立て続けに子供を狙った犯罪が起きて、こうしたことは決して最近だけのことではないし、洋の東西を問わず綿々と繰り返されてきたこともわかってはいるのですが、それでも暗鬱とした気持ちになります。人間には理性や悟性というものがあるはずなのに、欲望、衝動は簡単にそうした枠組みを乗り越えてしまう。それは、今こうして起こってしまったことに憤りを感じている私でさえも例外ではなくて、いつかどうかして枠組みを越えてしまう瞬間を迎えるかも知れない。そう思えば、我々の善性とはなんと危ういものであるのでしょうか。人の暗い側に向いた顔を思うとき、私は決まって死の影に思いをはせます。
『ユマニテ』は、フランスの田舎で起こった強姦殺人事件をめぐる人間模様を描いた映画で、その殺されたというのがまさに少女であることから、こうした事件の起こるたびに、私は『ユマニテ』という映画とその主人公ファラオンを思い出します。
『ユマニテ』 — humanitéは、フランス語で人間そのものや人間性を現す語で、私はこの映画を見るごとに、人間とはいったいどうしたものであろうかと煩悶します。映画は、あたかも撮りっぱなしのドキュメンタリーを見せられるように淡々と進行し、さまざまな出来事も、それらは特別な出来事でありながら、とりわけ盛り上げられることもなく、淡々と日常のエピソードとして過ぎていきます。ですが、そうしたエピソードが積み上げられていくことで、ひとりの人間 — おそらくは誰もの身に起こりうる人生のドラマの一局面が描き出されるのです。
ですが、きっとこれを見た人は戸惑いを胸に抱くのではないかと思います。『ユマニテ』は実にヨーロッパの映画であり、すなわち解答を提示するタイプの映画ではありません。問題を提起し、そのすべてが最後に観客に突きつけられることで物語は閉じられて、その先は映画を見た一人一人の問題意識にゆだねられるのです。
この映画の問は、非常に大きく深く、手ごわいものです。簡単に答の出るものではなく、おそらくは一生をかけて明らかにしていく類いのもので、私にしても当然その答を探す途上にあります。
例えば、私がファラオンの立場に立たされたとき、なにを思うだろうか。アクションを起こすとすれば、それはどのようなものになるだろうか。あるいは、ファラオンが友人ならば。ファラオンの友人ならば。この地方に暮らす一住民の立場ならば、子を持つ親であれば。そして、一人の人間としてどのように考えるのか — 。
タフな問い掛けです。
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