2005年3月25日金曜日

父 パードレ・パドローネ

 一時期、うちではイタリア映画がブームになったことがあって、『道』のジェルソミーナの儚げな様子に涙したりして、だから『父 パードレ・パドローネ』も、そうしたイタリア映画体験の一環で見たのかも知れません。確か、NHK教育がマイナーな映画を午後三時くらいに放映してくれたりしますが、そういうので見たんですね。予備知識もなく見て、私はこのちょっと一癖ある映画にびびびっと打たれたのでした。ガヴィーノ・レッダの半生において、言葉が運命を照らし出す光そのものであったということ。

ビデオに録っていなかったことを悔やみました。その後深夜放送だかBSだかでやったのをビデオに録って、DVDが出たら買って、原作も手を尽くして手に入れて、『父 パードレ・パドローネ』は、それくらい私にとって大きな意味のある作品なのです。

映画のつくりが秀逸だったと思うのです。羊飼いの子ガヴィーノが、学校に通うこともできず、ものを知らず、世界を知らず、山に羊の世話をするためだけにいきているような暮らしを送っていたのが、新しいなにかと出会うたびに彼の世界が開けてゆく。このとき高らかに鳴り響くのは、ヨハン・シュトラウス二世のオペレッタ。『こうもり』のワルツが鳴り響くそのとき、ガヴィーノの世界は一転します。

その効果足るやすさまじく、全編暗く地味に見えるこの映画に、まぶしい光が降り注ぐかのように感じられて、この強烈な印象というのは、まさにガヴィーノが感じた、世界が開ける瞬間そのものであったのかも知れないと思えるのです。

ガヴィーノにとっての転機はさまざまあれど、疑うべくもなく最大の転機となったのは言葉との出会いでしょう。ガヴィーノはサルディーニャに生まれ育ったために、イタリア語を知らなかったのです。しかし、彼はイタリア語と出会い、それをものにするために格闘し、トイレの中でひとり辞書を頭から読んで、まさしく言葉を飲み込んでいくかのように記憶してゆく彼の貪欲な知識欲には、私はいつも打たれて、ああ知るということ、学ぶということは素晴らしいと思わずにはおられません。

とまあ、私はガヴィーノ・レッダに憧れて、ポケットサイズの仏語辞典を買って、一時期それをわからぬままに読んでいたのでした。オーストラリア人研究者、トルコからの留学生に、映画の主人公に倣ってフランス語の辞書を読んでいますといったら、それは最も難しい勉強法だといわれて、確かに私はこのメソッドをやり遂げることはできませんでした。

ガヴィーノと私の差は、ここであるなと思います。貪欲さ、必ずものにしてやるぞという気魄、意気込み、それがないかぎり、人は大成なんてしないんだと思ったものですよ。

映画

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