巷にがんばれソングは山とあって、好景気のイケイケの時にはそれなりに元気な、不景気でしょんぼりしているときにはそれなりに癒し効果を狙ったのが次々出てきて、実は私、そうした歌は嫌いです。あんまりあからさまに効きますよみたいな感じでリリースされるものって、作られすぎた感じがしましてね、なんかキャンペーンに躍らされてるみたいに思うんです。だからあんまり好きじゃないし、がんばれがんばれっていわれても、別に怠けてるわけでも気を抜いてるわけでもないよー、これ以上どうがんばれっていうのー、っていう気にもなってしまいます。
いや、昔本当にそう思ったことがあったんです。学生の頃だったと思いますが、いっぱいいっぱいの毎日に、昨日よりもっとがんばって
っていわれて、がっくり落ち込んだことがあったのでした。
シオンの『がんばれがんばれ』は、雨の日、駅まで送ってもらう車の中で聴いたのが最初でした。かすれた声で語りかけるように歌われる、その暖かさがすごくありがたいと感じられて、それまで気張って一生懸命すぎた心が、柔らかになったように感じられたのでした。
たまたまラジオでかかるのを聴いただけだったので、曲名なんてまったくわからず、当時はインターネットの時代ではなかったので、歌詞の断片から探すなんて技も使えませんでした。けれど私は運がよかったんですね。この歌を歌っている人がシオンという人らしいという、それだけはどうにか知ることができたんです。シオン、シオン。この名前を頼りに、パソコン通信の電子会議室で問いかけてみたり、大阪のディスクピアやタワーレコードを探し歩いたりしたことを覚えています。
見付かったのはタワーレコードででした。タイトルはまさに曲のとおり、『がんばれがんばれ』。故郷に残った母が、都会でがんばっている息子に宛てた手紙かなにかなのでしょう。いつでもここにいるから帰ってきていいんだよ
。— いつでも受け止めてもらえる、帰る場所があると思えることが、どれだけ心の支えになるかわからないと、その言葉だけでどれだけがんばる気持ちが湧いてくることだろうと、田舎に母を残してきているわけでもないのに、私は思ったのでした。
今でも変わらず好きな一曲です。
ジャン・リュック・ゴダールに『
私の友人がいうんです。その友人は、子供を産んだ友人には必ず産みの苦しみを聞くようにしているのだそうでして、その最新の収穫を伝え聞くことができました。電信柱ぐらいのものが通るような痛みであるという話でして、いやあそんなに痛いものなのか。私は、ちょっとお産は遠慮しとこうかな。
私はどうも限定とか特別とかそういう文句に弱くて、それと同じくらいに一期一会に弱い。ついこの間、友人と一緒に大阪の
人間には過去があって、それと同じくらいの大きさで未来があって、そのふたつを繋ぐ今に私たちは生きているわけです。山下和美の短編集は、そうしたことを描きながらも実に自然で、肩ひじ張っていない。けれど深い。本当に力のある作家であると思います。
青木玉の回顧によれば、幸田文が着物を着続けた理由には、
今回は趣向を変えて、新製品情報をば扱いましょう。アメリカで開催された楽器の見本市
女性と男性の関係において、私は、ああ、黒子のようでありたいと思うのです。影に日向に付き従いて、荷あらば担い、座らんとすればそっと腰掛けを持ち、靴上着の類いの脱ぎ着にも手を貸して、用あるごとにかいがいしく働きたい。それどころか、それ以上を求めているところまであったりして、実際の話、将来大金持ちになる予定の私の美しい友人に、どうぞその暁には下僕として雇って呉れるよう約束していたりするのですね。いやまあ、まともな会話ではありませんな。お前変態かといわれれば、むう、あるいはそうかも知れんと答えざるを得ません。わかってるねん、わかってるねんで?
以前、京大のシャンソンに詳しい仏文学の先生が、日本におけるシャンソン受容に関しての講義をするということがありまして、友人に誘われて聞きにいったことがありました。講座といいましても一般向けのものなので、それほど突っ込んだ内容ではなかろうと予想したのですが、きっとシャンソンがいろいろ紹介されるに違いない。シャンソンは好きだけどそれほど詳しくない私は、どんなシャンソンを聞くことができるだろうと、それを楽しみにしていったわけです。
そろそろ限界が見えてきたこととねお試しBlog。いくらなんでも書くものがなくなってきましてね、なんだか追いつめられたような気分がします。

昨日、フロントミッションについて書いたら、アーマード・コアでも書きたくなってしまいました。アーマード・コアというのも、フロントミッションほどではないですが古いゲームでして、初出は初代プレイステーションでした。

フロントミッションは初出がスーパーファミコンという結構古いゲームなのですが、順調に新作が開発リリースされていて、今も遊べるシリーズです。きっと人気があるのでしょうね。私は第一作を遊んだだけで続編は横目に見ているだけだったのですが、それでも独特の世界観やなにかは興味をそそるに充分でして、実は今でも遊びたいと思っています。そんな具合に、虚構なんだけどリアリティのあるシリアスなストーリーにはまってしまった人は、きっと多かったのでしょう。
GrageBandがマルチトラックに対応だ、といってもマルチトラックレコーディングをするには、それなりのオーディオインターフェイスが必要なので、ちょっと気楽にはじめてみようかというものではないんですね。けれど、幸か不幸か私の使っているMacintoshはiBook G4なので、そもそも音声入力端子なんてないのです。マルチだろうがシングルだろうが、音声を入力しようと思えばオーディオインターフェイスが必要なのです。まあ、iBook内蔵のマイクを使うという手もないではないのですが、それはこの際ちょっと考慮の外に置いておきましょう。
iLifeというのは、アップルコンピュータのリリースするクリエイティブツールのスイートですが、この2005年版がついにリリースされるのですよ。私はこの日が来るのを待ちに待っていたといっていいくらいでして、なんだかちょっとわくわくする気持ちを抑えられないでいます。


『天気予報の恋人』は、仲間内で不思議に人気の高かったドラマで、普段はドラマなんてあんまり見ない私も、毎週楽しみにストーリーを追って、来週はどうなるんだろう、二人いるヒロインのどちらが最後に仕合せをつかむのだろうかと、口々に続きを予想し合ったり、感想を交換し合ったりしたものでした。

『ファミコン必勝本』という雑誌が昔ありまして、私講読していました。ちょっと変わり者っていうのがわかってしまいますね。っていうのは、当時のメジャーどころはファミマガ、まる勝といったところで、ひっぽんはマイナーというか、コアな人が読んでる雑誌だったんです。その割に、私もひっぽん読んでましたという人によくあうんですが、その誰もが風変わりっていうのはどうでしょう。いや、人のことはいえない、いえない。

昔は民放でもジュブナイル・ドラマをやってたんですけど、最近では子供がドラマを見なくなったのか、あるいは大人向けのドラマを見るようになったのか、とんと見かけなくなってしまいました。結構好きだったんですよ。『ハウスこども傑作劇場』というのがあって、主題歌の断片だけ覚えています。「飛ぶんだ跳ねるんだボールになってさ」ってやつで、人のうちにいってもみるくらい好きなシリーズでした。
私はいうまでもなく駄目で駄目で駄目な人なのですが、それはもうこのゲームに関するエピソードをちょいと聞けば、その駄目さ加減もわかろうというものです。
自分の望む自分になれないというテーマは、実に多様な広がりを持っています。例えば、昨日の『
昨日一緒に食事をした人が中学時分のことを思い出して、ちょうどその頃はバブル好景気華やかなりし頃、女性の社会進出などが盛んにいわれた時代でありました。で、その人は家庭科のレポートでそうしたことを書いてみたところ、教師から、家庭に入るという仕合せもありますよといわれたのだそうです。目からうろこの落ちる思いがしたとの話でした。
日本語一本で育ってきた私には、やっぱりフランス語というのは難しくて、なにしろ耳に入った言葉がすらすらすらと飲み込めるわけでなく、ましてや今やってるみたいに、次から次へとフランス文が湧いてきてなんてことはまずありえないわけです。辞書首っ引きで、一生懸命訳すんですね。そしたら絶対出てくるんですよ、いったいここはなにをいおうとしてるんだろうかって箇所が。直訳してもわからない、意訳しようにも意味がわからんからどうしようもない。うんうん唸っているうちに、ああこういうことかというのがわかってくることもありますが、じゃあそれで解決というわけじゃないんですね。今度は、どうしても日本語にはならない文章っていうのがあるんです。
人の一生に起こることって、偶然か必然かどっちと思うと聞かれたら、私は絶対に偶然だと言い切ります。だってさ、すべての物事が事前に決められてるみたいな、運命論とでもいったらいいんでしょうかね、そんなの辟易じゃないですか。今日、この日に起こったことは、すべて偶然に起こったことなんです。あなたと会えたのはきっと必然ね、運命を感じるわ、だなんて私はちっとも思いません。
以前
子供の頃、市の図書館にいって、児童書のコーナーをさまよいましてね、好きだったのが海外SFを翻訳した子供向け全集でした。タイムマシンとか地底都市とか水棲人間とか、とにかくいろんなのがあって、古典的SFのエッセンスが全部つまってたんじゃないかなと思うんですね。端から順々に読んでいったはずなんですが、なにしろ図書館ですからね、貸し出されていたりするのもあって、読めてないのもあるはずです。
今日から仕事始めで、私も世間の例に漏れず働いてきました。年末年始の一週間、寝て暮らしていたわけじゃないんですが、それでもやっぱり外に出ると疲れますね。
鶏に関係するものをと思って、バル・ビロの絵本『ガムドロップ号』を探してみたら、ちっとも見つからなくてショック。昭和46年刊だから仕方ないのでしょう。好きだった身としては残念この上ない話ですが、仕方ないのでしょう。
酉年にちなんだものを、ということで、本日はジャン=フィリップ・ラモーの「めんどり」でも。
