世間では『サラダ記念日』をきっかけに短歌ブームが巻き起こりたり、って、ああ五七調になっちゃったよ。実は私は短歌を詠んでいた頃があって、それもわりと熱心に取り組んでいたのですが、例えば短歌の専門誌『短歌現代』を購読してたりしましてね、ポケットにはいつ詩情にとりつかれても大丈夫なようにメモとペンが入っていました。今はもうその頃のようには乱造しなくなったのですが、それでもまれに詩情にとりつかれることはあるんですよね。それが今日。なんか思いがかたちをもとめて騒がしいものだから、どうにも詠まんではおられなかったのです。
と、いきなり『サラダ記念日』を引き合いに出しておいてなんですが、私における短歌のきざしは俵万智ではありませんで、じゃあ誰かといいますと栗木京子でありました。いったいなにで目にしたものか、栗木京子の一首を目にとどめて、それが歌集『中庭』からの一首と知った私は、その一冊を求めて書店へと急いだのです。
だから私がはじめて買った歌集というのは栗木京子の『中庭』で、ちょうど『水惑星』と一緒に編まれた本がでたところであったらしく、だから私の持っているのは『水惑星・中庭』です。この文章を書こうと思って、久しぶりに出してきました。この本は、書棚のおそらく最も古い状態が保持された棚の中に発見されて、淡いオレンジの装幀も往時のままに、なんだか懐かしいとは思いつつもまだ十年は経っていないのですか。震災があって、その二年後、私が歌詠みに精を出していたのはその頃だから、時期的にもぴたりとあいますね、ってなんの時期だか。
栗木京子の歌は、割合に神経質で、意識のたっているという印象が私にはあるのですが、そうした感覚が当時の私にはマッチしていたのだと思います。いろいろなことが歌に詠まれていて、私はそれまで短歌をきちんと読んだことなんて一度もなかったから、したたかショックを受けました。そうか、こんな世界があるのかと思って、だから釣り込まれるようにして歌を詠んで、今あの時の歌の数々はどこにあるんだろう。きっとぎこちなくて、けれど今よりもずっと若々しい言葉が踊っているはず。でも、多分あの頃は言葉にしようと思ってできない思いもあったはずで、そうしたことどもを私はどのように詠んでいたのか。臆面のなくなった今の私からは感じ取れないナイーブさが残っているんじゃないかと思うと、読み返すのはちょっと怖いですね。
今から当時を思い起こして一首:
恋に千々乱れし胸をおさめんと歌詠みてなほ思ひはすさび
しかし、今栗木京子の歌集を紹介しようと思って、それがことごとく絶版している、Amazonにおいては検索にさえ引っかからないというのはほとほと悲しいことでありまして、読めさえすればきっと響く心はあるだろうのに。
短歌は人気じゃないのかなあ。読めば面白く、自ら詠めばなお味わい深いものだというのに。
- 栗木京子『水惑星・中庭 : 栗木京子歌集』(2 in 1シリーズ) 東京:雁書館,1998年。
- 栗木京子『中庭 : 栗木京子歌集』東京:雁書館,1990年。
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