2008年1月16日水曜日

雇用融解 — これが新しい「日本型雇用」なのか

 真実を知りなさいという言葉を、世の残酷から目をそらしてはいけないと受け取ったわけでもありませんが、昨年末、丁度その年が終わろうという頃に『雇用融解』を購入しました。『週刊東洋経済』にて展開された特集をベースに単行本化されたこの本は、現代日本における労働の実態を描き出そうというルポルタージュです。巨大化する人材派遣市場の状況をレポートし、そしてその顧客である企業内部でなにが起こっているかを描き出すのですが、問題は派遣労働や請負の現場にとどまらず、非正規労働から正規労働にいたるまで、多様な現場で起こっている雇用状況の崩壊に踏み込んでいく労作であります。

いやね、他人事ではないんですよ。私は有期雇用契約に基づいて働く労働者なのですが、働けている今はいいけれど、雇止めされたらどうしよう、そもそもいつまでこの状況が続くものだろうか等々、やっぱり不安があるんですね。けれど、今から新たな職場をと思うと非常に厳しいわけで、年齢もあるし、資格にしてもろくなの持ってないから、もうあかん。コネでもあれば別かも知らんが、コネに頼るのはいやなんじゃあと突っぱねていたら今の状況。けれど、今の職場だって人に紹介されてようやくありつけたものなんです。じゃあもしそうした人がなかったらどうだったろう。まあ、いわゆるフリーターって奴だったんじゃないかなあ。以上、私のおかれている状況はこんな感じです。

今の労働をめぐる状況は、非常に厳しいといわざるを得ないものがあるかと思います。正規雇用にありつけなかったものは、フリーターとして、あるいは派遣や請負の労働者として低賃金での労働を余儀なくされて、そしてそこから抜け出すことが難しいという現実があります。日本においては特にそうだと思うのですが、新卒者を前提とする採用が一般的で、ある程度の年齢に達すると雇用のチャンスがそもそもないという状況に追い込まれてしまうんですね。丁度私が大学出た時ですが、就職氷河期といわれた時期があって、とにかく職がないんですね。私は職がなかったから院に進学したのですが、二年ほど潜伏したらなんとかなるかななんて思ったわけですが、ならなくってですね、今に至る。自己責任かい? そうかもね、自分で選んだ道だもの。ただよく私は思うのですが、グッドエンド、せめてノーマルエンドに向かう選択肢が出なかった人はどうしたらよかったんでしょう。いやね、ゲームやっててね、ああ自分の人生にはこういう選択肢は出現しなかったなあって思う。もしかしたら、どこかで一度間違えたんだね。それがバッドエンドに向かうルートへの入り口だったわけだ。かくして死亡フラグを立ててしまった人たちは、以後どこでどう挽回したらいいのでしょう。

以前、『ルポ最底辺』で書いた時にもいっていましたが、我々の暮らす社会には人生ゲームでいうところの開拓地がないんです。『雇用融解』に収録されたインタビュー、会社社長である奥谷禮子氏は、格差社会は仕方がない。結果平等ではなく機会平等を選んだ以上、実力によって格差が生じるのは当然だっていっています。けど、これ本当なんだろうかと思います。本当に機会は均等なのか? 平等だったのか? 実際問題として、親の職業、年収の違いが、子供の進路を大幅に決定するなんていいます。階層の固定が現実的に起こっているって話です。いったん派遣労働者、フリーターとなってしまうと、なかなか正規雇用には移行できないなんて状況ももちろんあるわけです。そんな状況で機会平等社会だなんていわれても、正直詭弁にしか聞こえない。いったいそんな社会、どこにあんねん。仮に機会が均等であったとしても、人生のある時点までに、その少ないチャンスをものにしなければいけない。数少ないチップを賭けて、すってしまえばそれまでか? 我々は逆転、はい上がりのチャンスを持たないままに、ゲーム盤にのせられてしまっているんだなあ、そんな感想ばかり残ります。

私は正規雇用にありつけなかった側の人間ですが、友人には正規雇用を得たものももちろんおります。彼は外食産業で働いており、数年で店長になったと聞いていますが、その働き方がものすごかった。二三ヶ月だったかなあ、休みらしい休みがない。朝早く出て、日付が変わるまで働いていました。残業代とか出てるのかなあ? 多分出てないんじゃないかなあ、なんて思うのは、丁度この本にあったファストフードチェーンの事例、店長の状況がそんなだったからで、店長という肩書きをもって管理職とみなし、残業代を付けない。実態として雇用側に近いわけでもない人間なのに、そういう立場とみなすことでコストカットできるというからくりで、まあこれは実にポピュラーな方法でありますが、無償の労働を課すわけですね。どんどん生活が労働に蝕まれる状況があるわけで、正規雇用にありついてもこんな働き方を強いられるんだったら、非正規の方がまだましだと思えてしまう。もちろん、会社もいろいろ、非正規もいろいろで、真っ当な正規雇用もあれば、やばい非正規もたくさんあるわけで、いわばこれも運。なにを選んだとしても、運が悪けりゃはいそれまでよ。人生においてもっとも重要なパラメータは運であるなあ、そんなこと思わなければならないっていうのも、実際正直どうなんでしょう。

つい最近、違法な労働者派遣を繰り返していたとして、グッドウィルに事業停止命令が出ましたね(2008年1月11日)。グッドウィルは、この本の第1章にて取り上げられた人材派遣大手のクリスタルを買収した企業でありますが、法令遵守に問題のあるクリスタルだがわれわれが引き継いだ後に悪くなることはない。直せば済む話ですといっています、ほかならぬ折口雅博会長が(インタビューの形式で収録)。そうかあ、なおらなかったんだ! さて折口会長はワーキングプアの問題について問われこんな風に答えています。

いずれにしても人材サービス会社や企業は何も強制していないということです。君たちはこれで働きなさいと強制しているんじゃなくて、彼らはその道を選んでいるんです。

そう、選んだんです。けどそう選ぶしかなかった、他の選択肢が出なかった者もあるんです。目の前にある選択肢の中から、よりましだと思えるものを選んだらこうなった。そうしたものはどうしたらいいんでしょう。そして、そうしたものに機会は均等だった、能力かそうでなければ努力が足りなかったんじゃない? という言葉が投げ掛けられる。けど、それは本当なんだろうか。こうした言葉が有効なのは、開拓地の用意されたゲーム盤においてではないのか。そして今我々の社会に開拓地はあるのか? 答えはとうにわかっているけれど、私はそれを問いたいです。

引用

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