2006年7月25日火曜日

読書について

 権力者というのは自分の権力や権益を守るために、ときに検閲というような手段に訴えたりしますな。例えば、中国なんかではWebの検閲というのが普通におこなわれていて、Googleの検索に(国家から見て)有害なサイトがのぼってこなかったり、見つけたとしてもCiscoのルータやらスイッチやらが有害ページをなかったことにしてしまうといいます。でも実はこれは中国だけの話ではなくて、私たちも知らないうちに検閲下で暮らしているという可能性もなきにしもあらずなのです。だって、検閲されるということは私たちの目の前にその情報が出てこないということですから、外部情報を手に入れる手段を持たないものにはわかんないんですよ。検閲済み、Censoredってスタンプが常にあるとは限らんわけですから、実際問題としてこうしたことの起こりうる世界というのはおそろしいものであると思います。

さて、なんで検閲の話から『読書について』が出てくるのかといいますと、こうした検閲したがる人間っていうのは、ショーペンハウアーのよき理解者であるなあとそんな風に思ったからなんです。いや、別にショーペンハウアーが検閲を称揚しているとかそういうわけではないですよ。

ショーペンハウアーはいうのですよ。読書というのは他人の頭でものを考える行為にほかならないから、読書ばかりしてると自分で考えなくなっていけない。読書は真に偉大な思考力の持ち主であれば有益だろうが、凡人にはむしろ危険だみたいな話。確かにそれは一理あるよねえ。そして、この考えというのは、一面検閲者のそれに通じているかのようであります。検閲する国家というものは自分の抱える国民がおしなべて馬鹿だと思っているわけです。馬鹿だから、危険書に振れさせると感化されていけない。危険書を取り締まって、国家にとって都合の良いものだけを与えておけば、都合の良い人間の出来上がりだ!

ショーペンハウアーの意図は違います。自分で考えろといってます。対して検閲者はというと、考えるなといっている。

私は考えるにも材料が必要であると思っています。それは例えば現状への認識を深める事実であり、その事実についての批評であり、それらを糧として自分なりの評価を定めていくことが求められているのだと思っています。検閲が罪であるのは、事実の隠蔽がおこなわれるからで、多様な批評が失われるからで、すなわち私たちの考えるためのヒントが充分に与えられなくなるからです。でも、私たちは今入手しうるものだけをもとに考えなければならない。そして真に偉大な思考力を持っていれば、この偏っている状況を見抜いて、その向こうにあるはずの実際に思いをいたらせることも可能であるはずだ、と思っています。

でも、私にはそれができないんだな。ああ、私は実に凡庸に過ぎて、どうも人の頭で考えすぎたからみたいです。なにごとも過ぎたるはなお及ばざるがごとしといいますものね。

0 件のコメント: