
『ぽっかぽか』については『女神の寝室』で書いたときに、もう充分言い尽くしたような気がするので、書くのはよそうかと思っていたのです。けれど、なんかSHINOすけさんが『ぽっかぽか14』で書いてらしたもんだから、どうにもこうにも私も書きたくなってしまって、ええ、意志の貫徹しない人間が私ですから。いいんです。
『ぽっかぽか』、私にとっては夢のような漫画であります。描かれている家族の、ゆったりとやわらかで、けれどもしっかりとした関係には憧れて仕方がないところがありまして、ああ私もこんな家庭を築きたいなあと思ったことは一度や二度ではありません。私は妻がぐうたらであってもなんとも気になりませんし、料理だってしますよ。とはいっても、私は慶彦じゃないからこういう家庭にはならないでしょう。ええ、絵に描いた餅は言い過ぎにしても、漫画の中にだけ存在するような理想の家庭であると思っています。
私はあまりにも人間ができていないのです。日常の些事に心も感情も揺れて、機嫌もあれば虫の居所の良し悪しもあって、果たして慶彦のようにあることができるだろうかと自問します。答えはおのずと決まっていまして、無理だというしかない。だからこそ、田所一家をうらやましく思う。慶彦に、麻美に憧れを感じますが、そしてあすか。あすかくんは、ぐずったり無理いったりすることはあっても、やっぱり理想的子供であると思うのです。
残念ながら私たちは、理想郷には住むことができません。
『ぽっかぽか』の価値は、この理想を恥じることなく理想として描ききって、その理想形のまま物語を閉じるところにあるのだと思います。様々に事件があって、壊れそうな関係やなんかがあって、けれどそれらは田所一家のゆるやかな暮らしに触れることで新たな視点を見付けて、もう一度やり直してみようと、あるいは今までとは違う一歩を踏み出してみようと思う。
こうした理想の結末にたどり着くまでの道筋が、あまりに純情であまりに素直で、そしてあまりにハッピーであるから、読んでいるものもきっとほだされて、私も — 私たちもこうありたいと思うのでしょう。私はそうです。慶彦そのものとはいわずとも、なんとか少しでも人と人との関係をよりよく、暖かなものに変えたいと願うような気持ちになるのです。
…例えば空にすごーくきれいな雲があって、それがすごーくすごーくきれいだと思ったとき、振り返ってあなたを呼んで、ふたりでながめる幸せ
麻美の話すいちばんの幸せ。ええ、ええ、私はこれを読んだとき、本当にそうだと思った。そのとおりだと思った。
私は根っから横着だから、身近にあるものをだんだんあって当たり前であるように勘違いして、粗末にしてしまうんです。けれど、本当はそれがそこにあるということはなにものにもかえがたいことであり、それはもちろん人にしても同じことであるのです。改めていうようなことではありません。誰もが知っているようなことです。ですが、この当然のことをともすればないがしろにして、あとで後悔するのは結局一番大切なことをないがしろにした自分自身なんですね。
だから、私は自分への戒めとして、麻美の幸せといったことを、忘れないようにしたのです。けれど、やっぱり私は人間が駄目にできているから、その自分の決めたことさえ満足にできずにいます。その人がただそこにいるということの価値を、自分の感動をその人がともに感じてくれるということへの仕合せを、ともすれば忘れてしまいます。
- 深見じゅん『ぽっかぽか』第1巻 (YOUコミックス) 東京:集英社,1988年。
- 深見じゅん『ぽっかぽか』第2巻 (YOUコミックス) 東京:集英社,1989年。
- 深見じゅん『ぽっかぽか』第3巻 (YOUコミックス) 東京:集英社,1991年。
- 深見じゅん『ぽっかぽか』第4巻 (YOUコミックス) 東京:集英社,1992年。
- 深見じゅん『ぽっかぽか』第5巻 (YOUコミックス) 東京:集英社,1993年。
- 深見じゅん『ぽっかぽか』第6巻 (YOUコミックス) 東京:集英社,1994年。
- 深見じゅん『ぽっかぽか』第7巻 (YOUコミックス) 東京:集英社,1995年。
- 深見じゅん『ぽっかぽか』第8巻 (YOUコミックス) 東京:集英社,1997年。
- 深見じゅん『ぽっかぽか』第9巻 (YOUコミックス) 東京:集英社,1998年。
- 深見じゅん『ぽっかぽか』第10巻 (YOUコミックス) 東京:集英社,1999年。
- 深見じゅん『ぽっかぽか』第11巻 (YOUコミックス) 東京:集英社,2000年。
- 深見じゅん『ぽっかぽか』第12巻 (YOUコミックス) 東京:集英社,2002年。
- 深見じゅん『ぽっかぽか』第13巻 (YOUコミックス) 東京:集英社,2003年。
- 深見じゅん『ぽっかぽか』第14巻 (YOUコミックス) 東京:集英社,2005年。
- 以下続刊
- 深見じゅん『ぽっかぽか — ちいさな絵本』(愛蔵版コミックス) 東京:集英社,1996年。
- 深見じゅん『ぽっかぽか』第1巻 (YOU漫画文庫) 東京:集英社,1995年。
- 深見じゅん『ぽっかぽか』第2巻 (YOU漫画文庫) 東京:集英社,1995年。
- 深見じゅん『ぽっかぽか』第3巻 (YOU漫画文庫) 東京:集英社,1995年。
- 深見じゅん『ぽっかぽか』第4巻 (YOU漫画文庫) 東京:集英社,1995年。
- 深見じゅん『ぽっかぽか』第5巻 (YOU漫画文庫) 東京:集英社,1996年。
- 深見じゅん『ぽっかぽか』第6巻 (YOU漫画文庫) 東京:集英社,1998年。
- 深見じゅん『ぽっかぽか』第7巻 (YOU漫画文庫) 東京:集英社,2000年。
- 深見じゅん『ぽっかぽか』第8巻 (YOU漫画文庫) 東京:集英社,2002年。
- 深見じゅん『ぽっかぽかTHE BEST』第1巻 (YOUコミックス) 東京:集英社,2004年。
- 深見じゅん『ぽっかぽかTHE BEST』第2巻 (YOUコミックス) 東京:集英社,2004年。
- 深見じゅん『ぽっかぽか — 春の編 春はあけぼの』第1巻 (集英社ガールズリミックス) 東京:集英社,2002年。
- 深見じゅん『ぽっかぽか — 春の編 花びらの食卓』第2巻 (集英社ガールズリミックス) 東京:集英社,2002年。
- 深見じゅん『ぽっかぽか — 春の編 春が大好き』第3巻 (集英社ガールズリミックス) 東京:集英社,2002年。
- 深見じゅん『ぽっかぽか — 夏の編 夏がだいすきPart1』第4巻 (集英社ガールズリミックス) 東京:集英社,2002年。
- 深見じゅん『ぽっかぽか — 夏の編 あすかのおべんとう』第5巻 (集英社ガールズリミックス) 東京:集英社,2002年。
- 深見じゅん『ぽっかぽか — 夏の編 おとうさんといっしょ』第6巻 (集英社ガールズリミックス) 東京:集英社,2002年。
- 深見じゅん『ぽっかぽか — 秋の編 ゆうやけこやけ』第7巻 (集英社ガールズリミックス) 東京:集英社,2002年。
- 深見じゅん『ぽっかぽか — 冬の編 お月さまにある庭』第8巻 (集英社ガールズリミックス) 東京:集英社,2002年。
- 深見じゅん『ぽっかぽか — 冬の編 くりすます・つりー』第9巻 (集英社ガールズリミックス) 東京:集英社,2002年。
- 深見じゅん『ぽっかぽか — 冬の編 ないしょ』第10巻 (集英社ガールズリミックス) 東京:集英社,2003年。
引用
- 深見じゅん「お月さまにある庭」,『ぽっかぽか』第7巻 (東京:集英社,1995年)所収【,41-42頁】。
昔、まだ私が図書館で働いていた頃、私は住居や都市設計というのに興味があって、特に西洋の城を中心とした城塞都市や教会と広場を軸とする都市計画というのを理解したいと思っていました。いや、別に西洋風都市に住みたいとか、やっぱりうちは洋風よねとかいうつもりはまったくなくて、純粋な興味からでした。人間の生活の場である住宅には、その土地土地の風土や条件に応じた工夫や制限があり、またその文化における暮らしの考え方が如実に表れるはず。そう、私はこの西洋と日本の差異を知りたいと思っていたのです。いや西洋にかぎらず、多様な環境における住と人について知りたかったのでした。
私は、発売日から半年遅れで『ガンパレード・マーチ』に参加したレイトカマーであったのですが、それでもはまりましたね。あの、説明書に触れられている世界の謎。
『三者三葉』の二巻が発売ですよ。
私は山本夏彦が好きです。氏の読者としては、遅れてきた部類に入るようなものではありますが、それでも夏彦翁の飄々とした語り口、諧謔にあふれた言葉の端々にうかがえる鋭く冷めた視線、寄せては返す波の音、繰り言みたいに同じ話が何度も表れて、けれどそれがちっともいやにならないのは、それがひとつの芸みたいになっていたからだと思います。
一時期、うちではイタリア映画がブームになったことがあって、『道』のジェルソミーナの儚げな様子に涙したりして、だから『父 パードレ・パドローネ』も、そうしたイタリア映画体験の一環で見たのかも知れません。確か、NHK教育がマイナーな映画を午後三時くらいに放映してくれたりしますが、そういうので見たんですね。予備知識もなく見て、私はこのちょっと一癖ある映画にびびびっと打たれたのでした。ガヴィーノ・レッダの半生において、言葉が運命を照らし出す光そのものであったということ。
以前、友人のお家に遊びにいった時、車に乗せてもらったんですが、カーオーディオから流れてたのが『ちょっときいてな』という曲で、私にはすごくカルチャーショックだったんです。なにがショックといっても、その歌詞。関西弁です。関西弁といっても、よくあるえげつない関西弁ではなくて、子供の頃から耳に馴染んできた、私の愛する関西テイスト。私はこの言葉に京都周辺地域の匂いを感じたのですが、歌い手である藤田陽子は奈良の人らしく、だから奈良弁。うん、確かに京都弁では言いはんねんとはいわない。うちらへんでは言わはんねんというのが普通です。
昨日、『G線上のアリア』は嫌いだけど、バッハの『管弦楽組曲 第3番 BWV1068』の「エア」は好きといってのは、いったいどういうことかといいますと、この二曲はおんなじ曲なんですね。バッハの作曲した組曲中から一曲を抜き出して編曲されたのが『G線上のアリア』なのです。編曲者はオウガスト・ウィルヘルミで、ヴァイオリンのGの弦だけで弾けるように編曲されたことが、G線上のという不思議な名前の所以です。
ポップスやなんかではベストアルバムをよく買っている私ですが、クラシックに関しては別。ベスト盤とかオムニバスとかは基本的に避けていて、というのもですね、抜粋されてるのが嫌いなんですよ。オペラとかオラトリオとかバレエ音楽とか劇付随音楽ならまだ我慢もしますけど、なんで全部聞いても二十分かからないようなソナタやなんかまで抜粋で聞きたがるのか。まとめて聞こうよ。と、こんな考えでいる私ですから、『G線上のアリア』とか大っ嫌いです(でもバッハの『管弦楽組曲 第3番 BWV1068』の「エア」は好き、いうまでもなく)。

今、手持ちのCDをiTunesに取り込んでるのですが、もうなんというか、こんなの持ってたんだというのが続々出てきてもう大変。ええ、つまりですね、まあもうおわかりかとは思いますが、本日の発掘の成果が『ママレード・ボーイ』であったというわけです。もう、出てくるは出てくるは、わんさか出てきてびっくり。ああ、あの頃はりぼんの漫画が熱かったのだ。

今日、ギターの練習をしていたら突然弦が切れました。あの、弦が切れた瞬間というのは、本当にびっくりするものなんですよ。あまりに突然だから、なにが起こったかわからない。で、弦が切れたということを理解して、ひえええええ、弦が切れたあああ、と叫ぶ。いや、叫びはしませんけど、そんな気持ちになるんです。特に今日みたいに、弦を替えてまだ数日なんて日には、本当に叫びたい気持ちになるものなんですよ。
私が『ラン・ローラ・ラン』を知ったのは確かNHKのテレビ『ドイツ語会話』だったと記憶しています。文化コーナーで紹介されてて、それがどうにも面白そうだと思ったんですね。それに多分タイミングもよかった。
昨日、心斎橋のクラブクアトロにいってきまして、この出不精の私が珍しいことにライブですよ。フランスのシンガーソングライターTétéが日本にやって来るというので、以前一緒にフランス語を勉強していた友人が、一緒にいこうと誘ってくれたのでした。でも、その時私はこの人のことまったく知りませんでしたから、その音楽がどんなのかもわからない。どうしようかなあとちょっと迷って、考えさせてくれるって返事したんですね。その後、どんな音楽でも知らない音楽を知るのは楽しいだろうと思って、やっぱりいきますと連絡したら、そういうと思ってもうチケットは買ってあるよんって、ああすっかりお見通し。
職場の若いのが、この三月いっぱいで退職するのだそうです。この時期に!、というより、この時局にといったほうが正しいかな。なにがつらくとも、なにがつまらなくともぶら下がっていれば安泰の職場で、けれどそれをやめようというのですから、よほどの思いがあったのでしょう。
タイトルが秀逸です。『さおだけ屋はなぜ潰れないのか?』。さおだけ屋というのは、さおやーさおだけー、十年前の価格で出ていますーとかいって軽トラで住宅地を回っている、皆さんもよくご存じのあのさおだけ売りのことです。確かに、あの値段じゃ売れてもどれくらいペイするもんだろうか、みたいに私も思っていました。人にあれはもうかるものなんって聞いてみたら、二本で千円っていってるけど実際にはもっと高く売りつける商売なんだよ。はあ、屋根の診断みたいなものかあって納得していたのですが、この本を読めば真相は違っていたんですね。
私はこのところ、いつかiPodを買う日のために、手持ちのCDを
大学でうけた教育心理学の授業。大学の先生なんてのは誰もどこかおかしなもので、その先生も例に漏れることなく変わった人でした。けれど授業は面白かった。その日の授業で扱うトピックに応じて、ビデオやら漫画やらを用意してきて、それがひとつの例となっているんですね。
イタリアは私の大好きな国のひとつで、多分、おそらく、世界中で一番愛する場所なんじゃないかと思います。ええっ、フランスじゃないのかい、なんていう声も聞こえてきそうですが、多分イタリアのほうが私には合ってるんじゃないかと思います。たった十日にも満たない
『カルミナ・ブラーナ』といえば、今ではカール・オルフ作曲のものがあまりに有名でありますが、本来は中世の世俗歌曲だったりします。世俗歌曲は記録されることもなく、その時代時代に生まれ歌われ消えていく。そういう儚い一生をたどるものが一般的なのでありますが、ボイレンのベネディクト修道院で世俗歌曲を書き写した写本が発見されて、今も当時、十世紀ごろのヨーロッパで歌われていた世俗の響きを耳にすることができると、そういうわけなのですね。
私がこの本に出会ったのは、忘れもしない高校の図書室で、私は平成の高校生だったから、新刊書として所収されたところを借り出したのでしょう。この本の出版は1990年。思い返せば、あの頃が一番貪欲に本を読んだ時期の最後だったような気がします。
買っちゃいました、さんとら。ついこの間、Webで『
この間、
鳥絡みで更新をしている間に、
NHKで『ニルスのふしぎな旅』が始まったのは、私が小学校の一年生だった頃で、仲間内で大人気を博しました。クラスの名簿の一番が赤山というやつで、その名前からアッカ隊長とあだ名されていたのを思い出します。
今では普通に耳にするフュージョンというジャンルを創始したのは、Weather Reportというグループだったのだそうです。私はこうした知識を大学のジャズ史の講義で仕入れたのですが、フュージョンの草分けということもさることながら、その名前が印象的で記憶に残ったのでした。Weather Reportって天気予報じゃないか! けれどこういうネーミングのセンスは大好きです。なんか、普通の日常に出て来る言葉をうまくあしらえるというのは、やっぱりセンスのなせる技だと思うのです。
吉松隆は、その親しみやすい作風とちょっとおかしくて愛らしいタイトルで、広く知られている作曲家です。親しみやすいとはいっても、おもねるようなそんなそぶりはまったくなくて、独自の美意識に基づいたロマンティシズムあふれる作品を数多く発表しています。
『鳥は星形の庭に降りる』とは、なんと幻想的なタイトルであるかと思います。星形の庭に鳥の群れが降りてゆく夢にインスパイアされて書かれたのだそうでして、その成り立ちも実に神秘的であると思わされます。
