この間、ビートルズのBlackbird絡みでちょっと触れた映画『アイ・アム・サム』が、なんとつい先日テレビで放送されていまして、なんという偶然、なんという好機であるかと、この映画に興味を持っていた私はかじりつくみたいにして見たのでした。
私は、本当にこの映画のことを知らなくって、サントラは完全にビートルズのトリビュート盤として捉えていたから、余計な前知識というものがなくってよかった。素直に映画を見て、素直に感動して、やはりなにがよいといっても、ショーン・ペン演ずる父親の善良さとダコタ・ファニング演ずる娘ルーシーの素直な可愛さであったかと思います。娘のために靴を買おうとする、そんななんでもないようなシーンでも思わず泣いてしまう。— すまん、私の涙腺はパッキンが壊れているんです。
些細な出来事をきっかけに娘と引き離された父親が、愛するルーシーを取り戻すために奔走する。映画の筋を語ればそれだけのことなのですが、父親が七歳児程度の知能しか持たないチャレンジドであるということが重要になっているのではないかと思うのですね。チャレンジドというのは、生まれつきのハンディキャップにより、人生に対しチャレンジすることを運命づけられた人たちというニュアンスを持つ表現で、そのまさに挑戦しなければならないという状況は、まさにこの映画の中に描かれているとおりかと思います。仕事の場で挑戦し、親子関係でも挑戦し、そして社会のシステムにおいても挑戦をし続けなければならない。映画では父親 — サムが善良で明るく表現されているため陰惨さ、悲惨さは薄らいでいます。現実ではああはいかないだろうなと思うことも多く、だからちょっとファンタジーがかった映画と捉えるのがいいのかも知れません。
けれどそのファンタジー色 — ビートルズにまつわるエピソードと楽曲群がどれほどその色を強く膨らませることか知れない! — の裏には、この映画がいおうとしている本当の主張が、こっそり隠れているように私は思ったのでした。
この映画の表面的な主題こそは、知的障害者に子育ては可能なのかというものでありますが、その背面には常に、じゃあサム以外の人々はその子育てを簡単にこなしているのか、という問いかけがなされています。
この映画には、サムをはじめとして、子育てに難しさを感じている親が多く登場します。またうまく親子関係を築くことのできなかった人も出てきます。そうした彼らの存在が、子育てや親子関係をうまくやるということの難しさや悩みは、誰にでもあることと告げています。誰しもが同じ迷いを抱いて、途方に暮れながらもチャレンジしなければならないんだというのです。
だから、私はこのファンタジー色の強く感じられる映画に、それ以上の現実性を見たのでした。サムはひとつの比喩として、すべての親の苦悩を表しています。そしてそのサムを支えるのは、サムの友人知人のネットワークであり、人々の連帯、助け合いであったということはどういうことか。誰もにある足りない部分は、それを持つ人たちの助けを借りれば埋めることができる。そしてすべてにおいて劣っている人間もまたいないのです(サムに助けられた家族を忘れてはいけない!)。
とても素敵なよい映画だと思いました。もしラジオであのBlackbirdに出会っていなければ、私はこの先ずっと知らないままだったでしょう。これこそが縁であるかと思います。とてもありがたい縁であったと思っています。
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