最近読んでるのが『百人一首』。先日角川書店がKADOKAWAになるっていって、傘下の出版社を糾合しましたが、その時に電子書籍半額セールなんていうのをやってくれたわけです。おお、半額! これは買わないと! そういう気分にさせられて、けどなにを買ったものか、いろいろ迷った挙句、古典とか買ってしまいました。うん、古典部シリーズも買った。けどメインは日本の古典、『おくのほそ道』とか『とりかへばや物語』、そして『百人一首』。正直、こんなの買って読むのかなあ、みたいなことも思ったんですが、なんと読んでるんですよ。ええ、『百人一首』、こうして古典として触れるのはもしかしてはじめてかも知れません。
まず歌が紹介されて、その現代語訳、そして解説が続くのですが、なんとこれまでは全然わかってなかったんだな、そう実感させられることしきりでしたよ。それどころか、自分にとって百人一首とは、読み札、取り札でしかなかったのかも知れない。全部覚えてたわけじゃない、けどそこそこは知ってるつもりだったのに、出てくる歌、出てくる歌、こんなだったっけか、そう思わせられること頻繁で、あ、わかった、これまでは歌として覚えてなかった、決まり字と下の句の頭、それだけでしかなかったと気付かされたのでした。
あしながながし、たごふじの、きみがためときたら、はるとをしで、わがころも、ながくもがなに分岐する云々。ああ、駄目だこりゃ。駄目だった。反省しましたよ。
百人一首は恋の歌が多い、そういう印象でいたのですが、ただ恋というだけじゃない歌も多いんですね。恨みがある、皮肉である、あるいはストレートに好意を伝えるものもあり、そうしたバリエーション。そして老いの悲しさ、変わりゆくものの詫びしさ、そうした歌も多い。それら歌の背景が解説に語られ、歌人たちがどうした境涯にあって、どうした思いを歌に込めたのか。また撰者である藤原定家はどういう思いから撰んだのか、それが推測、解釈の根拠をともに説明されて、ああ、こういう読み方ができるとぐっと面白さは増す。深い知識と理解があれば、歌の世界はこうも豊かに広がるものなのかと感心する思いなんですね。
そしてまた意外だったのは、伝えられてる詠み人が実は違うらしいという歌も多かったりするんですね。この人が詠んだといわれてるが、どうも実際には違うらしい。へー、それは驚き。けれど、ほかならぬその人だからこそ、この歌を詠んだのだろう、そうした後世の人たちの思いなどもあったりするのだろうな。歌が詠まれた時の実際の情景があり、そして後世に伝えられていく中で、解釈や人々の思いが宿り、また違った表情を示すようにもなる。こうした積み重ねに耐えるものこそが名作で、古典たりえるものなのかも知れませんね。そしてそうした積み重ねは今もなお続き、その時々の輝きを、幾重にも折り重なった層を繰り読み解き味わう行為こそが、鑑賞であるのかも知れませんね。
- 谷知子『百人一首(全)』(角川ソフィア文庫 ビギナーズ・クラシックス 日本の古典) 東京:角川学芸出版,2010年。
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