわけではなく、イベント会場で提供されるコーヒーの給仕がメインです。あと設営や撤収の手伝い、まあイベントが滞りなく運営されるよう、細々手伝うというだけの話です。ちなみにボランティア。昼食に弁当こそは出ましたが、交通費も出ないという、そういう感じの、本当にお手伝いというやつです。

私は思えばいつの頃からこの日の来るのをを待っていたのかわかりません。と、いきなりわけのわからない話の切り出しをしますが、いったいなにがあったのかといいますと、『
今日は疲れてしまいました。仕事をしているからというのもまああるにはあるのですが、それ以外のことに疲れてしまって、といってもなんかいやなことがあったというわけではないんですよ。趣味のプログラムに手を出してしまいまして、こうなると私はどうにも駄目でしてね、寝ても覚めてもプログラムのロジックをどうしようって考えて、目はらんらんとするし、頭の中はぐるぐるだし、で、ある程度完成するとそれまでの張りつめた状態が緩んでしまうから、ぐったりとしてしまうのです。
キーボードがほしいだなんていってきて、いざ
四コマ漫画にはもうつかれちゃいました。次から次に創刊される系列誌。漫画はそのほとんどが単行本化されることなく消えるため、おちおち雑誌を捨てるわけにもいかず、かといってため込むにはあまりに多すぎる量にあっぷあっぷして、こうした状況を見て、私は四コマというジャンルが爛熟に向かっているのだろうなと実感しています。爛熟。熟しきれば後は落ちるだけ。その落ちた後に残る漫画はいったいどれだけあるのかと思うと、そうですね、多分『サクラ町さいず』は残る漫画なのではないかと思います。
売れない作家の夫を支えるけなげな妻の姿がいじらしく、けど耐えて忍ぶばかりが女じゃないぞというのが『だって愛してる』の本領なのだと思います。肝っ玉母さんなんていうとやたら古くさく感じられるんですが、けれど持ち前の度胸と包容力、そして明るさで夫雄二を支える街子を見ていたら、そんな古くささもどこ吹く風で、なんかいい景色が見えてくるようではありませんか。けど、母さんというにはまだ早く、奥さんというのも、妻というのもなんだかしっくりこないような気がして、そうですね、この人に似合うのはつれあいということばなんじゃないかと思います。作家のつれあい、二人三脚、少しずつ深まっていく、とそのような感じがする佳作。地味ながらなかなか侮れない佳作であります。
それについては全然、なんにも知らないんだけど、それでも好きだっていうものがあるかと思います。背景やなんかなんて知らない、目にしているそのもの、耳にしたそのもの、それだけしか知らないけど、それがぱっとあらわれてくると嬉しくてしかたがないというものがあります。もちろん私にもあります。そうしたもののひとつがMejaのAll 'Bout the Moneyでありまして、姉が持っていたCD MAX5に収録されているのを聴いて、どうしても忘れられなくなったのがこの曲を意識したはじめでしたね。
