アメリカの作曲家スティーブ・ライヒは、ミニマル・ミュージックの第一人者として知られています。ミニマル・ミュージックとはなにかといいますと、極小さな音楽の単位を何度も何度も繰り返して作る音楽のことで、例えばテクノだとかを思い起こしていただけるとわかりやすいんじゃないでしょうか。メロディよりも、リズムよりも、まずはなによりもモチーフがあって、繰り返しのモチーフが折り重なって生まれる、予期しなかったようなリズムやハーモニーのグラデーションを楽しむ。そういう風な音楽がミニマル・ミュージックと呼ばれています。
そういう意味では、『ディファレント・トレインズ』や『エレクトリック・カウンターポイント』はミニマルミュージックぽくはないんですね。
本来的にミニマルミュージックは即興的な要素も持っていて、その時その時の演奏に応じてどんどん変わってしまうし、それにぴったり合わせようとしてもだんだんずれてきてしまうといった、そういう偶然の要素も大切にしています。最初にいった、予期しないようなリズムやハーモニーというのは、こういう偶然生じるようなものを踏まえているんですね。けれど『ディファレント・トレインズ』、『エレクトリック・カウンターポイント』は、そういう偶然性の入り込む余地が少なめ、だからちょっとミニマル・ミュージックぽくはないかなと思うのです。
『ディファレンス・トレインズ』は、インタビューテープから取り出された言葉の断片をもとに構成されたメロディが、録音テープにあわせて弦楽四重奏で演奏されるという、ちょっと特殊な形態を持っています。
そのインタビューテープというのは、戦前の思い出を語るものであり、ホロコーストの経験を語るものであり、そこから取り出された言葉の断片は、汽車の走行音や汽笛とあわさることで一種独特の雰囲気を作り上げます。こうした幾重にも重ね合わされた分厚い音に、弦楽四重奏の演奏が加わって『ディファレント・トレインズ』は完成するのですが、それは一言には語りにくい世界です。
濃厚な雲がもくもくとかたちを変えながらうごめいています。私たちは雲の中を、客車の窓からうかがいながら駆け抜けていく。そうした悪夢のような不気味さが感じられます。黒雲は、光に照らされ鈍く色合いを変えたかと思うと、思い掛けないような美しい錦をうちから吐き出して、けれどそれらの印象は、次々と背景に追いやられていってしまうのです。
次に現れるものも、同じような雲です。けれどそれは間違いなくさっき見た雲とは違っていて、そしてやっぱり後ろへ後ろへと追いやられていきます。雲はどことなく人の顔のようにも見えて、口々に話しかけてくる声は本物です。私たちは頭の中に反響する声を感じながら、耳を傾けるでもなく、ただ聞き流すだけでもなく、堂々巡りに思い巡らす遣る方ない考えにふけっている — これが私にとっての『ディファレント・トレインズ』の世界なのです。
それに比べると、『エレクトリック・カウンターポイント』は随分見通しがよく感じられます。パット・メセニーのギターが多重録音で幾重にも重ねられて、これは黒のベルベットに浮かぶ金色の煙ですね。美しく輝いて、けれどちょっと不健全な匂いもして、和声が折れ曲がるときの美麗さ、小刻みに突き上げてくるベース音の官能性といったら、ちょっと言葉にはできない。いずれも耽溺して、いつまでも包まれていたい世界で、やっぱりこれらは一時の夢なんです。けれど夢は結局覚めるのだから、音楽の終わりで私たちは此岸に引き戻されてしまって、なんだか呆然と恍惚としたまま、またプレイヤーの再生ボタンを押したくなっている。
そんな魅力があるのが、ミニマル・ミュージックなのであります。

最初は四コマ専門誌の一新人に過ぎなかった人が、あれよあれよと人気になって、雑誌の看板になって、CDドラマも出て、なんだかすごいなと傍観してたら、英語版が出る運びになりました。うわあ、びっくり。欧米でジャパニーズマンガが人気というのは心底思い知っていますが、まさか今の段階で『トリコロ』翻訳が出版されるほどに広がってるとは思いませんでした。いや、あるいは出版社が売り込んだのでしょうか。
昔、私の漱石好きを知った人から、なんかおすすめはないかといわれたことがありまして、猫とかはもう知ってると思うし(読んだかどうかは別としてね)、だからといっていきなり『それから』とかをおすすめするのも厳しいかもと思ったので、読みやすく手ごろな小品 — 『夢十夜』をおすすめしてみることにしました。
昔がよかったというのは年寄りの常套句で、実際以上に過去を美化して今を顧みないという恥ずべき態度の表明、もう私は発展も変化もする余地のない、生きているだけの死人でありますよと自白するようなもので、できれば口にしたくない言葉です。ですが私はあえていいたいのです。アニメに関しては昔がよかった。
ああ、私、やっぱり川原泉が好きです。なんというか、シンプルな線で表現される、ちょっと世間に背を向けかけたような川原さんが好きなのです。この世に降りて飄々と戯れする御使いのような人 — 氏の単行本に見える四分の一スペースへの偏愛を隠すことのない私にとって、『小人たちが騒ぐので』は、なににもかえがたい素晴らしい贈り物となったのでした。
古くからの友人同士で、お互いにわかり合っていると思っている奴がいます(それとも私だけ?)。わかり合ってるといっても、ずっとべったり友達というわけでなく、年に一度会うか会わないかだなあ。連絡もほとんどとらない。けれど、そうしたことが問題になることはないんですね。会えば、時間だとかなんだとかは関係なくなる。誰にもそんな人間というのが一人ぐらいいるんじゃないかと思います。
もう、オールドゲームっていいきっちゃっていいと思うのですが、名作と名高い『ドルアーガの塔』、私はこれが大好きです。
日本語でのタイトルは『狂熱のライブ』であるようなのですが、あんまりピンとこないので、英語のタイトルで紹介してみました。『狂熱のライブ』、レッド・ツェッペリンのライブ映像で構成された映画なのだそうで、そのおかげでミュージックビデオとは思えない価格が実現しました。ええと、2004年11月時点で2,100円。というか、他のミュージックビデオもこれくらいの価格にはならないものでしょうか。もうちょっと安ければ買えたのにと思う、実は欲しいのに買えてないDVDというのはたくさんあります。せめて昔ビデオやLDで出ていたものの再リリース版なら、これくらいの価格にしても罰は当らないと思うのです。
私はまっすぐであることに憧れます。まっすぐにものごとを見据えて、決して流されないという生き方 — けれど現実には難しいんですね。智に働けば角が立ちます。情に棹さし流されながら、窮屈に耐えてどこまで意地を通せるか。そこがまっすぐ生きるための要点であるというのに、ところが私は意気地がないものだから、すっかり世間のことは世間のこと、自分には関係ないことなのだと割り切って、あえて世間の求めることを求めるままに片づけるばかりにしています。
私が中国語を始めたのはこの漫画に出会ったからでして、もう何年前のことになりますか、たまたま寄った書店でちらりと見たOffice Youに掲載されていたのでした。そういえば、後日ちゃんとその掲載号を買ってまして、ええと、探してみたら1998年の10月号。うへえ、もう六年前になるんですね。こいつは驚きだ。
ガンダムは出せば売れるということもあるのか、昔からいろんなかたちでゲーム化されてきて、ボードゲームやカードゲームからコンピュータゲーム、最近では
まさに衝動買いをしたのです。CD店、邦楽のフロアに入ったときに流されていた音楽にびびっと引かれてしまい、しばらく呆然と聴いていたかと思うと、やおらレジに近寄って店員を一人つかまえ訊ねたのでした。
『室内』というのは工作社の出している雑誌で、その前身は『木工界』といいました。名前を見れば中身もおおよそ見当がつくと思いますが、木工品などを作る業界の人、職人の読む雑誌です。じゃあ、この『『室内』40年』というのはなにかといいますと、この雑誌『室内』の歴史を追う回想記、工作社の社史です。けれど工作社社長にして著者であるのが山本夏彦翁。ただですむはずがないじゃありませんか。そう、この本は社史にして社史に留まらず、社会史戦後史昭和史建築史、とんでもない膨らみをもった実に恐るべき本なのですよ。
なんでか知らないのですが、最近友人に恋愛相談を持ちかけられておりまして、男性側の意見を求められているといったらいいのでしょうか。けれどそもそも、恋愛そのもののことにせよ男性としての意見にせよ、私に相談するのはどこか間違っているような気がします。
ジプシーキングスのベスト盤はいろいろあって、そこからひとつ選ぶのもなんか迷ってしまうものですが、だったら私はこの『ボラーレ!』をおすすめしたいのです。『ボラーレ!』というのは、ビールのコマーシャルで一斉風靡をしたカンツォーネですね。しかもこの曲の人気は日本だけに留まらないようで、US盤でもUK盤でも『ボラーレ』がベストアルバムのタイトルに上がっているのだから、その人気の程が知れます。
ゴジラにいろいろあるけれど、広く人に勧められるほどの出来といえば、第一作のゴジラしかないと思うのです。戦争の記憶が色濃い時期に作られたゆえか、理不尽な破戒の力に対する恐怖や憤りが画面全体にみなぎって、骨太の筋も迫真の演技も光っています。テーマの正しさにしても間違いなく一級。これが後の怪獣プロレスと揶揄される人気者ゴジラムービーに続いていくのかと思えば、なんだかその足取りが寂しくなります。
『ツレちゃんのゆううつ』、好きでした。ヤングジャンプに連載されていた漫画で、けれど青年誌らしい血気盛んさとかからは無縁の穏やかな時間が流れる小品でした。ちょっと女性的な感性があって、けれど男性的な視点もあって、その中性的な感じが面白く、心地よく読めました。

書店で愛蔵版がでてるのを見て、懐かしくなりまでした。私はこの漫画が好きで、どういう風に話が展開していくのか、毎月毎月楽しみに読んでいたのです。小学生四人組の、いじらしくも前向きな姿やほのかに揺れる恋心がすごく美しくて、もう大切な大切な、宝物みたいな話だと思っています。
私はこの映画でジャン・レノを知って、だからこの人がどんな役をやったとしても、どこかにエンゾを見ようとしてしまうんですね。しかし本来脇役であるはずのエンゾの魅力的なことったら、主役のジャン・マルク・バール演ずるジャックを押しのけてしまっているようではないですか。いや、ジャックももちろん魅力では負けていません。ですが、確かに魅力的ではあるのですが、私には、人懐こさや悲しいまでのひた向きさが一堂に会したみたいなエンゾが主役以上に魅力的に映ったのです。
遅れてきたロックファンである私は、数年前に発見した『Nights In White Satin』に夢中になって、もう実際驚いたというかあぜんとしたというか、オーケストラと共演するロックの美しさ、深遠さにすっかりまいってしまったのでした。
なんだかクラシックゲームが密かな人気のようなので、クラシック中のクラシックといえるゲーム、Wizardryを取り上げるのでした。なにしろ、私が小学生だったころ、初めてドラゴンクエストに触れた時点ですでに古典になっていたほどのゲームでして、なのに今なお愛好者がいるというのですから、その偉大さは私が重ねて説明することもないのかも知れません。
私は長く音楽に関わってたというのに、いわゆるミュージックビデオというものの存在意義を理解しなかったのです。ミュージックビデオというのはPVとかミュージッククリップとかそういうのではなくて、ライブの録画をパッケージにしたものといえばいいと思います。別にレコードがあれば充分だし、映像なんてあっても見ないよ、使い回しも悪くなるじゃんなんて思っていたのですね。
私がこの本を読んだきっかけというのは、フランスの友人が川端と三島の往復書簡集を読んでいるといっていたからでありまして、欧米におけるこの二人の知名度はすごいのだなと感心しました。いうまでもなく川端はノーベル賞作家でありますし、三島も、ノーベル賞こそはとっていませんがかなり知られています。作品も数多く翻訳され広く読まれているのは周知の通り、さらには金閣寺などはオペラにもなりました。こうした背景があるからこそ、往復書簡が翻訳出版されることにもなったのでしょう。

ちょっと昔を思い出させるような懐かしさが漫画全体から漂ってきて、それだけで私は嬉しくなるのですよ。私の育ったところは、ちょっと田舎でけれど実際には田舎ではない — 核家族化の進みつつある住宅地 — という中途半端なところでして、けれど昭和という時代には、道端の神様や彼岸と私らの世界を往き来するなにかが確かにいたようなのです。夜には暗がりがあって、町内にはちゃんと地蔵が祭られていて、それにそうしたものたちの名前が大人の口にのぼることも珍しくありませんでした。
マーゴス・エレーラはメキシコ出身の歌い手でして、歌ってる歌のほとんどは自作であるという、そういう意味では非常にオーソドックスな人であります。シックな雰囲気漂うジャズっぽい作風は、アメリカはニューヨークそしてボストンにてジャズを学んだという経歴から考えれば普通ですが、単なるジャズという感じもしないんですよね。ジャズの雰囲気もよく消化して、シンプルで力のある音楽に仕上げてられているのですから、どっしりとした音楽の土台というのがあるんだろうなと想像させるのです。
もう、いわずと知れたという感じがしますが、そう、松平健の大ヒットタイトル、その名もマツケンサンバです。
昔、コンピューターゲームが今よりももっと一般的でなかった時代、ゲームブックというのが子供たちの間で人気で、もう猫も杓子もゲームブック。いたるところでステータスシートに書き込みしながら、さいころを振りページをめくったものでした。
ウィスキーのCMで力感たっぷりにリベルタンゴが奏されたもんだから日本でもピアソラブームが巻き起こりまして、実はこれは世界的なムーブメントであったりしました。当時、十年くらい前のことになりますが、タンゴの異端者であったアストル・ピアソラがクラシック界においてまさに発見されまして、その鮮烈さは世を席捲しましたね。美しくそれでいて骨太の力強さがある生命力の躍如するピアソラの音楽は、遥かなる叙情性を湛えて聴くものの魂の奥底に灯をともします。
