今日、テレビでキビナゴの群れが特集されてまして、群れがひとつの生き物のように機能することで外敵から身を守るのだというその様がありありとテレビに映されて、そのあまりの見事な動きに、私は昔読んだ絵本を思い出したのでした。その名は『スイミー』。ご存じの方もきっと多いでしょう。小さな魚たちが、自分たちを捕食する大きな魚に立ち向かうため、群れをつくり一丸となって立ち向かう。その中心となるのが、ひとり体の色の違うスイミーでした。困難に立ち向かって克服するという点においても、ひとりはみんなのためにみんなはひとりのためにという連帯の精神が高らかに謳われているという点においても、非常に素晴らしい名作絵本であると思います。
けれど、実際の魚の群れというものを見てみれば、あれはスイミーの世界とはまったくもって別物であるのだなというような感じがします。群れる魚は、一尾一尾個体としての機能を持ちながら、しかし生命の単位としては群れそのものであるのです。一個体の存続をではなく、種としての存続を第一に優先するものが群れなのですから、個体は個体であると同時に群れにおける細胞であるともいえる。群れの機能を一尾一尾が担って、個体ではなく群れとしての生き残りを図る。個体としての生命は失われようと、より多くの仲間が、種が生き残ればそれで勝ちという戦略なのです。
でも人間はそうした魚の群れを見て、助け合いだとか連帯を思うのですね。これはすなわち、魚同様、個としては弱い人間が種としての生き残りを考えた結果得られた考え方なのでしょうが、私たち人が魚と決定的に違うのは、一個体一個体が自我を持っているというところでしょう。魚は、自分の死がどうこうとか考えていない。自分の生き方とかも考えない。けど人はそれを考えるのだから、連帯してどうこうというのがときに難しくなる、いつもうまくいくわけじゃないんだよなあと、そんなことを思ったりします。
けれど、思い出せば、『スイミー』に出会った子供は皆、この素朴な物語に心を動かされて、そしてときに大人たちも、かつて出会ったスイミーに思いをはせて、その感動を反芻します。これはつまり、私たちがエゴを心のうちに抱えながらも、そのエゴを超えたなにかを信じたいと思っているからなのだと思います。理想的で、あるいはきれいごとかも知れないと思いながらも、その理想を夢見たいと思う気持ちがどこかに隠されているのだと思うのです。
私たちはすぐ、日常の些事に理想を紛れさせてしまいますが、たまには思い出してみるのもいいかも知れません。子供の頃に、魚たちが一生懸命に生きようとする物語に感じたものをとおして、忘れそうになっているものを今一度確認してみるのもいいかも知れません。
- レオ・レオニ『スイミー — ちいさなかしこいさかなのはなし』谷川俊太郎訳 東京:好学社,2000年。
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