2007年2月16日金曜日

つっこみ力

 その昔、私は実は学問をする人になりたくて、その学問を志した先になにがあるかはわからないものの、先へ先へと進みたいと思っていました。けど、その思いがあんまりに漠然としていたからか、いや実際のところ成績が悪かったのが悪いのですが、進学の望みは無残にも断たれてしまいました。まあそれでもあきらめたわけではなく、力を蓄えていつかまたきっと挑戦しようと思って、語学に精を出したりしたものの、水は低きに流れるとはよくいったものです。ええ、低きに流れちゃったんですね。いま、私は学問を志そうなんてちっとも考えてなくて、やっぱあれだよ、ギター弾いてるほうがずっと楽しいよな。なんでもそうなんだろうけど、瀬に降り、そのものに触れているほうがずっといいと思う。人間は確かに頭、脳を発達させてきたけれども、けれど、それでも、最後にはその体に感じることが真実なんだと思って、そしてその実感に発する思いというものがその人のなによりの力になるのであると思います。

さてさて、今日はうさんくさいイタリア人パオロ・マッツァリーノの『つっこみ力』を読んでみました。そう。『反社会学講座』のあの人ですよ。私は、『反社会学講座』があんまりに面白かったものだから、マッツァリーノの二冊目の著書となる『反社会学の不埒な研究報告』を買おうかと思って、けどなんとなくやめちゃって、というのは、第一作がむやみに面白かった場合ってどうも第二作は不作に終わることが多い、そういう印象というか偏見があるせいなのですが、前よりももっと面白くしないといけないとか、そういう力みがあるんでしょうかね。なので、面白さに陰りがあったりするといやだなあと思ったので、あえて二作目は保留したのでした。

『つっこみ力』は三冊目。これは既刊と違い新書としてリリースされて、値段もお手ごろ、買いやすかったものだからムラムラっときて買ってしまいました。って、ムラムラってなんだー。いや、この著者がインセンティブを説明するのに、自分だったらムラムラ感と言い換えるなんていうものですから、私もそれに倣っただけです。でも使っておいてなんですが、この場合はあんまりインセンティブとは関係なさそうに感じます。

そして、話は冒頭に戻ります。私が学問をやろうと思っていたとき、なんというか、すごいジレンマがあったんですね。私のやってた学問というのは昔は理系、今は文系に分類されるものなのですが、この文系学問ってやつはですよ、はっきりとした白黒がつかないのですよ。もう、どうとでもいえちゃう。私にはその曖昧さが我慢できず、けれど二回目の論文を書こうと悪戦苦闘する中でちょっとわかったつもりになったんですね。結局は、論文にせよ説にせよ、こういうものはもっともらしさなんだって。自分の中にある実感や確信、あるいは疑問や問題意識でもいいや、そういうものを明らかにしようといろいろ証拠集めて並べて透かして考えて、なんとかして説得力を持たせようと努力することが学問なのかもなあ、そんな風に思ったんです。

まあ、それでもどうしても言い切れないなんてこともありまして、それをアクロバチックな強行手段で乗り切るような人もいたりしてがっかりだったりもするんですが、そうだ、アクロバチックっていえば、当時仲の良かった研究者にプーランクというフランス人作曲家を研究していた人がいたのですが、その人、しょっちゅう論文に書くネタを探していたものですから、ちょっとこんなのそそのかしたことがあるんです。その人、チェンバロも弾く人で、チェンバロ曲の重要な作曲家にクープランというのがいるんですが、この二人の類似性を論じてみたらどうでしょう。いろんな側面から比較検証してみてさ、もう微に入り細をうがつような詳細な検証してみてさ、それで結局似ていたのは名前だけでしたってやったら痛快じゃないですか。うけたけど、却下されました。残念。面白いと思ったんだけどなあ。

閑話休題。『つっこみ力』を読むと、改めて学問のあやふやさに思い至ります。この本の扱う範囲は社会学でありますが、社会学というのはデータという一見中立公正確実と見えるものを扱いながら、結局は解釈いかんによってどうとでもいえちゃうもんなんだと、そういうことが書かれています。だから、結論は最初にあるということなんでしょう。最初に思いつきがあって、それをデータでもって説明してみようとする。まあここまではいいですわな。けど、いつも検討の結果が自説にとって都合がいいわけでもないでしょう。こんなとき真っ当な学者や研究者なら思いつきを引っ込めるのだと思いますが、解釈でどうにかしちゃうこともあるんじゃないかと思います。あるいは、思い込みがあるためにデータを読み違えるということもあるでしょう。こうした読み替えや錯誤によって実態から離れるケースなんていうのは実際にありえることだと思います。また、その検討が妥当であっても、実態のすべてを説明しきれるとは言い切れない。ひとつの側面に光を当てるのが関の山なんだと心得ておくのが健全なんだと、そういうことなんだと思います。

マッツァリーノが槍玉に上げる対象というのは、常にべき論・べからず論で物事を論じようという輩なんだと思います。世の中はこうあるべきなのだ、と持論をぶつような類い。ひとつの考えに固執するあまり、その他の考えやあり方を認めないようなそんな輩をこそ笑おうとしているのだと思います。

そうした輩は、持論自説を補強し説得力を持たせるために、データを持ちだし、あれこれともっともらしい理屈をつけて、で、このデータがくせ者なんだという。見かけの一致や解釈の違い、統計の嘘、ごまかしなんかをうまく使って、ありもしない事実を作り上げ、自分の理想に都合の悪いものを押さえつけようとする。けれど、そうした理屈でもって自説をごり押ししてくる連中に対し、真っ向から戦うのはあんまりいい考えとはいえないと、そんなことをマッツァリーノはいっています。

ここで、書名の『つっこみ力』ですよ。日本にはつっこみという伝統がある。つっこみどころを見つければ、即座につっこんで笑いに昇華してしまうのがいいのだといっているんですね。そのためには、勇気が必要だなんていって、つまり権威や権力にひるんじゃいけないといっています。

以上が前半。けれど、私には後半が効きました。後半、残念ながらマッツァリーノは自らの説く『つっこみ力』を充分には発揮できずにいて、そこには皮肉屋の顔も冷笑的な態度も薄れて、むしろ情熱的といったらいいのか、思いに突き動かされるままに筆を走らせたという、そういう高揚が強く感じられます。憤りなんだと思います。目先にとらわれすぎるあまりに、見るべきものが見落とされている現実に対する憤りがこの高揚を生み出しているのだと思います。あるいは、これは私のまったくの邪推でありますが、政策の失敗とその失敗を隠蔽しようとするかのように流布されるもっともらしい話、そうした共犯関係に対する不信や怒りがあったんじゃないかとそんな風にも感じられて、まあこれは私の邪推ですから本当のところはわかりません(なにしろ、陰謀論はどこにでもわくものですから)。

後半、章でいいますと「第二夜 データとのつきあいかた」におけるマッツァリーノは、私がこれまでこの人に対して持っていた印象を、ちょっと変えてしまいました。人によっては必死さをあらわに熱弁ふるうマッツァリーノを笑うのかも知れませんが、けど私はこの本読んで、この人のことがずっと好きになった。マッツァン、いいやつじゃん。だから私は今日の帰りに紀伊国屋に寄って『反社会学の不埒な研究報告』を買ったのでした。いやなに、ちょっとムラムラってしただけの話ですよ。

  • マッツァリーノ,パオロ『つっこみ力』(ちくま新書) 東京:筑摩書房,2007年。

参考

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