2007年10月31日水曜日

カルドセプト

Culdcept 10th Anniversaryちょっと、これを聞いてくれ!

武重そして次作。『カルドセプト』は現在、新プロジェクトを進めております。

鈴木開発は僕ら大宮ソフトが、担当しています。

武重ハードはニンテンドーDS。パブリッシャーは、セガさんです。

ほら、私、先月にいってたじゃないですか。心機一転、Nintendo DSあたりで出してくれないかなあってやつですよ。それが思わずかなってしまったわけであります。わー、嬉しいなあ。出るのは来年のいつからしいですが、ほんとその日が待ち遠しいと思います。いやあ、ほんと、嬉しいニュースでありました。

私が、Nintendo DSで出して欲しいといっていた、その理由というのをちょっと引用してみましょう。

ハード持ち寄って通信対戦するのも簡単だし、WiFi使ったオンライン対戦も可能だし。なにより、どこででも遊べるというのは嬉しい。キャラクターやマップをポリゴンで表現する必要なんてないんだし、それこそオリジナルカルドセプト風にドット絵でオッケー。むしろ、私はその方が嬉しい。だから、DSで出て欲しいなあ。カルドセプトの他人の手札が見える仕様はそのままで、けどオプションで手札を伏せられるようになっても面白いんではなくて?

Nintendo DSは外部メディアにデータを書き出せない(オフィシャルではそうよね?)から、ソフトとセプターデータが不可分となり、ちょっとこのへんはやだなあと思わないでもないですが、まあセカンド・エキスパンションでもデータコピー不可の呪いがあったわけですから、仕方がないと思いましょう。それよりもメリットですよ。ハードを持ち寄って対戦可能であることはもちろんのこと、WiFi対戦もできるようになるに違いないと思ってるんですが、そうなると私にとっては初のネットワーク対戦可能カルドになるわけです。WiFiだから場所も選びませんでしょう? それこそ居間で、自室で、さすがに相手のいることですからいつでもというわけにはいかないでしょうが、好きな場所で気軽に対人戦できるというのは魅力であります。だってね、カルドセプトは対人戦をしてなんぼのゲームですよ。残念ながらCPUではぬるすぎるのです。対人戦、負けそうになったら切断するやつがいるよ、なんていいますが、そのへんは自動でハウント状態に移行するとかは無理なのかな。セプターが復帰したらハウントが解けるって感じで。とにかくオンラインが一人でもいる限り続くような仕様になってるとベストだろうとは思うんだけど、そんなにうまくいくもんかどうかはわかりません。

携帯機でカルドセプト、となると、モノポリースタイル — 本腰入れて戦う従来の路線に、携帯電話で展開されたカードバトルスタイル — アナザー・チャプター、もあってもいいのかなと思います。あと、カルドセプトはカードをコンプリートしてからがスタート地点という、導入において多少敷居の高さのあるゲームですから、一見さんでも楽しめるようなゲストモードが欲しいです。ダウンロードプレイ限定でいいんです。数種類の構築済みブックから選べたり、ランダムで押し付けられたり(開いてみるまでわからない!)、初心者相手にする上級者なら全カードランダムでいいんじゃない? ちょうどいいハンデだよ。ろくな武器はいってない! とか、ここぞというときになぜゴブリン! とか、わあわあいいながら遊ぶのも目先が変わって楽しいかも知れないし、もしかしたら苦し紛れの新コンボ発見なんてのもあるかも知れない。とにかく、はじめてカルドセプトに触れる人に、このゲーム面白い! って思ってもらえるようなモードが欲しいんです。そうして目覚めた人の中から、明日のセプターが生まれるとなれば、どんなにか素敵だろうと思います。

いずれにしても、楽しいものであれば幸いです。キャラクターとかはポリゴンじゃなくていいんで、というのも無印カルドの魔女っ子が好きな私です、中途半端なポリゴンはいらん、2D、ドット絵最高! 見栄えは確かに大事だし、カードのシリアスイラストがなくなったりしたらいやではあるんですが、それよりも重要なのはゲーム性です。とにかくこれ面白いからやってみ、と人に勧めてまわりたくなるような出来であれば最高です。

蛇足

サターンではヘッジホッグ、PSではバンディクート、じゃあDSでは配管工が出たりするのかな? かな? こうした、にやりとできるような遊びがあるのかどうか、ちょっと楽しみであったりします。

Xbox 360

PlayStation2

Dreamcast

PlayStation

SEGA SATURN

コミックス

  • かねこしんや『Culdcept』第1巻 (マガジンZKC) 東京:講談社,2000年。
  • かねこしんや『Culdcept』第2巻 (マガジンZKC) 東京:講談社,2001年。
  • かねこしんや『Culdcept』第3巻 (マガジンZKC) 東京:講談社,2002年。
  • かねこしんや『Culdcept』第4巻 (マガジンZKC) 東京:講談社,2004年。
  • かねこしんや『Culdcept』第5巻 (マガジンZKC) 東京:講談社,2005年。
  • かねこしんや『Culdcept』第6巻 (マガジンZKC) 東京:講談社,2007年。
  • 以下続刊

CD

引用

2007年10月30日火曜日

RICOH GR DIGITAL

 トラブルに対処すべく出動していた私、なんとかやっつけてやれやれ事務所に戻ったら、係長が呼ぶんです。ま、またトラブルか!? 正直もう勘弁して欲しいと恐る恐る寄っていったらば、トラブルどころじゃないですよ。なんと、GR DIGITALの後継機が発表されたそうじゃありませんか。わお、そろそろ出るらしいとは聞いていたけど、ついに出たか。見れば、広角単焦点という基本コンセプトはそのままに、画素数を上げ、低ノイズ高画質を目指したという、まさしく正常進化というにふさわしいものであります。この目立った機能アップを目指さないっていうスタンスは、GRのコンセプトが秀逸であること、またそのコンセプトが受け入れられているということを明らかにしていると思います。そして、カメラとしての完成度の高さを雄弁に物語るものであると思います。

GR DIGITALのモデルチェンジがなって、じゃあ旧GR DIGITALは過去のものになってしまうんだろうかと思ったら、なんとファームアップによって大幅な機能追加がなされるのだそうですよ。モノクロ撮影のバリエーションを増やしたほか、より詳細な設定を可能とするなど、これのおかげで新GRにかなり近づくことができる、現行ユーザーとしては大変ありがたい計らいです。さらに驚かされたのは、なんとテレコンバータが出るんですね。35mm換算で40mm相当とのこと、若干広角寄りだけど、準標準、ちょっと興味のある画角ですね。正直なところ、新GRよりテレコンバータの方が嬉しいかも知れません。いや、そりゃもちろんベストは新GR + テレコンなんだと思いますけど。

さて、あえて今まで触れてこなかった新GR DIGITALに追加される機能について。高解像度化とか高画質化は当然あることだと思っていたし、Caplio GX100に搭載された1:1モードもくるだろうと予測していたわけですが、まさか電子水準器がついてくるとは思いのほかでした。写真を撮る時にですね、うまく水平をとれず、結果不安定な絵になってしまい、まずかったなあ、ちょっといやだなあと思うことはたびたびありまして、水準器があったらなあ、そんなことを思ったことは実はあるのです。まあ、実際に水準器取り付けたりはしませんでしたが、おそらく私のように思った人はあったはずで、そしてそうした要望が電子水準器として結実したのでしょう。こりゃちょっとすごいですよ。

当たり前の話ですが、ファームアップでは水準器はつきません。だから水準器が欲しいなら買い足して、という話になるのでしょう(買い足したら、現行GRは常時テレコン装備になりそうな予感)。でも、正直それだけの余裕はないわけで、今の愛機を使い続けることになりそうです。実際、極端に見劣りのするようなこともないわけですし、まだまだ初代で戦えそうです。

参考

2007年10月29日月曜日

あっちこっち

 実は、四コマ漫画であれこれ書くのは非常に難しいのです。これはとりわけきらら系列に顕著で、理由は簡単、気を抜くとどの漫画に対しても同じようなことを書いてしまうから。あるいは、面白いと思っていながらも、その面白さを言語化しにくいということもあるからかと思います。このへん、明確な物語の流れを持った漫画については書きやすく、だってその漫画の持つ面白さの独自性云々をそれほど考えないでもいいですからね。物語を追うことで私の感じたことを書けばいい。しかもありがたいことに、作者の側で物語が独自のものになるよう工夫されてますから、なおさら楽というわけです。と、なんでいきなりこんな愚痴じみたことを書くのかというと、先達て買いました『あっちこっち』という漫画、面白いのだけど、それを思ったままにただ書いても、多分この漫画の独特の味というのは伝わらんと思ったからなのです。

『あっちこっち』は、高校生の男女が過ごす日常を面白おかしく描いた漫画、ってちょっと違うな。日常に似て若干非日常なのりが楽しいというべきなのではないかと思います。主人公は仲間内から朴念仁とみなされている眼鏡男子、伊御さん。彼のまわりには、伊御さんラブラブの小動物系女の子つみきさんと、天然少女姫、マッドサイエンティスト系お騒がせ娘真宵がわいわいと集まって — 、ここでのキーパーソンはつみきであろうかと思います。さっきもいいましたように、つみきは伊御さんのことが大好きで、口では全然そんなことないかのようにいいながら、態度が好きということをあらわにしている、そんなキャラクターなんです。そんなつみきさんをいかに愛でるか、一種それがテーマといってもいいのかも知れません。真宵の策略、伊御さんの思わせぶりにして大胆な行動言動、表向きにはクールを装うつみきはあっさり撃沈させられて、時にはでれでれにとろけてしまい、時には嫉妬、恥ずかしさのあまりヴァイオレンスに走る。照れている様やら羞恥の様やら、そうしたつみきの織り成す景色を楽しむ、これが『あっちこっち』の味わいの一要素、それもかなり大きな要素であると思います。

でも、これだけではないのです。登場人物を整理してみます。飄々としてけれど実はハイスペックな伊御さん、伊御を上回るどころか疑いなくこの漫画における最強生物であるつみきさん、姫は鼻血をともに状況を加速させ、真宵はアグレッシブにチャレンジし自業自得的に自爆する。そしてここに伊御の友人榊が加わることで成立するスーパーな日常。平穏に見せて実際は常にフルコンタクトな毎日、高高度にて繰り広げられる空中戦をさらっと見せて、しかしこれが姫の大どじ、つみきのでれでれで一気に減速、それまでのハイスピードが嘘みたいににやにやの渦に飲まれてしまいます。

この緩急なんだと思うのです。どちらにしてもオーバーな表現なんだけど、その向かう方向が違うからアップダウンが生じて、その双方が際立ちます。これがもしどちらかだけだったら、この漫画の印象はきっと全然違ってたろうな、今感じている振り回されるよな面白さはなかったのかも知れないと思います。

蛇足

アップダウン、緩急でもっとも鮮烈に際立たされるもの、それはやっぱりつみきの可愛さなんじゃないだろうか。なんて思ったりするものだから、ここは姫がよいのだといっておきたいと思います。

  • 異識『あっちこっち』第1巻 (まんがタイムKRコミックス) 東京:芳文社,2007年。
  • 以下続刊

2007年10月28日日曜日

二丁目路地裏探偵奇譚

 表紙を見たときの感想は忘れもしません。うわっ、彩度低っ。白地バックの画面両端に配置されたタイトルは、あくまでデザイン優先、可読性は押さえられ、背景に引っ込んでしまっています。表紙で一番目立つ位置、すなわち画面中央を陣取るアリスにしても、これでもかの黒仕様。めっちゃくちゃ彩度の低い、極限まで色味の押さえられた衣装は、それこそ濃淡の美の世界。そして、これが白背景に映えるのですよ。って、当たり前ですが。なんてったって極端なハイコントラストですもの。むしろ攻撃的といっていいくらいの印象をふりまいて、そしてそれはアリスも同様です。傘のうちから肩越しに見返るその雰囲気も婉然として、金髪ツインテール、大きな黒リボン、クマも濃いつり目に覗く虹彩は赤! そう、赤がこの彩度の低い表紙において非常に効果的であるのです。タイトル一文字目の赤は背景に追いやられたタイトルに注意を向かわせ、アリスの目は射すくめるかのような熱を帯びてこちらに向かってきます。いや、それにしてもいい表紙だわ。私が無類のハイコントラスト好きであることをさっ引いたとしても、売り場にて目を引くことにかけてはなかなかのものでありました。ただこのインパクトの強さが、四コマ漫画を好む読者にどう働き掛けるかなんですが、 — いい方向に向かわしてくれたら嬉しいなあって思うんですが、このへん実際どうでしょう。

さてさて、思わず表紙について熱くしゃべってしまったわけですが、中身もなかなかに悪くない漫画なのですよ。ヒロインは二人、吸血鬼を自称するアリスに敏腕探偵助手を自称するショコラ。この二人、われ鍋にとじ蓋というか、実にいい塩梅のコンビでありまして、アリスとラブラブのハードボイルド神父や生活力とやる気に欠けた探偵所所長を加えての、ナンセンスなコメディが実に楽しいわけですよ。

この楽しさ、面白さは一体なにに起因するのだろう。そんなことを考えてみたのですが、やっぱりそれはアリスの可愛さなんじゃないかと。正直、この漫画が始まったとき、クマも濃厚なきつめヒロインを好きになれるものだろうかなんて思ったものでしたが(私は、一部のロリィタの人が施すクマメイクをいいと思ったことがありません)、連載を追っていくうちに、なんてこともなく受け入れてしまっていました。して、それは一体どうしてなんだろうと考えてみれば、それはいわゆるギャップによる効果が働いたゆえなのではないかと思うのです。

アリス、わがままで尊大な自称吸血鬼。けれどそんな彼女は意外に親切で、家庭的で、有能で、怖がりの甘えん坊で、神父様大好きの、吸血鬼らしからぬ吸血鬼であるのです。この漫画においては、一事が万事そうだと思ってよいと思うのですが、いわゆるパターン、基本的なお約束を反故にすることで生まれる面白さが支配的です。アリスは日差しを苦にすることもなく、十字架もにんにくも平気の平左で、あ、でも心臓に杭を打たれると…死ぬのかな。ともあれ、そんなことで灰になる生物なんているわけないと、劇中世界にファンタジー設定を持ち込んだ張本人からがこうなんです。こんな具合に、約束事を常識で打ち消していく面白さ、そしてファンタジー設定を思い込みか、妄想かと辛辣に否定していく運びもあって、この漫画はそうでないようなふりをしながら、基本、普通の世界の法則に従っているようであるんです。

けど面白さの肝はそれだけで終わるわけではなくて、ハードボイルド神父が吐く、比喩によって過剰に装飾された台詞、これがまたナンセンスで、なにがいいたいのかさっぱりわかんねえよ! ベタはベタで、やり過ぎなほどに追求して、ナンセンスなギャグにしてしまうわけですよ。こうしてこの漫画は、お約束に対しては冷静な突っ込み、常識でもって対処して、方やベタはそのベタが転げ落ちるほどに多用、追求して、こうして生み出されるアンバランスを、崩れないぎりぎりのバランスで見せるんです。

魚眼レンズ通したように歪まされた背景、わざと傾けられる水平、西洋に感じさせて実はまんま日本という舞台、そして癖のある描線で描き出される登場人物たち、そうしたもろもろが安定を破壊する方向に向かいながら不思議と調和しているのが味だなあと。そして私はこの不思議なナンセンス世界がなんだか変に好きなのです。だから、この面白さを共有してくれる人が増えると嬉しいなあなんてそんなことを思っています。それから、実は、この記事の締めくくりは、神父様ばりのよくわからんハードボイルドぜりふで決めようと思っていたんですが、私にはその手のセンスがなかったようで、それがひとえに残念です。

蛇足

ショコラも可愛いけれど、やっぱり一番はアリスでなくって? いや、それにしてもいい表紙だわ。要素を絞り、引き締められた表紙。正直、帯のあおりが邪魔でした。彩度のコントラスト、赤に捉えられた視線は傘の柄を通じてアリスの表情に導かれて、本当にいい表紙です。けど、明度差がきつすぎるから、長時間見てると目がチカチカするんですよね。疲れ目の私にはちとつらく、そんな理由で長く見ていられないのが残念です。

  • コバヤシテツヤ『二丁目路地裏探偵奇譚』第1巻 (まんがタイムKRコミックス) 東京:芳文社,2007年。
  • 以下続刊

引用

2007年10月27日土曜日

とらぶるクリック!!

  ああもう、可愛い、可愛い、面白いってことで、もうどうしようもないんですが、なにが可愛いのかといいますと、『とらぶるクリック!!』ですよ。以前、私はこんなこといっていました。『とらぶるクリック!!』は最初どうにも馴染みづらかった — 。けど後にこの漫画の面白さに目覚めて、遅ればせながらコミックス購入して、しかし、わたくしのばかばかばか、どうして1巻の出た当時、買おうかどうか迷いながら見送ったのか。なんてことがどうも悔いになっているようで、反動ですか? なんですか? 今ではむやみやたらと好きになってしまっているのであります。

さて、私がこの漫画の面白さに気付きはじめた頃、いや素直になれたといったほうがきっと正しい、それはいつだったのかといいますと、第2巻に収録されたなつメロ登場のあたりなのですね。また眼鏡かよって、いやいや、今回はさすがにそうじゃない。いや、ごめん、やっぱりそうなのかも知れない。正直、自分でもちょっとよくわからない……。でも、そうじゃないんだって信じたい。

なつメロ、榎本棗、漫研を飛び出てPC部に流れてきた女。眼鏡、引っ詰め髪、ちょっとツンデレ風の、どうにも素直になれない不器用な女の子なのですが、一見地味でいかにもサブキャラな彼女の果たした役割は大きかった、私にはそんな風に思われるのです。彼女は、一種固定化していたPC部一年三人組に割り込んで、その関係を壊すことなく、おのおのの持つ魅力、個性を際立たせました。とりわけ面白かったのが、さわった機械を壊してしまう琴吹杏珠、ヒロインですが、彼女との関係です。あまりに不器用な棗に対して、空気読めないといっても言い過ぎでない杏珠がぐいぐいと踏み込んでいって、そこに生じる軋轢、すれ違い、けどそれよりも杏珠の素直さに振り回される棗ですよ。そこが極め付けによかったなあと思うんです。

ほら、私も実はそうなんですが、シャイというかなんというか、自分の思うところをはっきりといえない、それどころかまったく逆のことをいってしまうような人ってあるでしょう。本当は混ざりたいのに、声かけて欲しかったくせに、いざ声かけられたらいらないっていってしまう、そういう人です。そこをもう一声、さらに二声あって、仕方ないなあ、そうまでいうんだったら入ってあげてもいい……、となるはずだったのに、杏珠ってやつは空気読めないから、じゃあ仕方ないね、残念って退きやがるんです。ああ、おい、ちょっと待ってくれ、もう少し押してくれたらうんっていったのに……。そうしたやり取りが無闇に可愛らしく、それに杏珠は空気読めないから、ちょっと距離を置き気味の棗をぐいぐい引っ張っていって、部員でもないのに、まだ知りあってちょっとしか経ってないっていうのに、なつメロなんてひどいあだな付けてですよ、それじゃまるで昔からの友人みたいじゃないですか。私はこの一連の杏珠を見て、空気読めない人もこの地上には必要なんだって思いました。天真爛漫で、素直で、ちょっと馬鹿っぽいところもないではないんだけど、この漫画の持つ和気あいあいとした親密さの中心には、杏珠の空気があるんだなあとそんな気がしたんです。実際、こんな子、身近にいたら騒がしいし難儀かもなあって思うけれども、けれどこういう子がいることで成立する空間もあるんだなって、そしてそれはきっとすごく優しい空間なんじゃないかなって、そんな風に思ったんです。

そして、この優しい空間の中で、一年生諸嬢は自分らしさというか、お互いのよさも悪さも出し合って、とんがりながら、助け合いながら、みんな対等な感じでつきあっていて、多分私はそうした雰囲気にほだされたのですね。自然体でいられる関係 — 、人見知りだったり、人間関係に不器用だったり、空気読めない甘えん坊だったりしても、仲間内では素直になれる。すごく居心地のいい、けれど決して閉じられたりしていない、そんな関係が素敵で、見ていてなんだかいいなあって思ったんです。

だから私も、杏珠の天真爛漫さに引っ張られるままに素直になれた口なのかも知れません。優しくて、楽しくて、暖かな雰囲気を感じさせてくれる空間に、知らず引き込まれていたのですね。そしてそれは、私にとって、すごく喜ばしいことであったのでした。

蛇足

なつメロはべらぼうに可愛いのだけれども、それでもやっぱり柚が好き。

2007年10月26日金曜日

ルポ最底辺 — 不安定就労と野宿

 ずいぶん前に、失業者たちを見ると胸が締めつけられる思いがすると、そんなことをいっていました。昨年には、ワーキング・プアに関する特集番組を見て、他人事じゃないといっていました。そして今、自分はただ運がよかっただけなのだなと、自分の身の仕合せを噛みしめる思いでいます。なにが幸運だったというのか。それは家族に恵まれたこと、正規雇用ではないもののなんとか仕事にありつけていること — 。しかしこれこそは本当に運でした。

学校を出た頃、私は、仕事を求めても求めても見つからない現実に心底疲れ果てていました。非正規の、安い仕事にぶら下がりながら、それこそ世の中怨むような気持ちで荒んでいました。なにかましな仕事はないかと、ハローワークにいったりもしたんだけど、そこで目にしたのは、あまりにたくさんの求職者でした。自分のできそうな仕事、条件のあいそうな仕事を、少ない持ち時間の中、破れかぶれな気持ちで選び出し、けれどそのどれもにチャレンジできるわけでなく、せいぜいひとつといったところ。面接を受けて駄目、また駄目というのを繰り返すと、自信なんてちっとも持てなくなるんです。自信がないから、面接で飲まれるんでしょうね。うまく受け答えとかできなくなるんです。悪い循環だったと思います。ハローワークのトイレに入ると、呪詛の言葉がいくつも書かれていて、それを見て自分たちの無力さにまた打ちひしがれて、こうした状態があと少し続けば私は本当に駄目になっていたと思います。

状況が好転したのは、なんかいい仕事ないっすかねー、とことあるごとにいっているのを聞いて、正規じゃないけれど比較的ましな仕事があるよと紹介してくれた人があったからです。本当に運がよかった。あの人とはずいぶん疎遠になったけれど、今でも感謝しています。けど、もしあの人に出会えていなかったらと思うとぞっとします。私は当時はやりのパラサイトシングルだったから、路頭に迷うようなことはなかったろうけれど、あてどもない職探しと挫折の連続に、きっと病んだろうと思います。だから、私は本当に運がよかった。けれど、ただ運がよかったといって安心していていいのか。身の上の危機は去っていないというのに、いやむしろいまだ問題の当事者であり続けているのに。

生田武志の『ルポ最底辺』は、大阪は西成区、釜ケ崎に代表される寄場の状況を、丹念な筆致でつづった労作です。単に資料やデータにあたるだけでなく、野宿者(ホームレスをこの本ではそう呼びます)支援の活動を通して得られた体験や記録、そして自らも日雇労働の現場で体験した事実が紹介されて、まさしく一級のルポルタージュ、タフな現地報告となっています。著者は当事者でありながら、自身の体験の持つ圧倒的な現実感に圧倒されることなく、まるで自分自身を外側から見るような淡々とした表現を守って、しかしまた傍観者となることもないという絶妙のバランスを実現しています。語られる内容は多岐にわたり、野宿者の生活の過酷さ — 、冬期の寒さなど住環境の問題に始まり、彼らの生活を支える労働の厳しさから医療の問題、彼らを食い物にする存在があることが語られたと思えば、本来彼らを守るためにあるはずの諸制度が機能していない、こうした現実がいやというほど紹介されます。これら著者の見て体験してきた事実を知れば、野宿者たちが普段どれほどに誤解されているかがわかろうというものです。誤解のあるために偏見が生じ、そしてその偏見が彼らに向けられることで、またそこに不幸が生じる。最悪の循環があるということが感じられるのです。

しかし、重要なのは、そうした野宿をする彼らの多くは、本人の資質に問題があったからそうした状況に追い込まれたわけではないということです。いうならば、運が悪かった。リストラや倒産などが原因で職を失ってしまった。次の職が見つからず収入がないために、貯金を切り崩し、借金をし、ついに家賃が払えなくなれば住居を引き払うよりなく、野宿となれば、住所のないためいよいよ職を得ることはかなわない。ここにも最悪の循環が見られます。ほんの小さな不幸がきっかけとなって、ドミノが倒れるように最底辺にまで落ちてゆく。私のドミノは、家族が私を受け止め続けてくれていること、仕事を紹介してくれる人があったこと、この二点で止まったに過ぎません。もし私が親元を遠く離れて生活していればどうだったろう。あの時、あの人が仕事を紹介してくれていなかったらどうだろう。おそらく、私のドミノは止まらなかったと思う。行政の提供するサービスは、残念ながら私には役立たなかった。窓口には親身になってくれる人もあったけれど、一生忘れられないようなこともあって、けど重要なのは、親身だろうとどうだろうと、私にとってあれらはなんの有効性も持たなかったということです。

あの時、運のよかった私ですが、次もそうであるかはわかりません。なんの職能もなく年ばかり重ねて、むしろ状況は悪くなるばかり、次こそは私のドミノは止まらないだろうと覚悟しています。そんな私ですから、この本はまったくもって他人事ではあり得ず、自分のおぼろげな不安が妄想なんかではなく、それこそ充分なリアリティをもって起こりえることであるのだと、路上に暮らす彼らの現実は対岸の出来事なんかではなく、それこそ今の私は波打ち際に立って寄せる波に足を洗われているのだと、そうした実感を深めました。それだけに、労働や社会のはらむ問題、 — 非正規雇用の増加やセーフティネットの不備に代表される — 、の解決は急務であるとの思いを新たにして、またこうした問題に無関心であることの危険を思いました。

しかしここでひとついやなこといいますが、この最悪のドミノ倒しは、私のような駄目な人間だけに起こる問題でなく、今この文章を読んでいるあなたにとっても他人事ではないんですよ。人生ゲームの最後には開拓地が用意されていますが、底辺に落ちても逆転狙える開拓地、そうした復活のチャンスを持たないゲーム盤が今の私たちの暮らす社会なんです。そして私たちは、ルーレットの気まぐれによって簡単に転がり落ちることができるんです。そんな馬鹿なと思う人は、この本を読んでみてください。また私の脅しに同意する人も、この本を一度手にしてみてください。この世には希望もあるが絶望もまた深いのだと、そういうことがわかるから。しかし人は絶望の中に希望を生み出すこともできるのだと、そういうこともわかるから。この本は現実の底をうがつかのように深く力強く語る力を持って、読むものの心を揺さぶります。だからあとは、読んだものがこうした万人の問題をどう引き受けるかにかかっている。読み終えたその時が、そのものにとってのスタート位置になるのだと、私はそう思います。

2007年10月25日木曜日

Almost square, taken with GR DIGITAL

Chocolate毎月末には恒例のGR BLOGトラックバック企画が控えていて、私もささやかながらそれっぽい写真を撮っては、公開、トラックバックするよう努めています。もちろんたいした写真撮れるわけでもないから、枯れ木も山の賑わいというがごとき状況ではあるんですが、そんなでもやっぱり楽しいんですよね。もしこうした企画がなかったとしたら、きっと一生撮ろうとしなかった題材っていうのがあると思うんです。その方面への傾きを持たないということもあらば、そもそもそういう発想がなかったということもあって、だからこの企画はすごく刺激的、私の視野や発想を広げてくれるものであると思っています。

そして今月のお題、これもまた私の発想にはなかったもので、けれど今回に関しては参加せず見送ろうかとも思ったのです。なぜか? それは、お題がスクエアであったからです。スクエアというのは、Caplio GX100のスクエアフォーマット、1:1モードで撮られた写真のこと。あー、GRじゃあだめだあ。けどスクエアというのも多義的な言葉だから、それこそ恣意的な読み替えしたらどうだろう、なんて思ったけれど、応募規定にGR DIGITALは、「1:1モード」がないので、スクエアが似合う作品をトリミングして下さいってあらかじめ書いてある。オーマイ、もう駄目だ。

そんなの、ばっさりトリムすりゃいいじゃんかって話なんですが、私は写真の公開にあたっては、no retouch, no trim, no selectを謳ってるから、できれば今回もそれでいきたかった。それがかなわないなら、見送っちゃおうかなあと思って、けどそれもつまらないからなあ。なんとかならんかなと思っていたところ、馬鹿な解決策を思いつきました。というわけで、トラックバック企画『スクエア』に参加します。題して、だいたいスクエアです。

Almost square

2007年10月24日水曜日

篠房六郎短編集 — こども生物兵器

 表紙買いをきっかけにしてはまってしまった漫画家というと、篠房六郎が今のところ筆頭かなあなんて思うんです。これまで何度も何度も書いてきた『ナツノクモ』の作者ですね。けれど、はじめてこの人の漫画を読んだときには、のちにここまではまるだなんて思っていませんでした。面白いなあとは思ったし、特に読み切りの『空談師』は白眉といってよく、派手さはないが静かに深い世界が描かれていて、ぐいぐいと引きつけられるようにして読んだことを覚えています。この読み切り『空談師』は、連載『空談師』や『ナツノクモ』のベースといえるような作品で、リネンのボードゲームを舞台とし、つまりオンラインゲームの世界で起こってることを描いています。ですがそうした仮想の世界を扱っていながら、その向こうの世界に息づくプレイヤーの存在がメインであるのですね。この二重の世界構造ゆえに、読者は存在しないはずのプレイヤーを濃厚に感じることができる。あたかも、漫画の向こうのゲーム世界の、さらにその向こうに、名も知らず顔もわからない彼彼女らが暮らす現実の世界があるのだと、そのような錯覚におちいるのですね。

この独特のリアル感が篠房六郎の持ち味なのかと思うのですが、漫画のテーマが一種まわりくどく表現されているというか、表に描かれる表層とその向こうに広がる世界が、密接でありながら分離的というか、多面的、多層的であるというか。けど、多分これは作者の意図するところではないのだと思うんです。どうしてもそうなってしまうんだという、そういう類いなんだと思うのですね。

『篠房六郎短編集 — こども生物兵器』に収録されるのは、一押しの読み切り『空談師』に表題作の『やさしいこどものつくりかた』と『生物兵器鈴木さん』。『やさしいこどものつくりかた』は表紙にもなっています。あの、鉄パイプを手に血まみれで座り込んでこちら睨みつけてるメイドさんがヒロインです。

鉄パイプでメイドって、一体そりゃどういう取り合わせなんだって感じがしますが、ええと、これで殴るんですよ、主人の頭を。なんだかたまにおかしくなるというか調子の狂ってしまう主人の頭を、鉄パイプでいい感じに刺戟を与えてもとに戻す — 、とか書くとものすごく不謹慎な漫画のように感じられますが、そんなんじゃないです。いうならばどつき漫才みたいなもので、けどこうしたコミカルな表現の向こうにシリアスな事物を配置して、さらにそれらをとおして、人間の心を描こうとしているのです。偽物と本物という問題。私たちはそれらしいレスポンスを返すものに、本物の知性や心、魂、命を思ってしまいますが、しかしそれがただそのような反応をするようにプログラムされているだけだとしたら? 結局はふりに過ぎないのだとしたら、その、人に似て人ではないなにかに対しどのような思いを持てばいいのか。そうした問題を前に立ちすくみ葛藤するのが前述のメイド、シムレットであり、彼女の抱える問題を引き受けるということは、すなわち人の心とはなにかという根源的な問に立ち返ることであるのだと思います。

篠房六郎という人は、非常に馬鹿馬鹿しい漫画を描いたりもする人だけど、けれど根は真面目な人なんだろうという気がして、ふたつの『空談師』や『ナツノクモ』で描こうとしたように、人と人の繋がり、心や思いの問題みたいなことを、自分自身のテーマとして持ち続けておいでなのだろうなと思うんです。そういう視点の見え隠れするところに私はきっとひかれていて、それはつまりは私自身も迷い、悩んでいるものが描かれているからにほかなりません。

ああ、『生物兵器鈴木さん』について書けなかった。馬鹿で他愛もない話なんだけど、少年時代のノスタルジー、照れ臭くて自分の思いをはっきりさせられないとかね、そういうのが感じられて結構好きなのですが、まあまた今度書く機会もあるでしょう。

2007年10月23日火曜日

SF/フェチ・スナッチャー

  このところ、表紙にひかれて買った漫画を連続して取り上げていますが、この表紙買いっていうの、改めて考えると、結構成立する条件が厳しいんです。まず、表紙買いっていうくらいだから、内容に関する知識が事前にあっちゃ駄目なわけで、それに、この作者わりと好きだったんだ、っていうのもちょっと違う。まったく知らないとか、ちょっと知ってるだけとか、それくらいの乏しい知識の中、表紙に引きつけられるままに買ってしまう。やっぱりこうでないといけません。だから表紙買いされる漫画ってのは自然マイナー作に偏りを見せて、だってメジャー作だとどうしても評判とか耳に入ってしまいますから。レビューを読んだ、友達が面白いっていってた、なんだか賞とったらしいよ、などなど、こうなっちゃ表紙買いっていえませんよね。と、こんな具合に条件をどんどん厳しくしていくと、純粋に表紙買いといえるものってほとんどないように思います。ですが、そんな乏しい表紙買い体験の中、これぞといえるものが私にはあるのです。それは、西川魯介の『屈折リーベ』です。

って、『SF/フェチ・スナッチャー』じゃないの? なんて声が聞こえてきそうですが、大丈夫、『屈折リーベ』であってます。

私と『屈折リーベ』の出会いは、かつてJR神足駅前にあった書店で果たされました。今から考えても、不思議な店であったと思います。妙にマニアックな品揃え、特に広い店でもなかったのに、二階の漫画フロアにはこれ!という漫画がやたらとあって、とにかく衝動買いをさせるのですよ。思い起こせば、『しすこれ』買ったのがここでした。『おつきさまのかえりみち』もここでした。だから当然『りんごの唄』買ったのもここだったわけで、この店のおかげで私の視野はずいぶんと広がりました。深みにはまっただけかも知れませんけど。あ、そういえば『こども生物兵器』買ったのもここだわ。いやあ侮れないなあ。ほんと、あの旧店舗には魔法でもかかってたのでしょうか。

『屈折リーベ』はまさしく表紙買いでした。西川魯介という漫画家は名前さえも知らず、だから本当に表紙だけだったのです。ショートヘアの凛々しい女子が眼鏡越しにこちらを見ている。また眼鏡かよ! そうだよ、眼鏡が好きでなにが悪い。こちとら幼稚園に通ってた頃からの眼鏡好き。筋金入りてなもんですよ。だから私は『屈折リーベ』の表紙にあらがうことができず、ふらふらと買ってしまった。この漫画に関しては、以前にも書きました。だから今回は『SF/フェチ・スナッチャー』を取り上げたいと思って、というのも、これ、『屈折リーベ』買った翌日に買ってるんですよね。

『屈折リーベ』と併置されてたんですよ。けどいかな私も、いきなり『SF/フェチ・スナッチャー』買っちゃうほど豪気ではありませんでしたね。レトロSF感、それも多分にパチモン臭さが加味されている、そんな表紙なんです。特撮、それも東宝系のパロディっぽさが匂う表紙、中を見ますとそれ以上に不思議な空気に充ち満ちている。なんせのっけからスクール水着型宇宙人と戦う女子高生ですからね。眼鏡型宇宙人捕り手を相棒に、栗本玻瑠は日夜この地球に潜伏する宇宙人を追うのである! って、真面目に書く内容じゃないよなあって感じ、正直ちょっとあり得ない。

けれどあり得ない設定はまだまだあって、なんと地球人の唾液は異星人たちにとって劇薬であるのだ。だから玻瑠は舐める。下着に、水着に、上履きに身をやつしたホシを駆り出すべく舐めるのだ! レズでフェチの変態という汚名を着せられて、それでもなお玻瑠は戦い続ける。頑張れ栗本玻瑠、負けるな栗本玻瑠。果たして玻瑠の明日はどっちだ!?

もう最高。『屈折リーベ』を皮切りにして、『SF/フェチ・スナッチャー』で深みに落ち込んだ私は、以降、今に至るまで、西川魯介を追い続けています。なんの気なしの衝動買いが、こうまで深刻に影響及ぼすという好例で、いやあ、ほんとこれこそ表紙買いの醍醐味でありますよ。

2007年10月22日月曜日

りんごの唄

 こととね本家で展開しようとしていた表紙で買ったシリーズ、その三は先日取り上げました『フスマランド4.5』、その四は少し毛色が変わって『R. O. D.』。それにしても眼鏡優位だなあ(実は『おつきさまのかえりみち』も眼鏡でした)、というのはおいといて、その二、その一は一体なんだったのでしょう。本来ならその一、その二があってはじめてその三以降が続くと思うんですが、当時私は書きたいもの、書きやすいものを優先して、最初の二冊を後回しにしたのです。というわけで、今日はその二を取り上げたいと思います。その二は、 — 加賀美ふみをの『りんごの唄』であります。

表紙で買ったシリーズこちらを見つめる表紙シリーズでもあるといってました。そう、確かに『りんごの唄』もそうした表紙であると認識していたんですが、久方ぶりに引っ張り出してきたら、ちょっと記憶が違っていました。真っ赤な表紙、こちらを向く女の子の顔が大きくあしらわれている、ここまでは記憶どおりだったのですが、目を閉じているんですよね。三つ編みの少女、マフラーを巻き両の掌を頬にあてている。赤という色がぱっと注意をひくものの、少女の表情はあたかも時が止まったように感じさせるような静けさを帯びていて、力のある表紙でした。

『りんごの唄』は成年コミックです。そのためなのか、恒例の冒頭立ち読み可の措置がとられておらず、購入の時点では内容を伺い知ることはできませんでした。その時、私の得ていた情報はふたつ。ひとつは、この作者が私の講読する四コマ誌に描いていたこと。おばあちゃん子の女の子が主人公のその漫画は、すごく穏やかで、チャーミングで、好きになれそうな空気を持っていました。そしてもうひとつの情報というのは、帯に書かれた惹句でした。名作連載『りんごの唄』復活!!、そしてストーリーテーラー・加賀美ふみをのこの連載作品は、今でもとても哀しくて、今でもとても素敵です。これ読んで、ちょっと悲しい恋愛ものなのかな、まああの四コマの感じなら大丈夫だろうと判断したんです。ですが私は加賀美ふみををちっとも知ってはいなかった。ええ、本当にそう思います。

はっきりいいますと、しくじったって思ったんです。悲しいとあるから、ちょっとは悲しいんだろう、あるいはそれ以上かもと、それなりに覚悟して買ったんですが、予測を軽く上回りました。悲しい話であること、それは確かで、またある種仕合せにたどり着くことも実際なんですが、それにしても陰惨すぎやしないか? 悲しいどころじゃない。どんだけの不幸なんだと戸惑いを隠せず、正直通読するのもやっとでした。

痛ましいのは、設定からも話の展開からも仕方がないんです。ヒロイン、赤井りんご、エキセントリックでどこか捨て鉢な女。主人公高木はそんな赤井に危なさを感じつつも、関係を重ねるうちにだんだんと魅かれていって、しかし赤井の真実を知って背を向けてしまう。高木にとって赤井とはなんだったのか、赤井にとって高木とは? 彼らはお互いに代替可能な存在に過ぎないのか、それともかけがえのないものであったのか、この漫画はただその一点を確かめようとしていたのだと思います。自分を無二の存在として受け止めて欲しいと願い、またそのように誰かを抱き留めたいと、迷って、もがいて、苦しんで、そしてたどり着いた果て — 。あの明確に決着を描かず、余韻を残して閉じられたラストには、語る以上に雄弁な情感が広がっていたと私ははっきり肯って、そしてこの漫画に出会えたことを苦く思うことはあっても、買って損をしたと思ったことはただの一度もなかったと、ここに明確に書きつけておきたいと思います。

  • 加賀美ふみを『りんごの唄』(PEACEコミックス) 東京:平和出版,2003年。

引用

  • 加賀美ふみを『りんごの唄』(東京:平和出版,2003年),帯。

2007年10月21日日曜日

おつきさまのかえりみち

 表紙で買ったシリーズはやらないみたいなことをいってましたが、なんでかそっち方面のスイッチが入ってしまったようで、そう、本日取り上げるのも、表紙買いタイトルです。三浦靖冬の『おつきさまのかえりみち』。残念ながらAmazonに画像が用意されてなかったので、実際にどんな表紙であったかお伝えすることはできませんが、ちょっとサイバーパンク風、 — いや違うなあ。不透明水彩で色付けされたっぽい少し濁って重めの表紙は、レトロさと温かみにあふれていて、実際の話、すごく素敵なイラストレーションに仕上がっています。遠景にはどこか懐かしさを感じさせる町並みが広がり、近くには昭和中期を彷彿とさせるディテールに彩られたガジェットが。金魚が宙を泳ぎ、生身もあればブリキのおもちゃ思わせる外観のものもあって、そしてその中央には青いミニのワンピース(スクール水着モチーフ)を着た少女が一人、行き過ぎようとする金魚に手を伸ばそうとしている、そういう表紙であったのです。

これが本当に素敵な表紙だものだから、レトロな世界を舞台に語られるSF、ファンタジーを期待して買った人も多かったようですね。けど、開けてびっくりですよ、結構ハードなエロ漫画なんです。Amazonみるとアダルト指定されていますけど、実際には成年指定されておらず、そのためアダルトものと気付かず買ってしまう事故が多発したと聞きます。思いがけないエロに、それもロリ色の強い内容にショックを受けたものも少なからずあったでしょう。ですが、戸惑い持て余してしまったケースの影には、これをきっかけとして目覚めてしまったものもあったはずです。

え、私ですか? この本と出会った書店はですね、見本を一冊用意して、冒頭数ページを確認できるようにしていてくれたのですよ。そう、そういう内容であることをわかったうえで買いました。だから私に関しては、知らずに買ったんだ、こんな内容だなんて知らなかったんだ、なんて言い訳はないのです。表紙が好きだから買いました、内容も好きそうだから買いました。実際それがすべてであります。

けれど、もしこれをエロとしてのみで評価するなら、私には非常に厳しいものがあります。基本的に重く、暗く、つらく、痛ましいのです。実際、ハッピーエンドといえるものといったら、冒頭の「ヨトギノクニ」くらいしかないんじゃないか? けど、これにしても終わりに至るまでのシチュエーションが絶望的に痛ましく、確かに内容を見れば純愛なんだけれど、悲しすぎるよ。悲しすぎるのですよ。

こうした悲しさややりきれなさが三浦靖冬の持ち味なんだと思います。愛されない女の子の悲しみがあれば、暴力的な衝動に突き動かされるままに愛する少女を傷つけてしまう……、自責と後悔が描かれて、痛ましい性描写とそれ以上に痛ましいシチュエーション、読んでいてなんともいえない悲しみに包まれるんです。そして私は、エロとしてはひたすらに明るいものが好きだから、そうしたものしか受け付けないから、この人のエロは忌避しつつ、しかしその物語られる情深い世界には引きつけられてやまないのです。だから私はこの人の描いたものが出れば、きっと必ず購入して、やはりその陰鬱な世界に深く身を沈めるのです。

もしこの物語で性描写が控えめならばと思ったことはありますが、それはただ広く人に勧められるからというだけのことで、エロがいけないと思うからではありません。こういう前提をご理解いただいて、この人にもっと光が当たり、広く知られるようになったらよいなと思っています。あなたがもしエロを気にしないという人であるなら、この人のことを知って欲しいと思います。

2007年10月20日土曜日

フスマランド4.5

 ずっと昔のことなのですが、こととね本家におきまして、表紙で買ったシリーズと銘打ったシリーズ更新をしたいものだと思っていたのです。ですが、結局2タイトル扱っただけでストップしてしまいまして、当時は毎日、本やらなにやらの感想を書いていたわけでなく、それで延ばし伸ばしにしているうちに、勢いがそがれてしまったのですね。けれど、もし今、かつてのかなわぬ思いもう一度なんてやってみても、当時と違って買っている本の数もずっと多いし、それに伴い表紙買いも増えているわけですから、やっぱり無理っぽいな、なんて感じがします。

『フスマランド4.5』は、まさしくかつての表紙で買ったシリーズ紹介された一冊で、ですが当時は文字だけの更新でしたから、肝心の表紙がどうであるかをお伝えすることができず、それがちょっとした心残りであったのです。けれど、今は違います。お試しBlogはAmazonの協力を得て、表紙絵を紹介することが可能であるのです。

また眼鏡かよ! だなんておっしゃらないでください。確かに眼鏡ですけど。ですが、ここで注目すべきは眼鏡ではなく、正面向いてこちらを見つめている、その構図なのです。どうも私はこうした目に弱いようでして、そう、表紙で買ったシリーズとは、こちらを見つめる表紙シリーズでもあったというわけなのです。私は、表紙にてこちらをまっすぐに見つめる嘉智子に文字通り魅入られるようにして、この漫画を手にしたのでした。

非常にオーソドックスな少女漫画です。異世界ものといえばいいでしょうか、女子寮の一室、四畳半の和室の押し入れが異世界に繋がっていて、その異世界がフスマランド。いわばおとぎの国、妖怪、魔物や童話の世界の人たちが、勝手気ままに楽しく暮らしている世界です。そしてフスマランドに迷い込んだカチコは、絶世の美女にその姿を変えるのです。

けれど、この漫画のみるべきところは、ともすれば楽しげで、どたばたとしたフスマランドにあるのではなく、あくまでもこちらの世界で暮らし、悩んだり迷ったりしているカチコそして星也にこそあったと思うんです。カチコは星也に憧れていたけれど、星也が心のうちに抱えていた悩みや苦しみには気付いていなかった。カチコがようやく星也の心の真実に気付いたその時は、手遅れ一歩手前。世界に背を向けるように閉じてしまった星也を呼び戻すべくカチコは星也のもとに駆けつけて — 、その場面が本当に素晴らしかった。カチコは星也に呼びかけるも、フスマランドにおける美しいカチコに星也は心を開かない。ゆえにカチコはフスマランドでの姿を捨てるのです。それは自分自身に向き合うことに他ならず、そしてカチコは自分自身を受け入れ、星也を救うにいたるのですね。

少女漫画における一大テーマとは自己を承認するプロセスであるだなんていいますが、それは結局、憧れのあの人に選ばれるというかたちでなされることも多く、僕はそのままの君が好きだよってやつですよ。他力本願といいますか、他者によってなされた承認を後追いするかたちでしか自己承認を果たせないような話も珍しくないんです。ですが、カチコは紛れもなく、自身の力で自己を勝ち取っています。そこがよかった。カチコがかつてのみじめだった自分を乗り越えるラストシーンに物語は集約されて、感動的で、なにより美しかった。そう、確かにカチコは凛々しく美しい女性であるのだと、そう思わせる、屈指の名シーンであったと思います。

  • 大和和紀『フスマランド4.5』(KCデラックス — ポケットコミック) 東京:講談社,1998年。
  • 大和和紀『フスマランド4.5』(講談社コミックスフレンド) 東京:講談社,1985年。

2007年10月19日金曜日

しすこれ — うんっやっぱりコレしかっ!!

  実に私という人間は趣を解さない男でありまして、巷にいうブルマやスクール水着、それらの価値であるとか魅力であるとか、まったくもってわからないのです。ほんと、あれらのどこがいいのだろう、おおっぴらに口にはしないものの、ずっとそんな風に思ってきたのです。けれど、今月の『まん研』読みまして、少しわかったように思います。そう、これはいうならば、ナボコフの小説に表された感情に似ています。アナベルという名の少女、彼女と関係を持とうとするも不首尾に終わった少年時代の記憶に、自分が海岸線のようにまっすぐにのびた四肢と熱い舌をもつあの少女にとりつかれてしまったきっかけを思う — 。ブルマやスクール水着に言い知れぬ魅惑を感じる人たちは、果たされることなく永遠に失われてしまった日々を思い、いわば郷愁に似た感傷を得ているのかも知れないと気付いた思いがしたのでした。

けど、まあ、そんな風に、それこそ他人事みたくいっている私にしても、実際のところ同類です。今月はブルマを中心に展開した『まん研』、フェティッシュへの傾倒を多分に感じさせる漫画でありますが、これとほぼ同一ののりで展開する『しすこれ』を私は所有しているのです。表紙買いでした。ということは、レオタード好き? いえいえそうではなくて、むしろ裏表紙ですね。チャイナ服を手にする体操着姿の真名のかたわらに立つ綾瀬はメイドの衣装を着込んで、ってことはあんたメイド好きか! いやそれも違います。 — 眼鏡ですね。この本の出た当時、まだ更生をしていなかった私は、綾瀬の眼鏡に魅了されたのです。まるで吸い寄せられるように1巻を手に取って私は、躊躇なくレジへと向かったのです。

けど、実際に漫画を読んでみてですよ、最初はちょっと微妙だなあと思ったものでしたよ。コスプレ大好きの真名が、あの手この手で姉、綾瀬にコスプレをさせる、基本これだけの漫画です。ストーリーといえるようなものがあるわけでなく、事件が起こるわけでもなく、妙に淡々としたコメディに参ったなあと思うんだけど、読んでるうちに病みつきになってしまいました。いや、なにね、最初の頃は微妙だなんていってたけど、ぬるいコメディが妙に効いてくるんです。当初姉妹だけだった登場人物が、友人が増え、ライバルが登場し、混沌の度合いが増すにしたがって、面白さも加味されていったといったらいいでしょうか。ちょっとアホのりで、コスプレ対決みたいな方向に向かったかと思うと、あんまりエロさを感じないエロもあって、実に混沌としたバカっぽさ。けどそれがいいんです。

そんな具合にいつしか気に入ってしまっていたうおなてれぴんですから、『まんがタイムきららMAX』にて再会したときには嬉しかったです。ストーリー形式の漫画から四コマに変わって、ちょっと風合いは違うけれど、混沌とした感じ、暴走する人たちがあの手この手でコスプレを強いるみたいな、そういう味わいは変わらずあって、やあ面白いなあと。やってることからしたらもっと派手な印象になってもよさそうなのに、割合地味目に落ち着いてしまっているそのギャップもたまらない感じで、微妙ではあるんですよ、けどその微妙さも含めた不思議具合のマイペースが引きつけるのです。

引用

  • ナボコフ,ウラジミール『ロリータ』大久保康雄訳 (東京:新潮社,1984年),23頁。

2007年10月18日木曜日

I-O DATA USB 2.0/1.1対応 外付型ハードディスク HDC-U/Mシリーズ

 Mac OS Xの新バージョン、Leopardの発売日が確定して、はや数日が経過しました。今度のバージョンアップでは多くの新機能が追加されるものですから、ユーザー間では結構な盛り上がりを見せていまして、けどこれはTigerの時もそうでしたか。Tigerで話題になった機能といえば、コンピュータに保存されているデータをインデックスして検索を容易にしてくれるというSpotlightあたりでしょうか。実際に搭載されてみると、インデックス作成するのにやたらリソースを消費するとか、困ったところもなかったわけではないのですが、けれどこれが出た当初には、結構話題にされたものでした。さて、新OS、Leopardにおける注目機能といったらなんになるのでしょう。正直たくさんありすぎて困るくらいなんですが、この中で特に興味のあるものとなると、一体どれでしょうかね。そうですね……、Time Machineあたりが気になります。

Time Machineというのはなにかといいますと、一言でいえば、バックアップ機能です。外部ハードディスクに、差分バックアップを自動でおこなってくれるという機能なのですが、どうもインターフェイスまわりがずいぶん整理されたようで、わかりやすくなっているのだそうです。一般的に面倒で、また必要なファイルを復元しようにもそれがどこにあるかわかりづらいために、充分に活用されることの少ないバックアップを、まるでタイムマシンで時間を遡るかのような感覚を演出することで、なんか面白そうだ、ぜひ体験していみたいと思わせることに成功しています。

私は以前職場で、Windowsで使える自動バックアップソフトの設定をしたことがあったのですが、あの時は、これで最悪の事態は避けられるだろうという安堵感を得るとともに、できればこいつの出番はないに越したことがないなと思ったものでした。セットアップした環境を復元できるようイメージファイルを作成し、さらに差分バックアップもおこなって、でもやっぱりそれを積極的に使うことは避けたかったのです。だってそうですよね。バックアップなんていうものは、それこそ転ばぬ先の杖に過ぎないのであって、杖があるから積極的に転びたいだなんて思いません。ですが、Leopardに搭載のTime Machineとなると話は違ってきて、ぜひ一度、世代を遡ってみたいと思う。そのインターフェイスに触れたい、経験したいと思うんですね。正直、ちょっとあり得ないことだと思います。

さて、アイ・オー・データからLeopardに多くの製品を対応させる予定であるとの発表があったそうです。そうか、やる気だなあなんて思いながら記事を読んでみたら、USB接続のハードディスクをTime Machineに対応させるぞなんて書いてあって、HDC-U/MシリーズHDP-US/Mシリーズなのですが、これはちょっと気になってきますね。私は外付けハードディスクを一台保有していますが、これはiTunesの音楽ファイルを保存しているものだから、Time Machine用には使えません。だから、余裕ができたら一台買わないといけないなあと思っていたんです。そうしたら、この発表でしょう。ちょっと魅力的に感じてしまいましたよ。なにより、興味のある機能に対応させますという、そこがいいなあと思って、だからいずれこれのポータブルでないほうを買いたいなと思います。

2007年10月17日水曜日

グリーン・レクイエム

  こないだ職場の人と雑談してまして、遺伝子組み換え作物について話してたはずなんですが、途中から遺伝子組み換え人類の話になりまして、そういえばと、先日のイベントでいってた馬鹿話を思い出したのでした。その馬鹿話っていうのはなにかといいますと、『ガンダムSEED』なんですが、あのアニメに出てくる人の髪の色っていうのは、演出であるとかなんとかでなくて、まんまなんだそうですね。なんか、台詞にピンクの髪ってのがあったとかいいますね。見てたその人は、あれって映像上の表現じゃないんだ! ってたまげたらしいんですが、でもねよくよく考えたらSEEDの登場人物って、遺伝子改造を受けたコーディネーターが中心なんですよね。ということは、そのピンクの髪っていうのは遺伝子改変の結果だったんだよ! みたいな話をしまして、けど日本では古来から緑の黒髪っていうじゃないですか。そういえば、昔、緑の髪を持つ女性が出てくる小説を新井が書いていましたっけ。話していたその人曰く、読んだはずだけど内容を思い出せない。そうなんですよね。私もこの本持ってるんですが、中身思い出せない。ほんと、どんな内容だったっけ……。

そうした話をしていたのが先週末のことでした。そして、今日、私がちょいとお邪魔しました施設にですね、たくさん本が、漫画が用意されておりまして、私こういうの見るとチェックせずにはおられないんですが、いやあ、あったのですよ、『グリーン・レクイエム』。しかも漫画版。多分文月今日子だったと思います(まさか複数タイトルあるとは思ってなかった)。へえ、漫画になってたんだと思って手に取って、そのまま読みはじめてしまいました。頭からがっつり読んだわけではなくて、ぱらぱらとめくりながらの粗読みですが、けどだんだんと思い出してきて、そういえばそういう話だったっけ、で結末はどうだった? なんて思ったところでタイムアウト。おおう、残念。ラストは次回に持ち越しか。けど、本当に不思議なくらい内容忘れているのが意外です。ヒロインが髪に葉緑体を持つ植物性の人間(?)だったってことしか覚えてなくて、ピアノが出てくることも忘れてたし、研究所とかも忘れてたし、植物に影響することも忘れていました。

読んだときに、わりと面白かったけれど、文体含め雰囲気が趣味じゃないなと思ったことを思い出します。出た当時にはそれが受けたのかも知れないけれど、私が読んだときは大学在学時ですから十年くらい経ってますね、やっぱりなんだか受け入れがたいと、変な少女趣味といったらいいか、作られた感じ、これは当時の言葉でいうブリッコだな、ちょっと気色悪いと思ったことを告白しておきます。またこれはSFという触れ込みだったと思うんですが、けど読んだ感じSFとは思えなくて、SFっぽい設定や状況は出てくるけれど、せいぜいファンタジー、それもライトファンタジーだと思った。今でいえばライトノベルとしてひと括りにされる感じだと思います。面白かったけど、ちょっとなって感じです。けど、その後読んだ続編は、こりゃどうだろうと思ったんですから、やっぱり正編はいけてた部類なんだと思います。

漫画になれば、そうした独特の臭みはなくなりますから、少女漫画的という別種の空気を纏うわけではありますが、それは割合受け入れやすくて、やっぱ小説と漫画だったら、漫画の方が荒唐無稽設定を受け入れさせやすいのかな。そしてラブストーリーが、しっかりとしかしさらっと展開して、なんか矛盾したこといってますが、重くなりがちな展開でも、さらりと表現しやすいといったらよいでしょうか。小説のコミカライズとして、うまくいっていると思いました(といっても、原作をまったくといっていいほど忘れてるんだから、説得力ないね)。

この小説と漫画の相性のよさというのは、『グリーン・レクイエム』の持つ少女漫画的空気もあるのかも知れません。漫画的な雰囲気、ライトさが、実際の漫画表現にもよくマッチしたという好例なんじゃないかと思いました。いや、説得力全然ないんですけどね。