2007年2月28日水曜日

メイドアンソロジーコミック — Maid in Wonderland

 正直、こういう売り方は勘弁していただきたい。いや、ほんま。『観用少女』を買いにいったときの話なんですが、朝日ソノラマの平積みをざっと見回したその時、おおっと、気になる表紙を発見。『ロンド・リーフレット』じゃないか。『ロンド・リーフレット』というのはLittlewitchからつい先達てにリリースされた18歳未満はプレイできない呪いのかけられたゲームで、もちろん持ってるんだけど(持ってるんだ……)、その『ロンド・リーフレット』の漫画が出てたんですね、 — と思ってよく見たら、アンソロジーコミックと銘打たれていて、そうかあ、公式アンソロジーの類いかあと思ってよくよく見たら、ん? なんか変だぞ。だって、タイトルは『メイドアンソロジーコミック』。『ロンド・リーフレット』のロの字もないのです。じゃあ、一体これはどういった類いの漫画なんだろう。

答えは帯にありました。

巻頭カラー
リトルウィッチ『RONDO LEAFLET』
メイド・イラストギャラリー

そう、これはただのタイアップ、企画ものなんですよ。さらには少女マンガ家が織り成す7つのメイド譚とのこと、少女マンガ家と謳って表紙巻頭にアダルトゲームを持ってくるあたり、チャレンジャブルというかそも乱暴というか、混乱ぶりがかいま見えるような気がします。

収録作はメイド縛りで、今どきメイドというのもなんだかなあという気もしますが、だって有り体にいえば過ぎ去ったブームじゃないですか。そこにあえてメイドアンソロを『メイドアンソロジーコミック』というひねりもなにもあったもんじゃないタイトルで出してきて、ほんま、売る気あるのか、と問いたい私は結局この本買っています(買ったんだ……)。

でも、作家は豪華ですよ。せっかくだから、収録作品を書きだしてみましょう。

  • 三原ミツカズ『天国と地獄』
  • 秋乃茉莉『Bitter or Sweet』
  • 川原由美子『観用少女・御喋りな墓標』
  • 柴田昌弘『さえらの付き人』
  • 吉田ふらわ『影を慕いて』
  • 時友美如『Do!!? Doll! Doll!?』
  • 島本麻衣子『カエルのメイドさん』

このうち、川原由美子と柴田昌弘以外は全て単行本未収録作で、未収録と聞くとちょっと得した気分になるのは正直なところ。けれど、本文184ページ中『観用少女』が76ページを占めていて、しかもその話というのが同日購入の『観用少女』〈夜香〉収録だから、この辺はすごく損をした気分……。まあ、どっこいどっこいかなあ。

読んでみて、知っていた作家も知らなかった作家も、結構面白かったり、それなりに面白かったり、読み物としてはそんなに悪いばかりでもないというのは実際のところです。ただ、短い話は8ページで終わったりして、正直物足りなさ、食い足りなさというのが強く感じられたり、こういうバランスの悪さというのはどうしたものかな……。短いから悪いとはいわないんですが、短い中できちんと話を構成して読ませてくれるのもあるから別にいいといえばいいんだけど、けど柴田昌弘のは続きを期待させるような振りして終わりという、ああ、なんてつれない、すごく殺生な気がします。正直、なにかの前日談的エピソードを思わせるような内容だから、ほんと、本編があるようなら買おうと思ったんだけどなあ。

という感じ。気に入った感じの漫画もありましたし、これまで知らなかった作家に出会うこともできたなど、漫画に対する視野も少し広がったように感じるのですが、この本を一冊きりで評価するならすごく微妙であると思います。人には勧めません。でも買って後悔もしていません。こういうところも実に微妙です。

引用

2007年2月27日火曜日

教艦ASTRO

 Amazon.co.jpにいったらですよ、お勧めがあるっていうんです、お勧めが。ほんで、トップページに表示されたうちの一冊が『教艦ASTRO』ときましてね、おおお、なかなかの選択じゃありませんか。ちょうど今日、この漫画、買ってきたところでありますよ。というわけで、今日は『教艦ASTRO』。この漫画、『まんがタイムきららキャラット』にて連載されている学園ものなんですが、実はちょっと異色です。主人公が教員、メインの四人でいうと保健体育科、国語科、外国語科、そこに養護教諭が入って、学生そっちのけで教員同士の楽しい世界を繰り広げている。いや、まあね、そりゃ漫画だからちょっと現実的な話からしたらどうよってなところもあったりなかったりするんだけど、でもそんなの振り切るぐらいに面白いから気にならない。むしろ、これ読んでると、こんなに教員が楽しいなら今からでも教員目指しちゃおうっかなあなんていう気にもなって、いやいや、危険です、危険。なにしろ私は教員という職には向かないのですから。

四コマって単行本を出せるまでページが溜まるのにずいぶん時間がかかるから、久しぶりに見た初期の『教艦ASTRO』、すごくシンプルでむしろ子供っぽさの感じられる絵に驚いてしまいましたよ。はじまってから、もう二年近く経つんですね。これまで経過した時間の分だけキャラクターはよりその存在感を明瞭にして、奥行きというか屈折の度合い? というかも増して、まあいっちゃえばどんどん生々しくなってるなあとそんな感じがします。実際、その生々しさというかは四コマ誌の中では異色だと思います。表紙見ていただいてもわかると思いますが、頭身の高いキャラクターは幼さも抜けて、だから雑誌の傾向からしたらちょっとチャレンジ気味なのかも知れません。いや、そうでもないか。ちょっと年配(三十代くらい)のマニア向けとしか思えない小ネタが踊る漫画があちこちに見受けられるきらら系であるから、むしろ狙いとしてはありよね、って思う。実際私は、読むごとにこいつは悪くないなあって思ってきたわけですから。

この漫画の面白いところってのは、いい大人が大人としての分別忘れて、自分の趣味やら楽しみやら優先でわいわいいやってるまさにここだと思うんですね。ただわあわあ騒いでるのなら、高校生ものでも大学生ものでも可能っちゃあ可能でしょうけど、それが社会人ものとなるとやっぱりちょっと違ったニュアンスというのが出てきて、けど職業人ものといえるほどに教職色が強いわけでもないから、なんか独特の雰囲気が出ています。いい大人が体面やらいろいろ取り繕いながらも駄目な部分をちょいちょい見せてるという、まあ私も自分で社会人といいきれるほど社会人らしいわけじゃないですからね、そういうちょい社会人ぶってる大人の自適ぶりが真っ向から描かれている漫画読んで、共感覚えるのもまあおかしかないよなあ、なんて思っています。

さて、この漫画、意外と皆さん体育会系で驚かされて、バスケ、弓道、テニス、卓球ってとこかい? 作者がスポーツ好きなのかなあ。けど、なんか健全な感じがしていいんじゃないでしょうか。で、その反面、特に牧兄貴がその方面を強調するんですが、不健全ぽいネタもあって、このあたりもきらら誌じゃ異色だよなあと思いながら読んでいて、けど私はわりと嫌いじゃないです。でも、一番好きなのといえば、やっぱり烏丸先生牧先生がらみかなあ、後は南雲先生妄想爆発、荒井先生のゲーム絡みのネタも共感性高くていい感じです。デモムービー中に話しかけるなあ!!!は至言かと思いました。

蛇足

烏丸先生がいいな、と思っとります。いや、なんつうか、凛々しさとかわいさのハイブリッドがすばらしいです。

  • 蕃納葱『教艦ASTRO』第1巻 (まんがタイムKRコミックス) 東京:芳文社,2007年。
  • 以下続刊

引用

  • 蕃納葱『教艦ASTRO』第1巻 (東京:芳文社,2007年),100頁。

2007年2月26日月曜日

電脳やおい少女

  私はこないだこんなこといっていました。

以前つとめていた職場にいた人もそんなだった。仮面ライダーの変身前の写真集を買ってらして、やっぱり萌えるらしい。旦那には内緒らしい。昔の集めた同人誌は実家に隠してあるらしい。そして私はそういうところに萌えるのです。

そんなというのはどんなかといいますと、ひとえにいえばおたく的傾向を持っているということなんですが、この以前同じ職場にて出会った方というのは、既婚者で子供もいるんだけれども、子供に仮面ライダーを見せていたら思わず昔の血が騒いでしまったらしく、写真集が欲しい、けど旦那には知られたくない、そうだネット書店で買って職場に送ってもらおう! そんなこんなで、私にネット書店での本の買い方を指南してくれなどとおっしゃったものだから、その趣味がばれたのです。余談ながらその本というのは、私の記憶が確かならば『MASK OFF』といったはずで、その後どうしてらっしゃるんだろう。年賀状のやり取りだけは続けているのですが。

変身ヒーロー系にはまってしまうお母さんにはだいたい二種類あるようで、ひとつはそれまでまったくそういうものには興味がなかったのに、という新たに目覚めるパターン。そしてもうひとつというのは、私の先ほど紹介しました方の例のように、昔からそうした方面に接近していたというパターン。後者に関しては、独身時代から綿々と趣味を続けているというのと、いったん離れてたんだけど再燃という二種類の型があるみたいです。

さて、その再燃型のあの人に、こんな漫画が出ましたよ、なかなかお身につまされるのではないですかといって、当時出たところの『電脳やおい少女』をお貸ししまして、その頃すでに四コマ漫画を読んでいた私は、書店の新刊平積みにこの本を見つけて、タイトルを見た瞬間に購入を決定したのです。今でこそやおい少女本というのも珍しくもないですが、『となりの801ちゃん』とか『妄想少女オタク系』とか、また本なんかでは『オタク女子研究』というのもあって、それこそ一般におたくであること腐女子であることを告白するのに、昔ほどのハードルの高さはなくなったんじゃないかと思うのですが、いや、そうでもないか。けど、世間一般におけるおたく少女の認知度は、誤解毀誉褒貶いろいろあれど、著しく進んだなと、そんな風に思うのです。

『電脳やおい少女』は、女おたくであることをひた隠しにしている女の子が主人公で、インターネットに乗り出したことがきっかけで少しずつその状況が変わっていくという、そうした設定がちょっと件の人に似ているんじゃないかと思ったんですね。今から思えば、ネタにしても表現にしてもずいぶんとマイルドで、そういうところに移行期ののりというものを感じたりもするのですが、けれどこうした一般人の顔と趣味人の顔を二枚重ねに生きているという暮らしぶりはなかなかに読者の共感を呼んだようで、私にしても面白いと思いましたし、そして件の人もずいぶんと気に入られたようで、お金はちゃんと払うからこの本をゆずって欲しいとおっしゃって、問うてみれば、一般人の顔に趣味人の顔を隠して暮らしている友人にこの本を贈ってやるんだといった話で、こんな具合に、おたくの顔を隠している人には訴えるところが大きい漫画であったのではないかと思います。

以上のような経緯で私はこの漫画を手放してしまって、その後買い直すつもりでいたのですが、後で後でと思っていたら、ついつい今の今までそのまんまにしてしまっていました。気付けば知らないうちに2巻も出ていたようで、思い出したのを機にまとめて買っちゃおうかなあ。久しぶりに表紙を見たらば、なんだか先が気になるところもあるものだから、ちょっと余裕が出たら買ってみようと思います。

  • 中島沙帆子『電脳やおい少女』第1巻 (バンブー・コミックス) 東京:竹書房,2002年。
  • 中島沙帆子『電脳やおい少女』第2巻 (バンブー・コミックス) 東京:竹書房,2003年。
  • 以下続刊

引用

2007年2月25日日曜日

At night in Chengdu, taken with GR DIGITAL

Taxies waitingRicoh GR BLOG恒例のトラックバック企画第17弾夜景です。夜景かあ。むっつかしいテーマだなあと思いながらも、縁があったら撮れるでしょうと気楽に構えておったらば……、撮れませんでした。たまたま居合わせたところのものをちょいと撮影してそれっきりを基本にしている私はですね、夜景というお題を受けても自ら出歩くわけでなし、これという魅力のスポットを探すでもでなしといった具合で、これで夜景が撮れてたらその方がむしろ不思議だ — 、といっちゃうのもつまらないから、過去の写真を探してみまして、ましなのをピックアップ、トラックバック企画夜景に参加できるよう体裁を整えたのでした。

けど、撮っているつもりで意外と撮っていないものなんですね、夜景って。夜暗くなってからでも写真撮ってるんだけどなー、という私の撮っているものというのは、夜の工事現場の一部とか、そういうのばかり。もうちょっと風景に目を向けたら夜景なのかも知れないけれど、これじゃただの夜間撮影だといわんばかりで、だからせめて夜景らしいものをと探してみたらば、まず大阪は阪神百貨店を望むタクシー乗り場越しの風景。私は結構気に入っている写真ではあるのですが、でももうちょっとなんか趣が欲しいよねということでさらに探索を続けて、そして見つけたのが成都の夜のスポット。錦里の写真です。

Chengdu

昨年の秋にいった中国旅行での一枚で、とにかく写真に困ったら旅先写真を引っ張り出してごまかしちまえってな感じがばればれですが、けれど、ちょっと日本では見られない風景、石造りの門を越えた先に、提灯が点々とともる不思議な空間がかいま見えるというような、そんな雰囲気が面白かったらいいなというのが選んだ理由です。

写真が変に傾いてるのは、多分スローシャッターでぶれないように街灯かなにかを支えにしたせいなんじゃないかと思うのですが、あるいは中央左に立っている人を注目しすぎたのかも。全体をみないで撮ったと思しい傾き具合ですが、けど私はこの傾き具合は意外にも許容できています。

旅先の夜景ついでに、昔撮った写真から夜景をちょこちょこピックアップしてみました。残念ながら使用機材はGR DIGITALじゃありません。

Firenze

一枚目は、フィレンツェ市街です。食事に出てその帰り、投宿先のホテルに向かう途中です。カメラはMINOLTA SR-T101、レンズはMC Rokkor 55mmF1.7です。

Roma

次の写真はローマです。ヴィットリオ・エマヌエーレ二世記念堂ですね。一眼レフで、決して明るいレンズでもないのに、ええい撮っちゃえと撮った写真が意外にきれいに撮れてて、どんな状況でもこれと心が動いたものは撮るべきなんだということを強く思ったものでした。使用カメラはMINOLTA α-507si、レンズはAF24-85mmF3.5-4.5、広角よりも標準よりくらい?

Roma

で、最後の一枚も、同じくローマ、ナヴォーナ広場です。これはカメラをベンチにおいて撮影したはず。夜のローマの、活気を残しつつも穏やかな表情が撮れてたらいいなあと思います。カメラ、レンズはさっきと一緒。これは広角ですね。28mmかあるいは24mmまで引いてるかも。

写真というのは、どんな写真であってもまず撮るところからはじまると思うので、夜景でも手ぶれでも、これと思ったときには撮るのが大切だなと思います。そういえば、以前夜景で撮影するときのいろいろを書いたことがありましたっけ。ああ、こっちの写真の方がよかったかな……。

けど、今回は成都の夜を推したいと思います。

2007年2月24日土曜日

ナツノクモ

 ナツノクモ』、来月最終回。ええーっ、なんだってー。いや、本当。実は、この流れはすでに先月に予告されていて、前回の次回予告が次回、衝撃のエンディングへ……!! ええーっ、ちょっと待って、プレイバックプレイバック、いやほんと、今の言葉プレイバックやっちゅうねんとばかりに取り乱してみたりしたんですが、確かに今月号を見てみれば来月で最終回であるようです。次号、最終回!! ううー、来月で終わっちゃうのかあ。正直、今の流れになった当初には、いよいよこれからがクライマックス、種明かしだというように感じて期待をどんどんと膨らませていたものだから、このあまりに突然と感じられる最終回の告知には戸惑いが隠せないというのが正直なところです。

でも、ここ数回はすごく緊張感に満ちていて、読んでいてわくわくしたりはらはらしたり、息詰まるという表現が実にしっくりくるというような展開が続いていたのですが、実はこれが最終回に向かってなだれ込もうとする怒濤のラッシュであったのかと思うと、ほんと、後一回で充分に語りきれるのだろうか、そんな不安も感じないではないのです。第2巻の後書きなんかを思い出してみればですよ、第1話は実にガウルとミカオを助けるところまで描く予定だったらしいところが、第2巻に収録されている第9話時点ではまだガウルとミカオ編は終わっていないというのですから素晴らしい。こういう、情熱に突き動かされるままに広がる物語世界みたいなのが見たいと思っていたものだから、その広がりが期待できそうな状況を前にして終わるということが無性に残念と思われてなりません。いや、本当、無理に冗長にするのでなく、自然な感じで、後半年くらいは膨らませられたと思うのですが、けどあえてそういう手段をとらなかったのには理由があるのでしょう。今は、静かに最終回になにが語られるかを待ちたいと思います。

しかし、実際にここ数回は怒濤の流れであったと思います。これまで丁寧に、むしろ余裕を持って語られてきたと感じられるボード上の物語であったというのに、最後の最後、これでどうなるという詰めまできたところで、一気に流れが変えられてしまった。その転換の鮮やかさに私はうなって、こうきたか、じゃあこれからどうなる、どうもっていくと、終わりを予感しながら楽しみに毎月を読んできて、毎回の揺さぶりっぷりにもうめろめろ、もっともっと揺さぶって呉れい、とばかりに飢餓感を募らせるその展開の妙は、改めて『ナツノクモ』の良さというのを再確認させてくれたと感じています。

けれど、正直なところをいうと、私はまだもう少し振り回して欲しかったと、そういう風に思っています。だから、来月号の『IKKI』は、丸ごと『ナツノクモ』でもいいと、いや、丸ごと『ナツノクモ』がいいと、そんなわけのわからん無茶を思ったりして、けど、本当に最後の一回、どういう風に運ぶのか、私のこれまで心を重ねて、その一挙手一投足、心の揺れ動くたびたびに一喜一憂してきた、漫画の中のネットの向こうの愛すべき人たちが、仕合せな未来を手にすることができるのか。さまよっていた彼らの思いの行方の描かれることを、心から楽しみに来月を待ちたく思います。

  • 篠房六郎『ナツノクモ』第1巻 (IKKI COMICS) 東京:小学館,2004年。
  • 篠房六郎『ナツノクモ』第2巻 (IKKI COMICS) 東京:小学館,2004年。
  • 篠房六郎『ナツノクモ』第3巻 (IKKI COMICS) 東京:小学館,2004年。
  • 篠房六郎『ナツノクモ』第4巻 (IKKI COMICS) 東京:小学館,2005年。
  • 篠房六郎『ナツノクモ』第5巻 (IKKI COMICS) 東京:小学館,2005年。
  • 篠房六郎『ナツノクモ』第6巻 (IKKI COMICS) 東京:小学館,2006年。
  • 篠房六郎『ナツノクモ』第7巻 (IKKI COMICS) 東京:小学館,2006年。
  • 以下続刊

引用

  • IKKI』2007年3月号 小学館,484頁。
  • IKKI』2007年4月号 小学館,492頁。
  • 篠房六郎『ナツノクモ』第2巻 (東京:小学館,2004年),217頁。

2007年2月23日金曜日

Unplugged

 昔、サクソフォンを吹いていた私が今はギターを弾いている。この転向にいろいろ理由はあるのですが、どうもそうした理由を手繰っていくとエリック・クラプトンにまでさかのぼることができるのではないかなあと、そんな風に思っています。そもそも私は最初は自分の歌を伴奏できる楽器(ピアノのようなんじゃなくて、持ち運べるやつで!)をやりたいと思っていただけで、ギターと決めていたわけではないのです。ですが巷ではギターがブームで、ブームであるがゆえに私はギターに背を向けて中国の楽器琵琶(ピパと読みます)をやりたいと思ったんですが、結局は環境の充実しているギターに落ち着いたとそういう経緯があります。で、その環境の充実の理由というのは、MTVで放送されたエリック・クラプトンの番組、『アンプラグド』が大当たりしたために引き起こされた世界的なアコースティックブームに由来しているようなのです。

きっと業界は諸手を上げて歓迎したのでしょうね。話に聞けば、エレキがブームになって以来、アコースティック楽器業界は低迷していたという話で、あの老舗マーチンでさえエレキに手を出したとか、そういう話も聞いています。日本国内にたくさんあったギターメーカーもばたばたとつぶれて、けれどそうした冬の時代を切り開くかのごとく現れたのが、エレキギターの雄クラプトンだったというのはちょっと意外な気もします。

クラプトンの引き起こしたアンプラグドブームというのは、電気を通さない生音の音楽を復権させたかと思えば、ギターという楽器にも再び光を当てて、このアルバムがリリースされてもう十年以上にもなるのですが、表舞台に躍り出たギターという楽器は再びスタンダードの位置を勝ち得たのか、下火になることなく、落ち着いたブームを保っているように思います、というのは、もしかしたら私自身がギターを弾いているからそう思うだけかも知れないのですが、客観的にはどうなんでしょう。

私はなににせよかたちから入る人間ですから、ギターをはじめて最初に買ったアルバムというのも実にスタンダード、つまりクラプトンの『アンプラグド』を買ったということなんですが、このアルバムはギターを聴きつけない私にとっても非常に楽しめる、濃すぎもしない、もちろん薄すぎもしない、そういう絶妙なバランスを持った一枚でした。このへんが一般の音楽ファンにも広く訴えたのだろうなと思うのですが、けれどそれはマニア筋にはつまらないといいたいわけではなくて、だってやってる曲はビッグ・ビル・ブルーンジーとかロバート・ジョンソンとか、戦前ブルースだもんなあ。もともとは泥臭かったりするそうしたブルースがいやに洗練されて聴きやすく感じられるのは、やっぱりクラプトンのアレンジとかセンスとかがあるんだと思いますが、聴きやすい中にもマニアックな面白さがあるというのはさすがだなあと思うのです。

で、私はこのアルバムをまずCDで聴いて、ああこりゃ無理だなと思ったんですが、なにが無理かというと、自分がこれからギター練習してもこういう風には弾けないなってことなんですが、けどあきらめるのもなんだから頑張ってるわけですが、でも耳で聴いている分には一体どうやって弾いているかがさっぱりわからないわけですよ。だから、やっぱり映像が必要だなあと思っていたら、DVDが割りとお手ごろ価格で出ていたから、ちょっと迷った末に確保。そんなわけで、私はCDとDVD、二種類の『アンプラグド』を持っています。

もしこれから『アンプラグド』を聴きたいという人がいたら、私は間違いなくDVDをお勧めします。CDではわかりにくい楽器の使い分けや、奏者同士のコミュニケーションが見えて、ずっと楽しく見ることができるだろうと思うからです。開始当初にはクールで端正な面々も、最後の方にはいい感じに砕けてきて、見てるだけでも楽しい。特に私のお気に入りは、パーカッションの眼鏡のおじさんで、『ローリン・アンド・タンブリン』でのあのノリは本当に素敵。ああ、楽しそうだなあ。やっぱりセッションはよさそうだなあと思えてきて、自分もギター頑張ろうと思えるんです。

なんて書いてたら、また見たくなってきちゃったい。明日か明後日か、見ようと思います。

CD

DVD

絶版CD

2007年2月22日木曜日

Luciano Berio : Coro

 大学は四回生の夏休み、誰でもいいからひとり作曲家を選んで、その作品を聴きまくれという課題が出たんです。でもさあ、誰でもいいからといって本当に誰でもいいってわけじゃないから難しいのです。例えばですね、おとついモーツァルトで書いていましたが、こういうビッグネームを選んだら最悪でしょう。だって、全集が複数あったりするような人ですよ。全集ひとつ聴き終わるだけで夏休み終わってしまうっちゅうねん。というわけでこの手のメジャーさんはパスしましてですよ、誰にしようかなあ、ジェズアルドはどうだろうかな、この人の曲、極度の緊張をはらんで美しいんだよなあ、なんて思ったんですが、この人はこの人で問題があって、それは録音が極端に少ないんです。当時、三枚とか五枚とかしかなかったんじゃないかな。一日で課題終わりますね。というのも問題だから、音楽史上無視できない作曲家で、程々にレコードが出てるような作曲家、そしてなにより私が興味を持てる人、誰かいないかなー、と考えた末に決まったのがイタリア人作曲家、ルチアーノ・ベリオでありました。

まあ、知らんよね。この人は1925年生まれの作曲家だから、普通の古典派ロマン派どまりのクラシックファンなら存在も知らないという、そんなことも普通にあり得ます。管楽器奏者には結構知られているんですけどね。『セクエンツァ』というシリーズがありまして、管楽器を含む多様な楽器用に書かれた作品群、特に有名なのはトロンボーンのために書かれた5番と声のために書かれた3番なんじゃないかと思うんですが、あっと、今調べてみたら11番がギターらしい。こら、いっぺん聴いとかんといかんな。いっちょ調べて、CD出てるようなら買って聴こう。

夏のベリオ漬けは非常に楽しい体験でした。私のイメージにあったベリオ像を裏打ちするような作品群 — 『セクエンツァ』をはじめとする — があったかと思えば、シンセサイザーやテープを用いた電子音楽も非常にいい味を出していて、ヴァイオリンのための二重奏曲なんかも面白かったしで、実にたくさんの発見がありました。知っているつもりで知らなかったベリオのいろんな作風に触れて、やっぱりまとめてたくさん聴くという経験は大切なんだと思ったものです。で、その収穫の中からなにかを選べといわれたら、私は『コロ』を選びたいと思います。オーケストラと合唱のための作品なんですが、神秘性とダイナミズムが混沌としながら徐々に内圧を高めていくような感じを持っている(我ながら、わけわかんないな)ものだから、聴いていてすごく引きつけられるのです。朗々と響く声があるかと思えば、ささやき声がさざめくようなシーンもあって、人間の声も、楽器の音も、全てが交じり合い、震えながら呼びかけてくる、そんな雰囲気に、これはぜひ手もとに置いておきたいと思ってCDショップに走ったら、国内盤がもう絶版。わお。仕方なしに輸入盤を買ったのですが、こればっかりは国内盤で欲しかったなと、今でも思っています。あまりに声が交錯するために聞き取りが困難である歌詞は、インディアンやポリネシア人、アフリカ人やユーゴスラヴィア、イタリアなどなど、さまざまな文化を背景に持つ多様なテキストの集積であり、その歌詞の持つ意味を知りたければ歌詞カードを見るほかない — 、日本語で読みたかったなあ。まあ、私の持ってる盤には英独仏訳がついてるから、頑張ったら読めないこともないんですけど、やっぱ身に付いた言葉のほうがいいってわけで……。

私の持っている盤は、独グラモフォン(ポリドール)のもの、ケルン・ラジオ・シンフォニーオーケストラが演奏しているものです。私がこの課題に取り組んだときには、どうやらこれくらいしか出ていなかったようで、ですが、今では他に何種類かあるようです。

正直、この曲はこうした作品に慣れていない人には受け付けないと思いますので、お勧めしようとは思いませんが、ベリオという作曲家を知っているという方ならきっとよさをわかってもらえるんじゃないかと、そんな風に思います。

2007年2月21日水曜日

この星のぬくもり — 自閉症児のみつめる世界

  一般に流布される自閉症のイメージというのは明らかに偏っていて、というほどに私は自閉症について知っているわけではないのですが、けれどそれでも自閉について語られるときには、ある一定の傾向の認められることが多いように感じています。そこには多分に誤解が含まれており、内向きにこもる傾向を自閉症と例えるなど、明らかに知られていない、自閉という言葉に引きずられるままに誤って捉えられている。そんな風に感じています。けど、仮に名前を変えたとしても、精神分裂病が統合失調症に、痴呆症が認知症となったように、自閉という語を避けて違う名前を使うようにしたとしても、おそらくは大きな成果は得られないのではないかと思います。結局はその病気について知られていないことに根ざす問題なのですから、また違う誤解やなにかが生まれるのではないかと、そんな風に思うのです。

私は特に自閉症について深く調べたりしたことがあるわけではなく、主に大学在学時に受けた心理学の授業で得た知識がベースとなっており、そこにいくつかの本やなにかで得られたものが加わった程度の、一般レベルにとどまる知識しか持っていません。ですが、そんな私に大きな意識の変化を迫ったのが、パソコン通信での自閉症者との出会いであした。彼もしくは彼女は自身をサヴァンあるいはアスペルガーと説明し、非常に高い数学の能力やプログラミングの技術を持っていることを説明しました。そして、自身の障碍についても。私たちは他人の心、気持ちの動きがわからないので、自分が見、知り、思ったことをストレートに発言することが往々であること、相手の欠点や落ち度であってもずけずけと、なにしろ事実を事実に即しそのまま話すわけですからずけずけととられても仕方がない、話すことで怒らせることもままあるのだが、私にはその相手の怒る理由がわからないのだと、そうしたいろいろを教えてもらえました。私の自閉症に対する理解は、彼彼女との文字越しでの交流で、著しく進んだと思っています。

けど、私はたまたまラッキーだっただけで、自閉症者との出会いを持たない人も多いわけで、そうした人が自閉症についての理解を深めるには、やはり本であるなど、そうしたメディアの力を借りるのがよいのではないかと思います。私がはじめて読んだ自閉症関連の本はドナ・ウィリアムズの『自閉症だったわたしへ』で、この本には続編も出てるんですが、残念ながらそこまではまだ踏み入れていません。気付いたときには、もう何冊も出ていたんですね。二冊くらい読めよ、って感じもするんですが、そうかたった二冊か、読めますね。余裕ができたら、揃えて、一から読み直してみようかと思います。

本よりも漫画が優れていると感じるところは、なによりも読みやすいところ、イメージが絵によってもたらされるため、読者がより具体的に状況を把握することができるところ、そして文字によって論理的に説明することもできるというところだと思うのですが、『この星のぬくもり』においてはそうしたメリットが十全に活用されていると感じます。状況は主に絵という漫画的手法によって、内面は淡々と語られるモノローグによって伝えられることで、その時起こっているできごと(目に見えること)と自閉症者の内面で起こっていること(目に見えないこと)が、どれほどにかけ離れているか諒解することができます。彼らがパニックに陥っているとき、彼らは極度の怯えや圧迫感に支配されていることがわかる。興味を持ったものにまっすぐに向かう行動があるために、どういう状況が引き起こされたか。こうした状況はこれまで多くの自閉症者が説明を続けてくれたおかげで広く理解されるようになってきたものの、過去においてはまったくの無理解による悲劇的な決着がなされることがあまりに多かったように思います。多かったという根拠は、私の出会った彼彼女も結局は場から排斥されてしまったからという、そういう事例に立ち会っているからで、そしてそうした例はこの地上のいたるところで生じているに違いないと感じたことに起因しています。そして、この漫画にも、他の自閉症に関する事例の紹介においても、無理解に発する悲劇的な状況が語られることがあまりに多いのです。

『この星のぬくもり』が文庫で出ていたので、買って、読んで、取材協力に名前のあがっている森口奈緒美という人がモな〜Qという名義で活動されているミュージシャンであると知って、驚きました。というのは、私は以前テレビでモな〜Qの活動を見たことがあったからで、気になっていたものですから、思いがけないところに繋がりを見つけてちょっと喜びを感じました。

参考

関係ないけど、私も36点でした。

自己診断テスト得点計算結果

あなたの得点は36点です。

社会的スキル
10点
注意の切り替え
9点
細部への注意
7点
コミュニケーション
5点
想像力
5点

閾値を越えています。

その傾向はあると思ってたから、なるほどねって感じです。

2007年2月20日火曜日

W. A. Mozart : Sonatas and Variations for Piano and Violin KV 379 (373a), KV 304 (300c) and KV 454 played by Andras Schiff and Yuuko Shiokawa

昨年はモーツァルトの生誕二百五十年だったかなんかで、まあいわゆるモーツァルトイヤーってやつですね。なんかいろいろ催しやら特集やらがあったようでしたけど、実は私こういう盛り上がり好きじゃないので、まったくといっていいほどかかわり合いを持ちませんでした。そうそう、モーツァルトイヤーといえば私の音楽に傾倒しはじめた時期というのがちょうどそんな頃で、その時は没二百年でしたか。で、同様に催しやら記念盤やらいろいろあったみたいなんですが、さっきもいいましたように私こういう盛り上がりが好きじゃないから、まったくといっていいほどモーツァルト聴かなくて、その影響が今もなお残ってるんですよね、実は。

一体どういう影響かというと、ほとんどモーツァルトを聴いていないという、そういうの。そもそもモーツァルトは私の好みにあわんかったのかも知れませんが、一般における知名度でいえば第一にベートーヴェン、次いでモーツァルトというのが定番だろうというのにさ、そのモーツァルトをよう知らないというのです。これは実にまずい。モーツァルトの美であるとか、最近でいえばなんかモーツァルト療法とかゆうてますね、そんな話を振られてもですよ、はあそうですか、はあ、はあと生返事するばっかりで、ちっとも乗り気でない。こんな具合に、がっかりさせてしまうことは頻繁です。

でも、それでもやはりモーツァルトというのはすごいなと思うのは、聴けばやっぱり美しいと思うんですよ。跳躍音形は粒立ちきらめき、流麗なパッセージは軽く転がっていく。きらびやかかと思えば、憂鬱に沈む下降線の豊かな美しさも現れて、いやもうただただ美しいと思うこともありますよ。あんまり、日頃から好かん好かんゆうてるもんだから、なんか悔しくてならない。けど、それでも美しいものは美しい。だから、なおさら悔しいよのさ。

そんな私の2006年モーツァルトイヤーは、母の買ってきたヨーロッパ土産でありました。オーストリーはザルツブルグにいったらしく、モーツァルトミュージアムでCD買ってきてくれまして、ピアノとヴァイオリンのためのピアノソナタで、演奏者はアンドラーシュ・シフと塩川悠子です。で、このアルバムの売りはなにかといいますと、使われているヴァイオリンとピアノというのがモーツァルトのものなんだか同時代のものなんだか、とにかくいわゆるピリオド楽器であるというところです。録音は1992年の1月27から29日にかけてで、だからちょうど私が音楽を聴きはじめる頃に録音されたというわけで、没201年ですね。

ちょうど1990年代くらいがピリオド楽器による演奏が定番になった頃だと思うのですが、当初はバロックのレパートリーを中心にはじめられた試みが、徐々に古典派、ロマン派へと広がりを見せていく。そういうなかでのピリオド楽器による演奏だったのかも知れません。

モダンピアノで弾かれれば、倍音も豊かに絢爛、きらびやかに鳴り響くモーツァルトが、ピリオド楽器で演奏されるとまったくといっていいほどに表情を違えます。こつんこつんと、むしろ硬い響きが印象的で、今の音響になれた耳にはむしろモノトーン、枯淡の味わいと感じられる、そんな演奏なのです。ヴァイオリンに関しても同様で、両者ともに派手さを廃し抑制的です。対話するように組み合わされる音形は、丁寧に声部とその関係をあらわにして、音楽のかたち、骨格はよりいっそう明確に、モーツァルトの古典的な側面もいやおうないしに際立つから面白い。聴きなれたモーツァルトではないからいきなりだとぎょっとすることもあるけれど、けど今の楽器が持つ輝きに隠れる美もあるのだと思える、そんな名演です。

残念なのは、このアルバムはどうも現地での限定版らしく、レーベルはオワゾリールだから普通に売ってそうな気もするんですが、少なくともAmazon.co.jpでは見つけられませんでした。このシリーズが他にもあるんだったら、ちょっと聴いてみたいなと、そんな風にも思ったからちょっと残念です。

  • W. A. Mozart : Sonatas and Variations for Piano and Violin KV 379 (373a), KV 304 (300c) and KV 454

2007年2月19日月曜日

少女魔法学リトルウィッチロマネスク

  基本的に、ことゲームに関しては、プレイしていないものに関しては書かないという姿勢を貫いてきたのですが、ここでちょっと方向性を変えて、やったこともないゲームで書いてみようと思います。というか、持ってはいるんですけどね。初回限定版。これにはCDがついてきましてね、ミニアルバムなんですが、ちょっとしたサントラみたいなもんですね。私はこれを先行してiPodにつめて聴いて、そしたらこれがまあいい感じなんですよ。魔法の塔というちょっと古風なファンタジーめいた世界を彩るのに、これまたしっかりと中世臭さのする音楽を持ってきたよなあというのが最初の驚きで、最初の曲Magician's Towerなんか、まさに中世、まさに土俗的な臭さを混ぜ込んであって、いやあ、なんだろうね。ショーム? ちょっと粗野なリード楽器のドローン(保続低音)が気持ちいい。しかし、まさかゲームの音楽聴いて、こんなに嬉しくなるということも珍しいと思います。いや、実際、ポイント高いと思います。

けど、ただ音楽が古い感じだったらいいってわけでもないんですよ。問題はゲームにて描かれる世界と音楽がいかに調和するかというそこなのですから、まだゲームをプレイどころかインストールさえしていない私にはそのあたりを評価することなど到底できないわけで、けどこのサントラを聴くかぎりにおいては、かなり期待できそうだと思うのです。

なにがはたして期待させるのかというと、やっぱり様式感が感じられるというそこですよ。ゲームでもテレビでもなんでもいいんですが、中世っぽい世界を描こうとしているわりに音楽が妙に様式外れで、中世なのにバロックかよ! みたいなこともままあるから油断できなくてですね、そりゃね、昔なんかは、音楽は美術や建築といった視覚芸術よりも遅れて発達したために、ゴシックにはルネサンス音楽が、ルネサンスにはバロック音楽が似合うのだみたいなこといってる人もいましたけど、でもそりゃいくらなんでも駄目ですよ。様式音痴を自ら暴露しているに等しい発言で、ほんと、美術に遅れて云々だなんて、レオニーヌスあるいはペロティーヌスあたりを百回聴いて出直していただきたい。三度を欠いた空五度のストイックにして分厚い響きのこだまするかのような多声音楽の世界。ものすごく高度の音楽世界が十二十三世紀には存在していたということがわかりますから。そして、そうした音楽を聴いて思うことといえば、音楽は美術建築などに劣ってなどはいないというまさにそこで、尖塔の天を衝かんとそびえるゴシックの聖堂の精神は、テノール声部上に積み上げられる重層の声の絢爛に重なり合っている。人間の感覚、精神は視覚も聴覚もともに同じ時代の潮流に揉まれ、より高みを目指してきたと知れる瞬間があります。

閑話休題。『リトルウィッチロマネスク』の音楽は、むしろ世俗の音楽に接近して、例えばそれは『カルミナ・ブラーナ』。ちょっと粗野、ちょっと猥雑で、けれど人間の臭さというものを濃厚にまとったそうした時代の空気というものを音楽から感じさせて、けれどその音楽には間違いなくいまの感覚があって、ただ古さを装っているだけではないという、そこが一番に私を嬉しくさせたところであるといってよいかと思います。古い雰囲気も、新しい感覚も、いろいろが角突き合わせることなく調和的に共存している面白さ。どうやらこれは期待できそうだぞと、やっぱり思ってしまうのです。

そんなわけで、PS2版も買いました。多分、明明後日でしたっけ? まあ、順当にうちに届くことでしょう。もう、どうしようもねーなー。

あ、そうだ。メーカー在庫が切れないうちにサントラ買っとかないとなあ。これはこれは、まあ、なんという散財でしょう。ほんと、もう、どうしようもねーなー。

PlayStation2

PC

CD

2007年2月18日日曜日

パティスリーMON

  私は結構長期にわたり集英社のレディーズコミック誌『You』を購読していたのですが、この数年ほど、どうにも読める漫画が少なくなってきたと感じるようになってきて、だから購読するのをやめたんです。もう、私は対象層から離れちまったんだなあという一抹の寂しさをともに……。けど、読んで面白いと思う漫画が少なくなったということイコール、雑誌全体がつまらなくなったということでもないから困ります。やっぱりなかには面白いと思える漫画もあって、先を、続きを楽しみにしていた漫画もあったのです。そうした漫画の筆頭がきらの『パティスリーMON』でした。私はこの作者とは『You』で出会って、やっぱりこの人こんなに面白い漫画を描く人なんだと思って、それからは結構なファンでいます。

『パティスリーMON』は、そのタイトルが示すようにパティスリー、ケーキを作り売りするお店が舞台。乙女チック思考の音女ちゃんが昔の家庭教師の先生と再会して、その縁で、パティスリーMONで働くことになりました。そういう漫画なのですが、やっぱりこの漫画の肝というのは、オーナーシェフの大門と元家庭教師の土屋、いい男ふたりの間で揺れ動く乙女心! ってやつでしょうかね。けど、音女心は恋憧れに揺れながらも、お菓子作りというハードな仕事に取り組むに際しては実にしっかりとしているものだから、愛だ恋だと腑抜けたこといってる暇があったらしゃんと仕事せえよ、だなんて感想はあり得ない。仕事に真面目に取り組む姿がきちんと描かれているからこそ、応援したくなるというものなんだと思うのです。

で、問題はどちらを応援したらいいんだろうってことで、ええと、私は大門派なんです。寝癖頭で職場に現れる、ちょっと無愛想、ちょっと頑なそう、けど笑うとすごくかわいい、みたいなそんな男が大門。ちょっとずれたところみたいなのもあるんだけど、そういったところも含めて魅力という、そういう男が大門。堅物でないし、真面目そうだし、結構誠実そうなところもポイント高いし、それに、2巻で明かされる大門の真実。これまでの大門の — 、おおっと、これ以上はネタバレになるからいわねえよ。とにかく、ここで重要なのは私が大門ラブであるということです。

私が『You』の購読をやめた号には、ちょうど第1巻に収録された最後の回が載っていまして、だから第1巻が出たときには第2巻の発売を心待ちにしましてね、この後一体どうなるんだろう! って、だってどんどん大門という男がクローズアップされていって、音女との距離もどんどん縮まって、だから第2巻が出た時には、わー、やったー、って感じだったですよ。というか、なんで毎月出るんだ。いや、嬉しいけど、めちゃくちゃ嬉しかったけど。

第2巻読んで、私はやっぱり大門派です。

  • きら『パティスリーMON』第1巻 (クイーンズコミックス) 東京:集英社,2006年。
  • きら『パティスリーMON』第2巻 (クイーンズコミックス) 東京:集英社,2007年。
  • 以下続刊

2007年2月17日土曜日

ダンス イン ザ ヴァンパイアバンド

  地上三十階の書店では二ヶ所で平積み、他の書店でも結構押されているタイトルで気になっていたのですが、なにが困るといっても、タイトルから中身がどうにも推し量れなくて、それで買うのが遅れました。とりあえずヴァンパイアもの、怪奇ものだろうとは思ったのですが、バンドとついているものですから、ええーっ、これって音楽もの!? 一瞬クラウザーさんを思い出して、いや、違う違う、bandじゃない。表紙にちゃんとbundって書いてあります。じゃあ、これは一体どういう漫画かというと、ヴァンパイアたちが大挙して日本に設けられた租借地に移住してくるという話。構成はシンプルだけど結構読ませる、あたりと思える漫画でした。

この漫画読んでてなにが心地いいかというと、そのもっともらしさですよ。ヴァンパイアなどといった西洋妖怪が日本に大挙移り住んでくるというその設定、ちょっと聞いただけではあまりに非現実的、ありきたりと感じるところではありますが、ところがどっこい、それが実にしっくりとはまっていていい感じだからたいしたものです。そもそもなぜ日本国がヴァンパイアに租借を許すにいたったか、その理由をはじめとする端々にリアリティ — それっぽさがうまくちりばめられているから、漫画全体のありそう感も非常に高くなっています。しかし一番私が感心したのは、細かく説明しようとすればぼろも出そうなところをすべて、人知の及ばぬところに押しやっているところです。説明可能なところはなるたけシンプルに骨太に語り、ややこしくなりそうなところは怪奇神秘のベールで隠してしまう。うまい! 其方ら人間風情が我らヴァンパイアのすべてを伺い知れるなどとは努々思わぬことじゃ、分をわきまえるがよい、とでもいいたげな様子が痛快。ほんと、うまいです。やってくれます。

話の運びもなかなかのものです。数回単位でくくれる小エピソードを単位とするクライマックスと解決があり、これら小エピソード群をまとめる大きな流れがその背後に用意されています。小エピソードは結構シンプルに語られるものだから、登場人物の動機もうかがいやすくぶれも少なくなって、わかりやすく読みやすい、おいてけぼりになるということがないから安心して読み進むことができます。そして、これらエピソードは別のエピソードとかかわりを持つことで、より大きなストーリーを感じさせるから、小ぶりであるとか物足りなさであるとかは感じない。1巻2巻に収録されたもろもろの事件はそれぞれ趣を違えているけれど、このすべてが繋がりひとつになることで序章を構成しているといえば、その感覚を表現できるかな。気張りすぎず、けれど軽すぎるということもないという、そのバランス感覚がよくこの漫画世界を支えていて、非常にいい感じであると思っています。

ただ、気になるところ一点。ネタバレになるから、未読の人は気をつけよう。

心が全てを支配するヴァンパイアは、誰もがその本性に見合った真の姿を持っているとのことですが、それで姫さまの真の姿があれだったというのをはたしてどう受け取ればいいのか、ちょっと現在保留中です。由紀曰くきれい……であるその姿が、姫の善性や高潔さを表しているというのなら、ちょっとがっかりかも。けれど、一見そのように思わせながら、まったく違った内面を表現するものだとしたら、してやられたー、って感じに私は喜びそうです。

そうした多義性、多面性、多様性を持つがためにあれが選ばれているのだとすれば、私はすでに作者の術中にはまっています。そうだったらいいなあ。

蛇足

ツェペッシュやメディチといういかにもな名前があって、どうにもこうにも期待したものだから、デルマイユで検索してみたんです。そしたらガンダムばっかり出てきてびっくりだ! もしかしたらボルジャーニもガンダム由来? ボルジア家あたりを思い浮かべたんだけど、どうなんだろう。でも、このへんは多分語られることないでしょうね。

引用

自ら売ったらいいんじゃないかな

パワーレベリングとは、一般的に、手数料を徴収する代わりにプレーヤーのアカウントを引き継いで希望のレベルに到達するまでゲームに取り組むサービスのこと。サービス対象は、数あるオンラインゲームのすべてとなる。

需要のあるところには供給があるんだと感心したニュース。

レベル上げ代行業に関し、ゲームの提供側は静観を決め込んでいるようですが、リアルマネートレード(RMT)にせよレベル上げ代行にせよ、お金払ってでもゲームを有利に進めたいという需要があるとわかってるなら、ゲーム提供側が積極的にそのへんをサポートしたらいいのにな、なんて思います。つまり、アイテムも経験値も金で買えるシステムにしたらいいんです。どうせなら、ゲーム内通貨も購入できるようにしたらいい。通貨流通量が増え過ぎてインフレが起こることを心配するなら、ゲーム提供者がゲーム内通貨の取引を仲介すればいいんじゃないかな。ゲーム提供者がゲーム内通貨を現金買い取りして、別の人に現金でおわけする。手数料とってもいいしとらなくてもいいし、変動相場制にしたっていい。

アイテムや経験値、通貨が購入可能になれば、RMTやレベル上げ代行業者に流れていた資金はまるまるゲーム提供者のものになるわけで、悪い話じゃないと思うんです。アカウント乗っ取りや詐欺などといったトラブルも減るだろうし、なによりこうしたサービスを利用するプレイヤーが後ろめたさを感じなくてもすみます。

金はないけど時間はあるというプレイヤーがいれば、金はあるけど時間がないというプレイヤーもいるわけで、時間を充分に割ける人は自力で経験値でもアイテムでも稼いだらいい、時間がないからゲームのエッセンスだけでも楽しみたいという人は金で解決する。金も時間もある人は好きに選んだらいいし、そのどちらもないという人は、まあこりゃどうしようもないか。

プレイスタイルなんてのは各人それぞれで違っていて当たり前、他人にとやかくいわれる筋合いなんてないんです。ゲーム魂を捨てただなんてそれこそどうだっていい話で、自分の楽しみ方と違う楽しみ方をしている人がいるんだなあ、ってそれだけのこと。ずる、ごまかし、不正だとか、ほんと余計なお世話ですよ。

引用

ケータイ持たない理由

 今やケータイを持たない人は「よほどの、持たない理由や主張がある人」くらいになりました。

ええーっ、それはないよ。

私はまさしくケータイを持たない人であるわけですが、持たない理由はというと、かけることもないし、かかってくることもないから。すなわち、持つ理由がないというのが持たない理由であるわけです。

私が今、一緒に働いている人の中にはケータイ持たない人が二人ほどいますが、それらの人たちも別によほどの理由があってそうしているわけではないと思います。

引用

2007年2月16日金曜日

つっこみ力

 その昔、私は実は学問をする人になりたくて、その学問を志した先になにがあるかはわからないものの、先へ先へと進みたいと思っていました。けど、その思いがあんまりに漠然としていたからか、いや実際のところ成績が悪かったのが悪いのですが、進学の望みは無残にも断たれてしまいました。まあそれでもあきらめたわけではなく、力を蓄えていつかまたきっと挑戦しようと思って、語学に精を出したりしたものの、水は低きに流れるとはよくいったものです。ええ、低きに流れちゃったんですね。いま、私は学問を志そうなんてちっとも考えてなくて、やっぱあれだよ、ギター弾いてるほうがずっと楽しいよな。なんでもそうなんだろうけど、瀬に降り、そのものに触れているほうがずっといいと思う。人間は確かに頭、脳を発達させてきたけれども、けれど、それでも、最後にはその体に感じることが真実なんだと思って、そしてその実感に発する思いというものがその人のなによりの力になるのであると思います。

さてさて、今日はうさんくさいイタリア人パオロ・マッツァリーノの『つっこみ力』を読んでみました。そう。『反社会学講座』のあの人ですよ。私は、『反社会学講座』があんまりに面白かったものだから、マッツァリーノの二冊目の著書となる『反社会学の不埒な研究報告』を買おうかと思って、けどなんとなくやめちゃって、というのは、第一作がむやみに面白かった場合ってどうも第二作は不作に終わることが多い、そういう印象というか偏見があるせいなのですが、前よりももっと面白くしないといけないとか、そういう力みがあるんでしょうかね。なので、面白さに陰りがあったりするといやだなあと思ったので、あえて二作目は保留したのでした。

『つっこみ力』は三冊目。これは既刊と違い新書としてリリースされて、値段もお手ごろ、買いやすかったものだからムラムラっときて買ってしまいました。って、ムラムラってなんだー。いや、この著者がインセンティブを説明するのに、自分だったらムラムラ感と言い換えるなんていうものですから、私もそれに倣っただけです。でも使っておいてなんですが、この場合はあんまりインセンティブとは関係なさそうに感じます。

そして、話は冒頭に戻ります。私が学問をやろうと思っていたとき、なんというか、すごいジレンマがあったんですね。私のやってた学問というのは昔は理系、今は文系に分類されるものなのですが、この文系学問ってやつはですよ、はっきりとした白黒がつかないのですよ。もう、どうとでもいえちゃう。私にはその曖昧さが我慢できず、けれど二回目の論文を書こうと悪戦苦闘する中でちょっとわかったつもりになったんですね。結局は、論文にせよ説にせよ、こういうものはもっともらしさなんだって。自分の中にある実感や確信、あるいは疑問や問題意識でもいいや、そういうものを明らかにしようといろいろ証拠集めて並べて透かして考えて、なんとかして説得力を持たせようと努力することが学問なのかもなあ、そんな風に思ったんです。

まあ、それでもどうしても言い切れないなんてこともありまして、それをアクロバチックな強行手段で乗り切るような人もいたりしてがっかりだったりもするんですが、そうだ、アクロバチックっていえば、当時仲の良かった研究者にプーランクというフランス人作曲家を研究していた人がいたのですが、その人、しょっちゅう論文に書くネタを探していたものですから、ちょっとこんなのそそのかしたことがあるんです。その人、チェンバロも弾く人で、チェンバロ曲の重要な作曲家にクープランというのがいるんですが、この二人の類似性を論じてみたらどうでしょう。いろんな側面から比較検証してみてさ、もう微に入り細をうがつような詳細な検証してみてさ、それで結局似ていたのは名前だけでしたってやったら痛快じゃないですか。うけたけど、却下されました。残念。面白いと思ったんだけどなあ。

閑話休題。『つっこみ力』を読むと、改めて学問のあやふやさに思い至ります。この本の扱う範囲は社会学でありますが、社会学というのはデータという一見中立公正確実と見えるものを扱いながら、結局は解釈いかんによってどうとでもいえちゃうもんなんだと、そういうことが書かれています。だから、結論は最初にあるということなんでしょう。最初に思いつきがあって、それをデータでもって説明してみようとする。まあここまではいいですわな。けど、いつも検討の結果が自説にとって都合がいいわけでもないでしょう。こんなとき真っ当な学者や研究者なら思いつきを引っ込めるのだと思いますが、解釈でどうにかしちゃうこともあるんじゃないかと思います。あるいは、思い込みがあるためにデータを読み違えるということもあるでしょう。こうした読み替えや錯誤によって実態から離れるケースなんていうのは実際にありえることだと思います。また、その検討が妥当であっても、実態のすべてを説明しきれるとは言い切れない。ひとつの側面に光を当てるのが関の山なんだと心得ておくのが健全なんだと、そういうことなんだと思います。

マッツァリーノが槍玉に上げる対象というのは、常にべき論・べからず論で物事を論じようという輩なんだと思います。世の中はこうあるべきなのだ、と持論をぶつような類い。ひとつの考えに固執するあまり、その他の考えやあり方を認めないようなそんな輩をこそ笑おうとしているのだと思います。

そうした輩は、持論自説を補強し説得力を持たせるために、データを持ちだし、あれこれともっともらしい理屈をつけて、で、このデータがくせ者なんだという。見かけの一致や解釈の違い、統計の嘘、ごまかしなんかをうまく使って、ありもしない事実を作り上げ、自分の理想に都合の悪いものを押さえつけようとする。けれど、そうした理屈でもって自説をごり押ししてくる連中に対し、真っ向から戦うのはあんまりいい考えとはいえないと、そんなことをマッツァリーノはいっています。

ここで、書名の『つっこみ力』ですよ。日本にはつっこみという伝統がある。つっこみどころを見つければ、即座につっこんで笑いに昇華してしまうのがいいのだといっているんですね。そのためには、勇気が必要だなんていって、つまり権威や権力にひるんじゃいけないといっています。

以上が前半。けれど、私には後半が効きました。後半、残念ながらマッツァリーノは自らの説く『つっこみ力』を充分には発揮できずにいて、そこには皮肉屋の顔も冷笑的な態度も薄れて、むしろ情熱的といったらいいのか、思いに突き動かされるままに筆を走らせたという、そういう高揚が強く感じられます。憤りなんだと思います。目先にとらわれすぎるあまりに、見るべきものが見落とされている現実に対する憤りがこの高揚を生み出しているのだと思います。あるいは、これは私のまったくの邪推でありますが、政策の失敗とその失敗を隠蔽しようとするかのように流布されるもっともらしい話、そうした共犯関係に対する不信や怒りがあったんじゃないかとそんな風にも感じられて、まあこれは私の邪推ですから本当のところはわかりません(なにしろ、陰謀論はどこにでもわくものですから)。

後半、章でいいますと「第二夜 データとのつきあいかた」におけるマッツァリーノは、私がこれまでこの人に対して持っていた印象を、ちょっと変えてしまいました。人によっては必死さをあらわに熱弁ふるうマッツァリーノを笑うのかも知れませんが、けど私はこの本読んで、この人のことがずっと好きになった。マッツァン、いいやつじゃん。だから私は今日の帰りに紀伊国屋に寄って『反社会学の不埒な研究報告』を買ったのでした。いやなに、ちょっとムラムラってしただけの話ですよ。

  • マッツァリーノ,パオロ『つっこみ力』(ちくま新書) 東京:筑摩書房,2007年。

参考