2005年12月21日水曜日

二銭銅貨

 国語の教科書に載っていたのを読んだのがこの話に触れた最初で、昔の貧しかった時代、母親はどうしても家計を切り盛りするため少しでも無駄を省こうとして、けれどそのために大きなものを失ってしまうはめになって、私は藤二の気持ちで読んだものでしたが、今となっては母親の後悔のほうが深く胸に突き刺さります。たった二銭で、たった二銭でというやり切れない思いはどうしても消すことができないのでしょう。

豊かになりつつあった昭和に暮らした私ですが、母親はやはりこうした始末をする人で、ですがこれらは私一人のことではなく、おそらく同じ思いをした人はたくさんいたはずです。でも、さいわいそれが悲劇を招くようなことはなく、だからというわけではありませんが、私もそうした始末をすることはあって、やはりあの人の子であるという思いを深くします。

けれど私はやはり藤二に似たところがあって、小さなところをいつまでもくよくよとするたちなのです。ちょっとを節約して、その節約を悔いるでもなく、ですがもしもう少し払っていたらどうだったろう。それでずうっとくさくさしている。なんか違うことばっかり考えてしまう。いっそ買い替えようかなんてまで思う。そんなこともあって、私は精神の平穏を求めるあまりにちょっとを節約することはしないようになりました。すべては私の割り切りの悪さで、すべては私のちんまい器のためです。

こうして書いてみて、もしかしたら今の親は、自分が子供のころに得たくよくよする気持ちを自分の子供には味わせたくないと、そういう思いがあるのかも知れないと気付いて、それは果たして子供を甘やかすことになるのかどうか、よいことなのかどうか。私には、子供に欲しがるものを満足に与えたいという気持ちも、我慢を強いねばならないことがあるということもわかるので、ただしかしそうした択一を許される今の状況というのはやはり豊かなのだと思います。

『二銭銅貨』というのは豊かでなかった時代こその話なのかも知れません。今の状況があの短編を生んだとしても、あれほどの深さはきっとでなかった。『二銭銅貨』の深み、やるせなさやしかたなさは、やはり時代の実感あってのものなのだろうと思います。

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