図書館で借りた本、本の表紙をめくったところにはポケットがつけられていて、そこに図書カードが差し込まれていたというのはいったいいつの頃のことでありましょう。図書カードには、これまでこの本を借りた人の名前が書かれてあって、もちろん一番最後には今この本を手にしている私の名前があるはずで、そしてその上にはいつも同じ名前があったとしたら……。
『耳をすませば』はそうしたロマンティックなシチュエーションのもと出会った男女の物語で、まさしくボーイ・ミーツ・ガール。いや主人公が女性であることを思えば、ガール・ミーツ・ボーイというべきか。私の読もうとする本を先に借りている誰かがいる。誰かわからない、わからないからこそ知りたい。私の読みたい本を同じように読みたいと思ったまだ知らぬあなたはどんな人なのでしょう。実にロマンティックな導入であろうかと思います。
で、ロマンティックなのはよいのですが、残念ながらこうした出会いはもう不可能なのですね。というのは、図書館というのは利用者のプライバシーを守らなければならないわけでありまして、つまりこの本を誰が借りたかということを第三者に知らせるわけにはいかないのです。そのため、貸出の履歴を簡単にたどることのできるこの方式、ニューアーク式は衰退し、ついに消え去ったのです。ですが、私が子供だったころにはまだこの方式は細々ながらも存えていて、だから図書館における利用者のプライバシー保護がなされるようになったのは、ここ二十年ほどのことであることがわかります。と、そんなわけで、『耳をすませば』のようなロマンティックな出会いはもはや起こりえないというわけです。
このへんの事情は、ストーカー事案が重大な社会問題化したことで、一目ぼれを成就させることが極めて困難になったというのに似ているでしょうか。
私が最近やっているゲーム、『ときめきメモリアルONLINE』にはドラマ(ロールプレイ)というのがあって、決められた役割を演じて遊べるのですが、今日やってみたものがまさにこの『耳をすませば』シチュエーションでありまして、時代は二十一世紀だというのに、図書館がニューアーク式をすでに廃してしまっているということも、その前提となる利用者の秘密保持についても、かくも知られていない。つまりこうした現実の図書館に乖離した描かれ方がされる背景には、図書館への興味の薄さがあるわけで、あまりの描かれ方の旧態依然とした様に愕然としてみたり、まあ、ゲームごときで嘆きなさんなよといった話なのですが、でもまあ一応かつて図書館員であった身としては思うところがあるという話なのです。
でも、それでも、この見知らぬ相手に興味を持って、というのはなかなかにドキドキとさせるシチュエーションであるのは確かで、TMOのドラマにおいてはべたな設定で進行するのが常だから、もうニューアーク式が出た時点で最後に見つかるのはあいつだっ、みたいに分かり切ってしまうのですが、けれどもしこれが現実のシチュエーションであったら。本当に誰かわからない名前をいつも私の借りる本に見つけてしまう。本というのは、まさしく人の興味のそのものであるといい得るものであって、だとすれば私と興味を同じくするまだ見ぬあなたはどんな人であるのでしょうか。
私はプライバシーが守られなければならないことは百も承知しながらも、昨今なお強弁される個人情報保護の意義を理解しながら、でもあまりにこうした情報が隠蔽されすぎる状況というのもまた空しいのかも知れないと思ったりします。けれど穏やかであった時代は過ぎ去ってしまって、住所や電話番号は当然として、名前さえ覆い隠して見せようとしない時代がやってきたと感じて、今自分の暮らす時代の世知辛さを思います。なにも昔がよかったといいたいわけではありません。仮に昔に戻ったとしても、『耳をすませば』のような状況は私には訪れない。けれど、それでもあまりに人の顔が見えないような時代に、私はあたかも空白に向かって声を投げかけるような一抹の寂しさを感じているといえばいいすぎでしょうか。
私が、たとえすぐ側に人の気配を感じたとしても、いやむしろ人の存在を感じるからこそ、よりいっそう空しさ、寂しさをつのらせるのは、いったいどういうことなのか。自分自身でわからず、まるで私は暗闇に包まれたようで悲しいのです。
- 柊あおい『耳をすませば』(りぼんマスコットコミックス) 東京:集英社,1990年。
- 柊あおい『幸せな時間—耳をすませば』(りぼんマスコットコミックス) 東京:集英社,1996年。
- 柊あおい『耳をすませば』(集英社文庫) 東京:集英社,2005年。
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