2005年3月14日月曜日

ぼくの人生処方詩集

 職場の若いのが、この三月いっぱいで退職するのだそうです。この時期に!、というより、この時局にといったほうが正しいかな。なにがつらくとも、なにがつまらなくともぶら下がっていれば安泰の職場で、けれどそれをやめようというのですから、よほどの思いがあったのでしょう。

最後の挨拶にきた彼に私のいうのは、人生はさよならと別れの繰り返しですから。この上なくネガティブな人生観を呈してみて、いやはやサヨナラダケガジンセイカ? いやいや、そうではあるまい。私がさよならと別れの人生を顧みようとするとき、いつも思い出すのは寺山修司の詩なのです。

さよならだけが
人生ならば
 また来る春は何だろう
 はるかなはるかな地の果てに
 咲いてる野の百合何だろう

……

『ぼくの人生処方詩集』に収められた、「幸福が遠すぎたら」と題された短かな詩はこんなふうに始まります。あまりに有名な井伏鱒二の翻訳サヨナラダケガジンセイダを下敷きにしていることは明らかで、けれどこのセンチメンタルな詩にほのかに漂う悲しさは、私を打ちのめすに充分だったんです。

この詩にうたわれているのは、どうしても避けることのできない別れ、さよならであることは間違いなく、けれどその別離だけで人生を語るのはいやだという、そういう思いでありましょう。誰もの胸にあると思うのです。失ったことの向こうに、きっと残る失われなかったなにか。そうしたものがあるおかげで、私は今日までこうして過ごしてこれたと思うんです。

結局別ればかりの人生かも知れませんが、それでもかつてあったという事実が、人生が意味あるものに変えるのだと思います。私が失ってしまったものは、それがかつて私とともにあったということ、私のどこかに残されたその証拠によって、失われつつも今なおあるのだと思うのです。私がもう会えない人たちも、いつか私がともにあって、そしてその時過ごした時間が、私に焼き付いて残っているならば、行き過ぎてなおともにあるのだと思うのです。

もし別離が完全な無への変化であるなら、私のこの人生はあまりに堪え難いものといわねばならないでしょう。ですが、そのつらい人生をこうして過ごすことができるのは、人生はさよならだけではないということを、私たちひとりひとりが知っているからだと思うのです。

センチメンタルな詩で編まれた『ぼくの人生処方詩集』は、けれどただただ感傷的にあるのではなくて、しっとりと美しかったり、深くやさしかったり、苦く切なかったり、そして悲痛に苦しんだりして、寺山修司という人の詩情というのが実によく表されているかと思います。

私は、こういう寺山も大好きです。きっと、皆も好きになると思います。

引用

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