
山崎まさよしのライブアルバム『ONE KNIGHT STANDS』に歌われるこの歌を聴いたとき、あまりに悲しい情景が風にばたばたと煽られて切なくて、なんだか泣きそうになったのです。擦れっ枯らしに生きればいいのを、純粋さというやつがこの世のどこかに残っているかも知れないと探してさまようようで、今もやっぱり、聴くたび胸のどこかにぽかりとあいた穴から、ひゅうひゅうと風が吹きつけてくるようで、私たちに安住の地はないんじゃないだろうかと悲しく思い、けれど心の奥に一本強い梁のようなものを抱いているようにも思えてくる。そいつを支えに、私たちは探し物を続けなければならんのだなと、そんな予感がしてくるのです。
この歌はやっぱり山崎まさよしの独特の歌い口が、砂が風に舞うような空しさを強く感じさせて最高なのですが、他に、元ちとせの歌うバージョンも心の底から振り絞られるような強さがあって素晴らしいと思っています。
元ちとせは『ワダツミの木』で広く知られるようになって、けれどインディーズ時代にリリースされたアルバムに『名前のない鳥』が入っていて、私はこれを、以前勤めていた職場の同僚に聴かせてもらったのでした。
はじめ出会った頃、その人は私を、クラシックとかを堅苦しく聴くような人間であると思ったのだそうです。ですが、そう思った直後に、山崎まさよしのアルバムを聴く私を目の当たりにして、意外であったといいます。そんな風にして、私が山崎まさよしを聴くと知っていたこともあって、元ちとせを教えてくれたのでしょう。
ちょうどその頃、私はちょっとひどく落ち込んでいて、なにもかもいやになってふさいでいて、見てられなかったんでしょう。その人が、このアルバムを、いいから持っていけと呉れたんです。嬉しかったですよ。アルバムを貰ったということが嬉しいんじゃなくて、気にかけてくれているということが嬉しかった。だから、私は今でもその人のこと、感謝しています。
落ち込んだ私に、元ちとせはすごく力を与えてくれたと思います。口の悪い、もうひとりの同僚は、元ちとせはよくないよくないといいますが、私にはすごく伝わってくるものがあって、特に、やっぱりこの『名前のない鳥』が大きかった。内向きにこもった私に、この歌の情景はすごく近くに感じられて、なによりその温度があっていたのですね。私は数ヶ月ふさいで、結局どこかに空白を残しながらも戻ってきたのですが、あの時、この歌は私にとっての大切な助けであったと思います。
ルネサンス期イギリスを代表する作曲家のひとり、オーランド・ギボンズ作曲のマドリガル『しろがねの白鳥』は、その美しさ、愛らしさによってよく知られる曲ですが、その主題の痛ましさ、そして死の悲痛を表現するために用いられた増三の不協和音 — この表現のあまりに効果的なことからも、よく取り上げられる名曲です。
『白鳥の湖』に関しては、紹介するべきかどうか、結構悩みました。あまりにも有名なタイトル、あまりにも有名な旋律。あえて自分が紹介する必要もないよなあ、とか思ったんですが、やっぱり紹介するのでした。
私がはじめて買ったクラシックのCDは、ソニーベスト100の『動物の謝肉祭』だったんですよ。レナード・バーンスタイン指揮で、『動物の謝肉祭』の他にはプロコフィエフの『ピーターと狼』とブリテンの『青少年のための管弦楽入門』が収録されています。まさに入門者セットというべき一枚で、なにしろ私はかたちから入りたがるたちですから、実にうってつけでしたよ。
『ザ・カッコー』はアイルランドのトラディショナル・バラッドで、なにしろカッコウはその特徴ある声で知られて、詩の題材や音楽の主題によく使われています。以前紹介しました
知らない人にとってはクラシックの敷居の高さは並大抵ではないのだと思います。聴く前には時代背景やら作曲家、演奏者についてなど、なんだかいろいろ勉強しなきゃいけないような感じだし、それにうかつなことをいえば袋だたきにされそうな気がする。
ペンギンが出て来るゲームといえば、コナミの『けっきょく南極大冒険』、ハドソンの『バイナリーランド』を思い出す人も多いでしょう。けれど、私にとってのペンギンゲームとは、セガの『ペンゴ』なのであります。
子供の頃に買ってもらった、いぬいとみこの『
Blackbird fly, Blackbird fly — 


高校の頃、図書館にあるのを見付けて読みました。独特の雰囲気がある本です。登場人物はすべてかもめだというのに、人間となんら変わることない存在として書かれていて、すごく啓示的なストーリーが目の前にちらついて、落ち着かなくなったことを覚えています。かもめにとっては日常の技術である飛行をただひたすらに追い求めた果てに、新たな地平を見つけ出すジョナサン。それは完全なる世界にして、永遠の凝縮されるところでした。すなわち『かもめのジョナサン』とは、ひとつの意識が世界を超越する、解脱体験の物語であるといえるでしょう。
一時期私が、インコ飼いたいインコ飼いたい、それもコンゴウインコが飼いたい、体長は一メートルくらいあって、八十年くらい生きるらしいけど、それでも欲しいんじゃあ、っていってたのは、この漫画が原因です。だってさ、この漫画を見ていると鳥との暮らしも悪くなさそうだと思うんですよね。なにより楽しそうで、私の生活が変わるかもという感じがするじゃありませんか!
私はしゃべる鳥は飼ったことないんですが、子供の頃、近所に九官鳥飼っているお家があって、天気のいい休みの日には、鳥と遊びにいったりしてました。まあ、子供ですからろくな言葉教えないんですけどね。さすがに
夏目漱石も文鳥を飼っていました。うちのと同じ白文鳥だったようです。うちに文鳥がやってきたいきさつは、迷子になっていたのを保護したというものでしたが、漱石の場合は、鈴木三重吉が鳥をお飼いなさいと勧めたのがきっかけでした。そのへんのことは、漱石が書いて残した小文『文鳥』に書かれていて、本当に短い文章ではありますが、鳥のことをよく見て、詳細に書かれた描写が美しいです。漱石も、勧められるままに飼いはじめたみたいな風ではありますが、本当はこの鳥のことを気に入っていたのだと思います。そういう気分が伝わってくるんですね。

『鳥のカタログ』という曲名の美しさ。鳥を愛したフランスの作曲家オリヴィエ・メシアンが、採譜し分析した鳥の歌を、ピアノの鍵盤の上に写し取ったのがこの曲集です。それぞれの曲名は、テーマとなった鳥の名前がそのまま用いられていて、十三の曲中に
私の母なんかが子供の頃は、庭に鶏を飼っていて、それはそれはひどく追い掛け回されたんだそうですよ。家の中まで追いかけてきたという話で、そのせいで今でも雄鶏は怖いんだそうです。けれど、私は鶏に関してはそういう記憶はないんですね。小学校や近所の友達のうちに鶏はいたけれど(友達ん家にいたというのもすごいな。さすが昭和だ)、そんなに凶暴じゃなかった。自分の世界に生きているようなやつらばっかりで、子供がそばでなにをしてようと、我関せずといったそぶり。全然あぶないことなんてありませんでした。
中学高校時分の友人から来た年賀状に、『
私はがんばるのが嫌いです。ひねくれてるんです。がんばること自体が嫌いなのではなくて、がんばっているということを見せるのが嫌い。どんなにしんどかったり苦しかったりする状況でも、しれっとした顔をし続けたい。なんでもないように見せたいのです。けれどこういうのは損な性分で、世間一般というやつはがんばった顔をしている人間を評価することが多いもんだから、私はどうも評価されにくい — といえば、あまりに自分を買いかぶりすぎてますね。けれど、私はがんばっていますというアピールを好む人がいることも事実。けれど私にはそういうのはどうにも理解できないんです。
『べたーふれんず』がついに出版されました。これは『まんがタイムナチュラル』という、実験的かつ短命な隔月誌に連載されていた漫画でして、ですが私、最初のほうは読んでなかったんですね。姉妹誌である『まんがタイムポップ』を買ってましてね、ナチュラルには手を出していなかったんです。いや『まんがタイム』って系列誌が馬鹿みたいに多くって、全部買ってたらあっという間に部屋が雑誌で埋まります。当時は私にもまだ良識というか自制というかがあったので、全誌は買っていなかったんですね。
師走冬子はサービス精神が旺盛で、漫画のカバーをはいでみると、その片鱗を見ることができると思います。『スーパーメイドちるみさん』では、作中の小説『火星人と今日子と醤油』の漫画が掲載されているのですが、すごいのはそのゲスト陣。作者の友人知人関係が駆使されて、思い掛けない人の思い掛けない漫画を見ることができるんですよ。一粒で二度おいしいといいますか、ちょっと得した気分というか。いや、それよりも、楽しんで漫画を描いてるんだということが伝わるようで、それがなんだかむやみにうれしかったりします。私は、あんまりにやり過ぎのいちびりは嫌いですが、こういうカバー裏の楽しみは大好きです。
昨日が『
