2007年11月15日木曜日

広辞苑

 『広辞苑』の第6版が出ますね。2008年の1月11日発売だそうですが、果たしてこれを買ったものか。ちょっと迷っています。前にもいったことありますが、私は子供の頃から『広辞苑』をメインの辞書として使ってきて、慣れというものでしょうか、いまだに『広辞苑』なんです。正直、『広辞苑』ばかりが辞書ではないぞとあちこちからいわれていて、私も実際そうだよなあと思ってはいるんですが、買う辞書といったら『広辞苑』ばかり。そりゃ駄目だよなあ。これしか買ってないから、辞書の比較なんてできやしないと、そういう悪循環にあるんです。

 けど、買っていないのは冊子としての辞書だけで、電子媒体となれば結構いろいろの辞書を使っているんです。国語辞典だけにかぎっても『新辞林』、『大辞林』第3版、これらはegbridgeに付属してたものですね。それと、Leopardには『大辞泉』が入ってます。これら全部使ってるのかといいますと、少なくともegbridge付属の辞書は使っています。付属の辞書ビューアには『広辞苑』第4版も追加していて、複数の辞書で語義を確認してなんてことは、やっぱり普通にやっていることなんです。

私は学生だった頃に『広辞苑』の第5版を買いましたが、正直これは失敗でした。失敗っていうのは、第5版が駄目っていうんではなくて、その形態です。私は第5版を冊子で購入したのですが、今となってはこれは使いにくいんですね。悲しくなるほど使っていません。例えば私が、コンピュータ使わず手書きするような人間だったら違ったでしょう。机に向かって、原稿用紙なりにペンだか鉛筆だかでがりがりと書きつけている、その傍らには『広辞苑』。絵になります。けど実際は、コンピュータに向かってテキストエディタに文字打つ日々であるわけですから、どうにも冊子の辞書の出番はなくて、それ以前に辞書置くスペースさえありゃしない。そりゃ駄目ですよ。折角の『広辞苑』も宝の持ち腐れになるってもんですよ。

だから、もし次買うなら電子版かなと思っていまして、そして『広辞苑』はついにDVD-ROMに。第4版では鳥の鳴き声が入っていた程度だったのが、第6版ではクラシック音楽や民謡まで収録し、さらには動画まで入っているんだそうですよ。けど、これハードディスクにコピーしても使えるのかな? いや、だって辞書にドライブ占拠されるっていやじゃんか。まあそんな頻繁にマルチメディアデータとやら参照するようなこともないだろうしいいんだけど、できれば丸ごとディスク上に置けるようだといいなあ。

『広辞苑』DVD版にはことといLightというビューアが同梱されているそうですが、多分私はこれを使うことはないと思います。よっぽど便利だったら別ですけど、普通の出来ならegbridge付属のビューアで充分です。複数の辞書を串刺しで検索できるのが便利、語義を知るにはやっぱり辞書ひとつでは足らんと思うこともありますからね。egbridgeのビューアでは人名や地名、季語、作品名といったものを絞ってひくことはできないと思いますが、別にそういう機能はなくても困らないし(実際、過去にそれらを使ったことはほとんどない)、だからもし『広辞苑』買っても、データこそは新しくなれど、その使用感は変わらずといったところかと思います。

で、問題は買うのかどうかってことなんですね。冊子の版は特別定価なんてのがあったりするようですが、DVDに関してはそういうのもないみたいだし、別に第4版で困ってるってこともないしで、本当、どうしたものか迷います。

  • 新村出編『広辞苑』普通版 東京:岩波書店,第6版;2008年。
  • 新村出編『広辞苑』机上版 東京:岩波書店,第6版;2008年。
  • 新村出編『広辞苑 第6版 DVD-ROM版』東京:岩波書店,第6版;2008年。

2007年11月14日水曜日

LaCie d2 Quadra Hard Drive

こととね本家でもお伝えしましたが、先日購入したiMac用に、新しくハードディスクドライブを買いました。というか、本体到着以前に注文していました。このタイミングで買ったのは、ひとえにTime Machineを試してみたかっただけであるのですが、それだったらBoot Camp試すためにWindowsも買えよとかいわれそうですが、Windows用ノートを持っているから、それはいいです。それにどうせWindows動かすなら、デュアルブートじゃなくて仮想環境でやりたいです。ParallelsとかVMwareとか。って、今日はそういう話ではないのでした。

Time Machineを試したい一心で買ったみたいにいっていますが、ただ試したいっていうだけだったらきっとこんなに急いで買ったりはしなかったと思います。なのに、それでも買ってしまったのは、Time Machineがバックアップソリューションであったからだと思います。ローカルのデータをバックアップし、いざというときに備える。なにしろ、その時がいつ訪れるかなんてわかりませんからね。それこそハードディスクなんてものは、いつ何時壊れるかわかりません。壊れてから、ああ、バックアップとっておいたらよかったと思う。そういう状況を仕事上何度も見てきて、だからバックアップを簡単に使いやすくしましたという触れ込みのTime Machineには期待していたのです。それこそ、Leopard搭載のどの機能よりも楽しみにしていたと、そういって間違いありません。

なのでiMac注文に引き続いてハードディスクも注文して、そしてそれがなぜLaCieだったのかというと、FireWireで繋ぎたかったからで、驚いたんですが、今国内のメーカーでFireWireを付けてるハードディスクって見当たらないんです。もっとちゃんと探したらあったのかも知れませんけど、ざっと見たくらいでは見付けられなくて、だからApple Storeも扱っているLaCieを選択したのです。d2 Quadraにしたのは、FireWire付きで手ごろなのがこれだったからっていうだけ、そんなにたいした理由があったわけじゃありません。

FireWireで繋ぎたいと思ったのは、USB2.0に比べFireWireの方が速度で勝るらしいからというのが一点。もう一点は、FireWireの方がマシンへの負荷が低いと聞いたものですから。そして最後に、もうUSBの空きがないんです。ハブ使えばいいだけの話ですが、どうしても本体直結にしたいものがあったものですから、追加のハードディスクはFireWireに決めたかったのです。

さて、LaCieのQuadraですが、これ、想像以上にボディが頑丈で驚きました。鋳物ですか? 金属ボディのディスクドライブって、結構ぺらいのを想像していたんですが、全然そんな予想とは違っていて、めちゃくちゃ重いし、うわあすごいのきてしまったなあと、ちょっととまどいました。これってホームユースじゃなくて、事業者とかをターゲットにしてるんじゃないかって。けど、頑丈であることに越したことはありません。これはこれでわりと気に入っています。

LaCieのd2シリーズは、専用のラックを使うことで、四台横積みにできるのだそうですが、まあ今は一台しかないから普通に立てて使っています。本体の上下に溝が付けられていて、ここにレンチでこれまたずしりと重い足を付けてやるのですが、結構な安定感が得られます。Time Machineでの使用に関しては申し分ないという感じで、ちょっとディスクのアクセス音はごりごり大きいように思いますが、常時アクセスしているわけでもないから特に気にしません。あんまりハードに書き込み読み出ししているわけでもないからか、それほど熱を発しているようでもなく、普通の使い方において問題の出るようなことはなさそうだ。ちょっと高めだったけど、悪くはなかったとそういう印象です。

あ、そうそう。付属のCD-ROMにアプリケーションが入っているのだそうですが、私はそれらは使ってないので、どういうものかはわかりません。ケーブル類は全種付属(eSATA、FireWire 800、FireWire 400、USB)していたので、しばらくケーブルに困ることはなさそうです。

2007年11月13日火曜日

武者武者道中ティラの介

 なんか、双葉社さんが粋な計らいしてくださったものですから、私の方でも、ÖYSTER、二日連続で取り上げたいと思います。どういうことかといいますと、以前『Nintendo Kids』という雑誌に連載されていた『武者武者道中ティラの介』が『光の大社員』と同時発売、なのだそうでして、私、この連載のこと知りませんでしたから、ちょっと興味があったのですね。ずっと以前にいったことがあったと思いますが、私は作品につくというよりも作家につくタイプのファンでして、この作家いいなと思ったら、過去作品に遡りたくなる性質があるんです。そんなわけで『ティラの介』は渡りに船でした。よし、なんだ、『風のタクト』も買っちゃおう!

『ティラの介』はキッズ向け、さらに恐竜のお侍さんが主人公ということで、やっぱりちょっと心配しまして、ほら、対象年齢ってものがあるじゃありませんか。私はわりと低年齢向けでも読んじゃいますが、けどやっぱり限界というのもあると思います。もしあまりに『ティラの介』が低年齢層を対象にしていたらば……。けど、これもやっぱり杞憂でしたね。後書き読めば「低年齢向け」に徹し切れなかった点は、こちらの力不足と認識不足、反省してしておいでのようなのですが、そのおかげといっていいのでしょうか、私のようなとうの立ったものでも楽しく読める漫画に仕上がっていました。全体にはシンプルで楽しい活劇、私の知っていたÖYSTERではちょっと見られなかったようなのりがあって、意外というか若いというか、いや、これが少年向けってことなのかな? そして、やっぱり端々にちょっとシュールだったり、ひねったような、いや表現はあくまでストレートなんですけど、そういうおかしみもありまして、買ってよかった、読んでよかった、そういう実感の得られる漫画でした。

さて、ここからまた馬鹿な話。

結局、この人の描くヒロインっていうのはとてつもなく魅力的なんですよ。おきゃんで明朗、わりとしっかり者、ほんでもって結構ピュアなところもあって正義漢。いや、ヒロインに正義漢はないか。いや、ヒロインにかぎることでもないか。

この作者、ÖYSTERは、『光の大社員』の時から思っていたんですけど、真面目でまめでまっすぐな人なのかなあなんて、そんな感じがするんですが、さっぱりした気質っていうの? とか思ってたら実は人情派みたいな? いや勝手に思ってるんですけどね。でも、漫画の登場人物見てましたらさ、そんな風に感じてしまうんですよ。ヒロインのスズシロもそうだし、ティラの介もそうだわね。なんかみんないいやつそうで、けど真面目一辺倒のこんこんちきなんて風は一切なくて、人間臭さっていうか、人の完全じゃないってとこが出てるように感じられて、そんなところがすごくいいなあって。だから私がこの人の漫画、ひいてはこの作者を好きだと思うのは、漫画という表現をとおして感じられる人柄みたいなものもあってのことかなって思っています。

この、まっすぐで真面目そうで、けどお茶目だったりやんちゃだったりもするって雰囲気は、キッズ向けとしてはなかなかによかったんじゃないですか。余韻とかっていわれると私もよくわからないけど、安心して楽しんで帰ってこられるみたいな、そういう空気はすごくよかったと思います。

あ、そうそう、これいっとかなくちゃ。お蕎麦が食べたくなりました。明日のお昼はお蕎麦にしよう。

引用

2007年11月12日月曜日

光の大社員

 普段は四コマなんて置いていない書店なのに、なぜか二冊入荷していた『光の大社員』。買ってしまいました。というと、ちょっと嘘ですね。別にその本屋に入ってなくっても買うつもりでしたから、なに買った書店がちょっと変わったってだけの話ですよ。とにかく今日寄った最初の書店で見付けて、どうもこうもなく買ってしまって、それはそれだけ早く読みたかったってことだといっていいかと思います。毎月の『まんがタウン』でかかさず読んでるというのに? 第1巻収録内容にしても、余さず読んでいたというのに? そう、読みたかったんです。なにをおいても早く読みたいと思ったんです。

そして、これがまた面白いんです。どこが面白いかといわれるとちょっと困ります。言葉やロジックを越えた面白さがあるんです。ストレートに変化球を投げ込んでくるとでもいったらそれっぽいでしょうか。真面目な顔をしてどこかずれたことをいって笑わせる芸というのがありますが、それをきっぱりとメリハリ付けてはきはきやっている感じなのです。結果として表現は恐ろしくナンセンスなものになって、はまればちょっと我慢できないほどに鮮烈。電車の中で読んではいけない、人前で読むのも避けたほうがよい。けど、この面白さは誰かに伝えたくなる、誰かと共有したくてたまらなくなるんです。ぬううッとか、『大社員』ファンならきっとこれだけで笑ってしまうはずで、しかもこの笑いの手法は伝染するとでもいうのか、日常のひょんな拍子に自分の口から出てしまいそうで危なくってしかたがないんです。破壊力そして伝染性をもった、シンプルにしてシュールな日常ギャグが、とにもかくにも強烈。描写はむしろスタティックなこの漫画が、こんなにもダイナミックであるのはなぜだろう。そう自問してしまうくらいにインパクトがあるのです。

けど、実はちょっと単行本で読むことを心配している節もあったのでした。単発のギャグが鋭い漫画って、まとめて読むと微妙だったりすることってありますから。けど、これはまったくの杞憂でした。まとめて読んでも面白い。というか、連載では気付かなかった長距離のパスなんてのがあって、そうか、あの時のネタを継承しているんだ! とはたと気付けばなおさら面白さはいや増すわけです。いやはや、私はなにを心配していたんだろうと、自分で自分がおかしくなります。

ここからは、馬鹿な話。いや、さっきまでのもたいがいだったけど、これから下はそれ以上。一応警告しましたからね。

私はどうも眼鏡をかけた女性が好きなのですが、そうですね、秘書のちはるさんのことです。いつもふざけている社長をしかってばっかりのちはるさん、ああ私もあんな彼女にしかられたいものだなあと、世の健全な男子なら誰もが思うところでありましょうが、そのちはるさん、なんとオフでは眼鏡オフ。しかもそれがべらぼうに可愛いってどうよ!

かくして、私は眼鏡必須ではないということがわかりました。いや、眼鏡にはもう何年も前からこだわっちゃいないので今更なのですが、一応はっきりさせておきたいかなって。

ついでに。主人公光とそのライバル伊達の先輩であるたまきさん。この人がまたどえらい可愛くって、ちょっといたずらっぽいんだけど、やっぱり先輩だからか年上の余裕みたいのが見え隠れしてもう最高だ。それに基本温厚ほがらかなのに、しばしば副部長に厳しくしてたり、後輩たちの無軌道ぶりに驚きながらもクールに突っ込み入れたりして、とにかく表情豊か。横長テレビの猫を見て、猫はちょっと太ってかわいくなってたの!!って、かわいいのはお前だーッ。って、ごめんなさい。最近疲れがとれないせいか、今日はちょっとどうかしてました。すいません。

  • ÖYSTER『光の大社員』第1巻 (アクションコミックス) 東京:双葉社,2007年。
  • 以下続刊

引用

  • ÖYSTER『光の大社員』第1巻 (東京:双葉社,2007年),99頁。

2007年11月11日日曜日

FRONT MISSION ― THE DRIVE

 『FRONT MISSION DOG LIFE & DOG STYLE』が思いのほかに面白かったものだから、前作というべきか関連作といったほうがいいのか、『FRONT MISSION ― THE DRIVE』も読んでみたのでした。作者は『DOG LIFE & DOG STYLE』に同じく太田垣康男で、ただ作画が違います。とはいっても、あまり気になるものではありませんでした。両者ともに緻密にしっかりと描くタイプの画風だから場の雰囲気をよく伝えて、ただ違うとすれば、『THE DRIVE』の方が多少泥臭さを感じさせていたかなと。いや、これは欠点といってるのではなくて、この漫画においてはむしろ武器であったと思っています。密林における少人数でのゲリラ戦、自分のための場を組み立て、ヒーロー然と活躍して見せる暁隊長の重厚さがよく表現されていたと思います。

『DOG LIFE & DOG STYLE』はゲーム『フロントミッション』の舞台を膨らませながら、社会情勢ひいては戦争という現実に関わらざるを得なかった人間を描こうとするかのような、そういう感触がありましたが、だとすれば『THE DRIVE』はまったくもって逆であるといっていいのではないかと思います。確かに『THE DRIVE』においても、ハフマン島入植の風景であるなど、FM世界を広げる想像の豊かさは見られますが、けれどフォーカスはそこには当たっておらず、そう、フレームの中心には遊撃部隊を率いる男一匹暁隊長がどしんと立っているのです。戦争のリアルさよりも、戦闘において圧倒的な強さを発揮するヒーローものとしての爽快さが持ち味。すべては男暁の強さを見せつけるために用意されているかのようであります。

例えば、冒頭、敵歩行戦車(クリントン型?)に単騎絶望的な戦いを強いられている兵士の描写などがそうで、狭いコクピットの中、吐瀉物排泄物にまみれながら戦うという、人間の泥臭さ、極限に追いやられれば格好良さや華麗さなんてはぎ取られてしまう — 、そしてこれが前線の現実なんだぜといいたげなる一連のシーケンスの後に、我らが暁愚連隊の登場です。これが、とんでもなく強い。圧倒的といっていい強烈な強さを見せつけて、彼らの戦場には件の兵士がまみれた現実の泥臭さなど微塵も関係しないのだと告げるかのような幕開け。そう、オープニングの時点で、この漫画はファンタジーであると明確にされるのです。読者は、彼のために用意された舞台にて、華麗に、果敢に、過激に戦う暁の雄姿を見て喝采を送ればいい。そして、このヒロイックな戦闘の様というのは、『フロントミッション』というゲームの一種側面であるのです。

以前、いっていたことですが、FMではキャラクターが育ちすぎるのですよ。突出して育ったパイロット、彼彼女を戦場に投入すれば、面白いように敵は片づいて、まさしく彼らのための舞台といえる、そういう場が出現するのです。下位中位のパイロットが苦戦している現場に駆けつけては、華麗に敵を屠っていく。か、かっこいい! たとえ敵に取り囲まれたとて、返り討ちにしてやる、かかってこい! てな、そんな感じ。だから、暁隊長の強さはあり。というか、まさしくFMの戦場というにふさわしい活躍で、おっさん、やり過ぎ、とは思うけど、それが許されるのがFMなんだもの。素直に、かっこいいわといってしまいます。

FMは多様な武器が用意されていますが、いまいちそのメリットがわからないショットガンや火炎放射器、そういった武器の見せ場が用意されてるのがまた面白かったと思います。私はそのビジュアルの面白さを味わうために、必ず火炎放射器装備のバンツァーを用意するようにしていますが、だからなおさら味わい深かった。一巻もので、ちょっと短かった嫌いもあるけれど、逆に全速で走りきれたということもあろうから、『THE DRIVE』はこれでよかったのだと思います。むしろ、彼らの活躍をもっと見たいなあと思った、その一点でこの漫画の面白かったことを伝えられればと思います。

  • 太田垣康男『FRONT MISSION ― THE DRIVE』studio SEED作画 (ヤングガンガンコミックス) 東京:スクウェア・エニックス,2007年。

2007年11月10日土曜日

ママさん

 以前山田まりおで書いたとき、水島さんからくらオリの『ママさん』面白いですよと教えてもらいまして、ちょっとずっと気にしてきました。そして、先月、ついに『ママさん』が単行本となって発売されて、買ってみて、読んでみて、確かに面白い。これまで読んできた山田まりおとはちょっと違うのだけれども、面白さの核にあるものはやっぱり山田まりおだとうなずけるもので、らしさを維持しながらも新鮮な見せ方をしてくれるというところに、この人の実力というものを感じたように思います。

『ママさん』は、血の繋がらない母と息子を描いて、若くて美しい母、そしてそんな母にほのかな思いを抱く息子。ある種、王道といえるシチュエーションであると思います。私がこの漫画に新しい山田まりおを感じたとすれば、おそらくはこの王道でしょう。クールでちょっとシリアスな色を見せる息子アキト、彼を見ている限り、この漫画がいつもの山田まりおらしさに染まるようには思えなくて、むしろ彼の迷いのしっとりと切なく甘美であることに私の興味は傾きを見せるのです。とはいえ、やっぱりこれは山田まりおだから、そうした傾きばかりに浸るというのも無理な話で、やってくれるわあと笑いっぱなしになることも少なくない。こういう多面的な読み方ができるというのは、『ママさん』の魅力であると思います。

やっぱり山田まりおだと感じる、その要素とはなんであるのか — 。それは、的確な変な人表現であると思います。基本的に山田まりおの描く人物は変な人であるとか、迷惑な人であるとか、そんなんばっかりなんですが、そうした持ち味はこの漫画にも健在なんです。ヒロイン和美さんの常軌を逸したマイペースもそうといえるかも知れませんが、そんなのはまだまだ序の口で、極め付けはお隣でありアキトの同級生でもある若葉の母親であるといっていいかと思います。基本的に、彼女を出すと落ちるんです。それくらいの強烈さを持っている、雰囲気は実に昭和、世に言うおばさんなるものを濃縮したようなキャラクター、こういっちゃあなんですが、思春期の少年が自分の母親に感じる恥ずかしさっていうんですか? そういうのを如実に感じさせてちょっと見てていたたまれない。ああ、山田まりおはわかってるわー、そういう思いににやりとしますね。

変わった人はまだまだ出てきて、それら一人一人はちょっとあり得ないくらいの変さなのですが、そのありえないというのは程度の問題で、変さの質においては、ああ、こういう人っているよねと思わせるに足るリアルさがあるんです。そんなやつおらへんで — 、けどああいうタイプの人はいるよね……、みたいな感じ。性的なものを徹底的に忌避しようとする玉美だって、あそこまでじゃないけど実際にいる。若葉の母親や小池の母親にしても、ああいう人はいる。玉美の息子に関しては確実にいる……。若葉や小池の母親は、息子娘の目から見た母親、つまりさっきもいった思春期の少年少女特有の自分の母親への視線がフィルターとなって、常よりもなお過剰な表現になっているってだけの話。そうした表現の巧みさが、山田まりおの持ち味を決定づけているのだと思います。

変な人表現は主に母親たちが担当しているからか、高校生サイドはわりと普通の展開を見せたりして、小池あかりの恋心とその作為なんてのはさりげなく効いていていい感じです。かと思えば、若葉なんかはひどい目に遭わされっぱなしで、けど彼の宿命というべきか、ああいうネタは私大好きです。玉美さんと一緒に、とことんまで突き抜けていただきたいものだと思っています。そして、巻末特別編にはやられました。ずるいよ、山田まりお。なんか、じんときちゃったじゃんか。

私はこの人のこと、天才肌のギャグ作家だと思っていたんですが、とんでもない、多彩な表現力、多面的な魅力を持った、まさしく地力のある人であるんですね。恐れ入る次第です。

蛇足

血の繋がらない母と息子 — 、まさに王道、なんていっていましたが、山田まりおは、血の繋がらない父と息子 — 、まさに王道、な漫画も書いているんですね。山田まりお、実に多彩!

こ、こっちもちょっと読んでみようかなあ。

  • 山田まりお『ママさん』第1巻 (バンブー・コミックス) 東京:竹書房,2007年。
  • 以下続刊

2007年11月9日金曜日

ひいばぁチャチャチャ!

 久保田順子は『おこしやす』以来、いい風を捉えていらっしゃるようですね。『おこしやす』が受けたのは、京都という土地に残る風物やしきたりの向こうに、最近では感じにくくなった昔ながらの関係を見付けてしまうからかなって、いわば京都という異郷にノスタルジーを感じるからだと思うのですが、だとすれば『ひいばぁチャチャチャ!』の魅力というのはなんでしょう。曾祖母とひ孫の女ふたりの暮らしの景色を描いた漫画です。派手さはなく、むしろ穏やかな時間の流れを楽しむような漫画で、けれどただ穏やかというだけではないと思います。

それは、曾祖母とひ孫が互いに思いあっている暖かさのためかなと思うのです。ひいおばあちゃんはやっぱりひ孫のさゆりが可愛くて、さゆりのためにといろいろしてくれる。そして、さゆりもひいおばあちゃんが大好きで、時には心配し、時には助けになりたいと思って — 、こういう肉親の情というものがベースにあるから安心できる、そしてそうした暖かさが穏やかさに相まって、この漫画を読んでいる私を嬉しくさせるのだと思います。

これがベースだとすれば、表にはひいおばあちゃんとさゆりのジェネレーションギャップのおかしみがあって、けど世代の違いがただ提示されておかしいというのではなく、意外に気の若く、いろいろと新しいことにチャレンジし、さらにはさゆりの彼氏にも接近してしまっているようなひいおばあちゃんが可愛くて面白いんですね。しゃんとして、いろいろ知っていて、そして優しいおばあちゃん。私の祖母はもう亡くなってしまいましたが、子供時分、祖母に会うときはいつも嬉しかったなと思い出して、そういう懐かしさが再生されるようなのです。

思い出がこの漫画の価値を決めるのかといわれれば、そういうわけではないと答えます。けれど、少なくともこんなだったらいいなと思うような理想の関係があって、そうしたよい関係が紡ぐ暮らしの楽しさがなんだかすごく心地いいのです。

2007年11月8日木曜日

リトルプリンセス — 小公女

 私はわりと古い人間で、最近の話題、集英社文庫が大宰の『人間失格』の表紙を小畑健に書かせてみたってやつ、結果的に大当たりとなったわけだからそれはそれで意義深いことだと思いながら、どこかに釈然としない感情を抱えていたのです。大宰という文豪の作品に漫画家ごときのイラストなぞを、なんてことはさすがに思わないんですけど、なんか古典ものはポップになっちゃいやだと思っているようなのですよ。そんな私の傾向は高校生の時分にはもうはっきりとしてあって、まだバブルの残照が色濃い時代でした。角川の出していた漱石の文庫、表紙がわたせせいぞうだったんですね。なんてこった! いや、おしゃれで悪くはなかったんですけどね、けど私の買ったのは岩波の文庫でした。私は意固地な、つまらない人間なんです — 。とかいいながら、書店、児童書のコーナー、平に積まれた『リトルプリンセス』を見て、表紙にひかれるままに買ってしまったのですから、ああなんと私の首尾一貫しないことよ! 人間とはかくも矛盾をそのうちに抱えて生きるものなのですね。

 『リトルプリンセス』というのは、かつては『小公女』と訳されてた本ですね。それが、装いも新たになった。ちなみに、青い鳥文庫の旧版の表紙は全然違っていました。申し訳ないけど、この表紙だったら買わなかったろうなあ。きっと私は、偕成社あたりを選んだろうと思われて、そうなんですよ。基本的に私は保守的なのです。児童書となると、偕成社だとか福音館だとかを選びたがって、ちょっと昔っぽい雰囲気、そういうものを求めたく思っているようなのです。

でも、青い鳥文庫を買った。しかも表紙が決め手となった。訳者は曾野綾子。名前に覚えあり、この時点で躊躇はなくなって、そしてこれが私のはじめての『小公女』となりました。 — 実は、名作劇場とか見てなかったんですよ。だから、ミンチン先生とかそういう名前が出てきても、それがどういう人であるか、まったく知らなかったのです。そもそもなぜ彼女が小公女、リトルプリンセスと呼ばれたのかさえも知らず、まさしくまっさらな気持ちで読むことができました。

そして、ちょっと感動してしまいました。

真っ当な筋、善い行いと悪い行いがわかりやすく対比されていて、主人公は一貫して善き人であることを求められる。実に児童文学らしい、というかバーネットらしいというべきかも、そういうお話でありました。けど、こうした素直さ、まっすぐさっていうのはむやみやたらと効きますね。ミンチン先生はひどい人! 彼女のセーラに対する扱いったら! これを、十九世紀当時の福祉の問題と見るか(現実はもっと過酷だった)、あるいはこういう物語が与えられた良家の子女について思いをはせたものか、それはある種自由であるとは思うんですが、けどここで語られているような問題、人はどのような境遇にあっても驕らずくじけず、高貴であらねばならないということ、弱きものがあれば助けの手を差し伸べるということ、noblesse obligeについての諭しがじんわりと効いてきますね。こうした物語は、高い階層における家庭教育に役立ってきたのだろうなと思わされて、私なんかは野蛮な子供時代、決して裕福な家庭にあったわけではないですからね、なんだい結局ハッピーエンドなんだろ、なんて思ったりしそうになりますが、こういう僻み方する時点でもう失格なんだろうなあ。いや、私は基本素直だから、そんなこと思いませんでしたよ。というか、もうたいがい大人ですし。

けど、大人であっても、セーラの境涯の変転にはやきもきするところがあって、児童書を読むというのは、大人の判断を捨てきれないまでも、子供の頃のような感じ方を取り戻す体験であるのだなとつくづく思います。先ほどもいいました、ミンチン先生に対しては憤慨しました。セーラとベッキー、アーメンガードの途切れぬ友情にはなんだかほろりとしました。逆境にあっても凛々しさそして優しさを失わないセーラには私自身がはげまされるように感じたものだし、そしてあの悲しい夜に起こった魔法のような出来事にはわくわくと楽しさをつのらせて、そして奇跡のような巡り合わせにはほっとした気持ちでした。その時々の感情がいちいち素朴で、純粋で、ああ私もかくあらねばなるまいなと思ったのです。セーラの立派な振舞いに心打たれたパン屋のおかみさんがそうであったようにです。

ノーブレスオブリージュとはいいますが、決して高貴であるとはいえない私にしても、できることはあるのだろうと思う、そんな読後感があって、それは最終章「アンヌ」の残した印象によるのかも知れないと思っています。幸いで、そして将来へ向けての広がりを持った、そういう終わり方です。そして、私たち大人は、セーラのなそうとしたことが真に達成していないことをよくよく知っているはずなんですね。

だから — 、といえばあまりに理想的すぎるように感じてしまいますけれど、現実を前に忘れてしまいがちな理想を思い出させるために、児童書はあり続けるのかも知れません。そうでなければ、大人が児童書を読む意味などないではありませんか。なので、私はそのだからの先を模索しなければなるまいと思っている最中なのです。

2007年11月7日水曜日

あさぎちゃんクライシス!

 『あさぎちゃんクライシス!』は、エキセントリックな作者が描いた、エキセントリックな漫画です。もちろん登場人物も皆そこはかとなくエキセントリックで、でもあさぎちゃんは最初それほど変わり者でもなかったはずで……、感化されたか。この漫画の主人公は、タイトルにもあるようにあさぎちゃんなんだけれど、存在感というか、キャラクターの特異さでいうと、やっぱり河野先生が一番主人公らしいのではないかと、そんなことを思ってしまうのです。河野先生、大学生であさぎちゃんの家庭教師。男前なんだそうだが、持ち前のエキセントリックさが全部ぶち壊していると思います。趣味は東洋医学、鍼灸の知識を振り回しことあるごとに実践しようとする危ない人なんだけれども、この漫画を読んでいる限りでは、鍼灸の実践を口実にあさぎちゃんにセクハラするのが趣味なんではないかという気が……。『あさぎちゃんクライシス!』とは、そういう漫画であります。

といいきっちゃったら、ちょっと嘘になるんですが、だってあさぎちゃんは河野先生にツボ押されるの嫌がってないから、セクハラにはならない — 、じゃなくて、別にこの漫画はそうしたセクハラめいた、といったら語弊があるけど、そういう要素を売りにしているわけではないんです。じゃあなにが売りなのか。エキセントリックでしょう。河野先生のエキセントリックがまず最初にあって、先生に振り回されるあさぎちゃんを楽しむというのがまずひとつ。それが次第に、あさぎちゃんとその友達二人との、微妙にはずれていく会話の模様を楽しみ、また河野先生とその友人二人との、微妙に暴走しながらおかしくなっていく会話を楽しむ。そうなんですね。やっぱりエキセントリックなのです。エキセントリックな三人組は次第に接近して、今では互いに混ざり合いながら、また違ったおかしさを醸し出して、中学生(途中高校に進学します)と大学生の、ややもすればぐだぐだになってしまうやりとり、そこに面白さがあるんだと思うんです。だから、多分徹夜明けとかに読んだら、めちゃくちゃ面白いんじゃないだろうか。私はまだ試したことないけど、そんな気が非常にします。

けれど、『あさぎちゃん』のおかしさって、多分に作為的。彼らのエキセントリックさっていうのは、エキセントリックを演出しているところが感じられて、そういう意味においては、この漫画にはいわゆる天然はいないのだと思うんです。まあ、天然だから体にいい、じゃなくて、面白いっていうわけでもないのは周知の通り。特に弓長九天に関してはそうで、『さゆリン』でもそうでした。どこをどうとっても冗談なんだけれど、どこまで本気だかわからないといった、曖昧な領域に生じるおかしみ。『さゆリン』ではそうした要素はヒロインであるさゆりに発していたのですが、『あさぎちゃん』では登場人物がそれぞれに得意な曖昧領域をもって、せめぎあっているのだと思います。突っ込みを入れようとなにをしようと、彼らのマイペースのりは止まらない。対話が成立しそうでしない、かといって破綻するでなくぎりぎり維持されている、そういうグレーゾーンに迷い込んで面白がれる素養のある人には、きっとこのうえなく楽しい漫画であるのではないかと思います。

さて、のっけから散々エキセントリックといいまくっていますが、この漫画においてもっともエキセントリックなのは、疑いなくあさぎの母であると思うのですが……、どうでしょう。これに関しては、おそらく皆様ご同意くださるのではないかと思います。

2007年11月6日火曜日

FRONT MISSION DOG LIFE & DOG STYLE

 以前、『アーマード・コア』のコミック化に対して、これが『アーマード・コア』ではなく『フロントミッション』だったらよかったかも知れないなんていっていました。あまりにストイックであるACではなく、FMならこうした成長物語も充分に内包できるだけの膨らみがあるんじゃないかって、そういうことをいいたかったわけです。そして、多分それはあながち見込み違いではなくて、先日見付けた『FRONT MISSION DOG LIFE & DOG STYLE』、これが実によくできているんですが、『フロントミッション』というシミュレーションゲームの漫画化にして、ただの漫画化ではないなと、そんな風に思わせるものであったのです。FMの世界、設定、歴史もろもろを、ただ利用するだけでなくてよく膨らませている。ああ、入魂であるなあと、そんなことを思わせる出来でありました。

『フロントミッション』はゲームとしてはシミュレーションでありますが、別の切り口から見ればロボットものであります。戦場にて巨大なロボットを駆り、敵部隊を打ち破る — 。そうした性格を持つFMを漫画化するにあたり、あえて戦争の当事者を主役にしないというのはちょっとした驚きで、FM、懐深いなあ、というのが正直な感想でした。主人公はハフマン島に派遣された特派員。ハフマン島とは、二大連合体がぶつかり緊張高まる、まさに火薬庫といえる土地であり、そして紛争の火ぶたが切って落とされた — 。これって、第1作のシチュエーションそのままじゃないですか。そうなんですよ、本編では語られなかったバックグラウンド、社会情勢というものをここに描いて、ありそう! というリアルさをぷんぷんさせているのです。そして、そのリアルさというものは、イラクにおいておこなわれた戦争を想起させ、平和な状況に浸って安穏と暮らしている私たちに対する皮肉、当事者となりえないことを知っている人間の傲慢さをあげつらうんですね。うまい、うまいわ。

戦争を、巻き込まれたものの視点から描こうとした「戦場の透明人間」、兵士として戦場に赴く男を描いた「防人の詩」、どちらも独特の雰囲気、ありそうな感じを匂わせて、漫画としてすごくよくできていると思いました。ロボット戦を描きながら、ともすると抜け落ちてしまいがちな、その背面にある人間を描こうとしていて、そしてそれが嘘っぽくならない位置に落ち着いているのです。ただ、そうした描写がうまいために、どうしてもこもらない現実味、アクチュアリティの薄さが際立ってしまうのが残念で、惜しいですね。けど、この漫画に真実味がこもってしまったら、正直きつくて読んでられなくなると思う。だから現状のままで、エンタテイメントにとどまってるほうがいいのかなと思ったり、ほんと私ってやつはとことんわがままです。

『DOG LIFE & DOG STYLE』が、ここまで自由にFM世界を描くことができたのは、『THE DRIVE』があったおかげなのかも知れませんね。私はこれ読んでいないのですが、あおりを見る限り、期待されるべく、期待されるような内容を持っているようで、そしてその内容というのが、おそらくは広く受け入れられるだけの質を備えていたのでしょう。だから、ちょっと読んでみたい。読んで、それから『DOG LIFE & DOG STYLE』を再読してみたいなどと思っています。しかし、それにしてもFMはよく育ったものですよ。ゲームとして設定を積み上げてきた、その成果のひとつがこの漫画かと思うと、たいしたものだなあと、心の底から思います。

  • 太田垣康男『FRONT MISSION DOG LIFE & DOG STYLE』第1巻 C. H. LINE作画 (ヤングガンガンコミックス) 東京:スクウェア・エニックス,2007年。
  • 以下続刊
  • 太田垣康男『FRONT MISSION ― THE DRIVE』studio SEED作画 (ヤングガンガンコミックス) 東京:スクウェア・エニックス,2007年。

2007年11月5日月曜日

銀河鉄道の夜

  本日、タイトルこそは『銀河鉄道の夜』ですが、実質『DS文学全集』の続きと捉えていただくのがいいのではないかと思います。いやね、面白そうというのなら、口先だけじゃなくて実際に触れてみなよ、っていう声が聞こえたような気がしまして、それで電器店に顔を出してみたんです。買ったのか!? というとそうではなく、ほら、店頭にDSステーションってのが置いてあるでしょう。そう、DSダウンロードサービスですよ。今一押しの『DS文学全集』なら、きっと体験版が用意されてるはずだって思ったんですね。そしたら、ドンピシャ。ありましたよ、ありましたね。『DS文学全集』から4タイトル、ダウンロード可能になっていたのでありました。

して、そのタイトルとはなんだったかといいますと、芥川龍之介『羅生門』、太宰治『人間失格』、樋口一葉『たけくらべ』、宮澤賢治『銀河鉄道の夜』であります。なんと、全部持ってるよ。参ったな。『羅生門』なんて、あの下人が門に上がろうとするとき、太刀が鞘走らないよう押さえて云々というくだり、諳んじるほど読んだものよのう。樋口一葉読んだのは、大学生の頃でしたか。あの連綿の文字の流れる様を思わせる文使い、ありゃあ美しかった。とここまで書いて、『人間失格』は読むには読んだけど、あんまり覚えていないな。大宰にかぶれた時期があったんでこざんすよう。そんときに、文庫手当たり次第に買ってきて、片っ端から読んだら、中身がいまいち区別できなくなってしまって、ああ、また読もう。近々読もうと思います。

今回、私のダウンロードしてきたのは、宮澤賢治の『銀河鉄道の夜』であります。今更説明する必要もないほどのタイトルでしょう。私はこれを、子供向けのなんかで読んで、その後新潮文庫を手に入れて読んで、ついには全集に手を出して読んで、そんだけ読んでてまだ読み足りないんだ。いや、足りないってことはないですけど、でもね、本って読んだらそれで足りるってもんじゃないでしょう? 特に、宮澤賢治みたいなものはなおさらで、読めば充足します。けれどまた時に触れたくなる。本にせよ、なににせよ、素晴らしいものっていうのはそんなもんじゃありませんか。ええ、なにか機会があれば触れたくなる、そんな魅力があるんです。

『DS文学全集』は、思っていたよりも好感触でした。読み込まれたデータを開くと、左側に文庫を思わせる表紙が写って、そこには帯までついている。笑っちゃうのは、その帯なんですが、表紙めくったら、ちゃんとカバーと帯の折り返しがあるんですよ。なにこの凝りよう。くすっと笑ったけど、これって、DSをただの電子ブックリーダーにするんじゃなくて、なるたけ本の本らしさを残そうとしてのことですよね。正直、好感触でした。表紙めくってのタイトルページも凝ってて、実に文庫らしさ感じさせる趣です。『銀河鉄道の夜』は『DS文学全集』の第89巻なんですね。それに、文庫のマークが桐でして、ほら花札の。任天堂っていったら昔は花札やらトランプ作ってたメーカーで、桐の札にはメーカーの名前が入ってるのが常だから、任天堂、花札とくれば、桐が思い浮かぶというもんです。いかすわあ。こういうちょっとした遊びを忍ばせてくれてるところ、小憎らしくていいですね。

読んでみた感触は、悪くないです。もっとレスポンス悪いかと思ってた。それこそ、うまくページをめくれない私の乾いた指先を思うと、確実に一ページずつ繰れるこちらの方がいいのかも知れない。ページめくるのに十字キーが使えるから、片手でホールドして、そのまま読める。満員電車で片手は吊り革つかんでみたいなシチュエーションだと、絶対こちらの方が読みやすいと思います。文字も見やすいし、ルビもよく配慮されているし、ちょっと一行あたりの文字数が少ないという嫌いはありますが、これに関しては仕方がないでしょう。そりよりも、ゲーム機で、あの液晶のサイズで、読書しているという感覚をようも出したもんだと、そこに感心したいと思います。

あと、『DS文学全集』は、ちょっと高齢の人にもいいかも知れません。文字サイズを大きくできるんです。大活字本とか、あるにはありますが、探すの大変だし、すべての本にあるわけでもないし、けど、『DS文学全集』ならとりあえず100冊+サプリメントに関しては大活字で読めるわけで、これは悪くないなと思います。

コンピュータに長けた人なら、好みのビューアで青空文庫を読むというのもいいでしょう。文字の大きさ自在だし、タイトル数も段違いだし、書見台気分でゆっくり吟味しながら読書というのは贅沢な体験でしょう。でも、誰もがコンピュータ使うわけでないし、となると、DSのようなプラットフォームの優位、利点が出てくるのかなと。DSに詰めて帰ってきた『銀河鉄道の夜』に興味を示した母を見て、そんな風にも思ったのでした。

2007年11月4日日曜日

DS文学全集

 お友達ががっかりしていましてね、なにがっていいますと、任天堂の『DS文学全集』のラインナップですよ。なぜ森鴎外のドイツものが未収録なんだと、漱石にしても『夢十夜』がないのはどうしてなんだと。気持ちはわかります。鴎外のドイツものといえば『舞姫』が特に有名かと思いますが、確かにこれが収録されてないというのは意外な話で、ほー、思い切ったなあ。なんて思います。でもまあ、選ぶっていうのは大変なことですからね、きっと泣く泣く削ったというものもたくさんあったはずで、『舞姫』あたりはその代表格なんじゃないかなあなどと思います。あ、そうそう、『夢十夜』に関しては確かにそのようで、サプリメントに含まれています。

気持ちはわかるといいました。そうですね、やっぱり私にも思い入れみたいなのがありますから。大宰に関しては『富嶽百景』があるからいいかなって感じもしますが(私は大宰ではこれが一番好きです)、やっぱり『駆け込み訴え』はなくってね、まあこれは入らなくても仕方がないって感じもしますけど、『女生徒』もないですよね。まあいいかって気もしますけど。

漱石ではどうかというと、九作も収録するこたあないだろ、などと思いつつ(猫と坊ちゃんに関しては、どちらか一方でいいんじゃないかな)、『倫敦塔』はさすがに入らんよなとか、『幻影の盾』も仕方がないか、って、私の好みはやたらマニアックだな。でも『硝子戸の中』は欲しかったような気がします。

とまあ、こんな具合にきりがない。

昔、新潮が百冊選んでCD-ROM媒体で電子ブック詰め合わせを出したことがありましたが、そうした電子ものに対する本読みの評価ってなんだかだいたい辛いなあ、なんて思ってきたのですが、『DS文学全集』にたいしてもどうやらそういう嫌いがあるようで、けど、そういう不満って、むしろ期待なんだろうと思います。電子ブックというものに期待をしつつ、それでも本という古い媒体にとらわれて、それでもやっぱりこうした新しそうなものがでたら気になって仕方がない。そりゃ、こういうのを実際の本と比べちゃいかんですよ。本はやっぱり紙を束ねたあれが読みやすい。けど、かさばるとか場所塞ぎとかそういうデメリットもないではないから(切実です)、こうしたハンディにして収録数も充実というものが出たら、期待しちゃいますよ。

私は、今ではそれほどでもありませんが、やっぱり本が好きでして、azur通して青空文庫読んだりしていましたが、やっぱり紙の本の方が読みやすく、最近azurは起動さえもしていないなあ。でもそれでも電子媒体による読書というものの可能性は拭うことができず、もっといいインターフェイス、もっとダイレクトに反応してくれるようなデバイスが出たら、その時こそは本の優位が崩れるかも知れないと思っています。

でも、できればその日がこなければいいなあと思ったり? わがままなものですよ。

あ、そうそう、まったく関係のない話。iMac買って、常時アクセスポイントが用意されてる環境が整いました。パネポン、復帰してますので、また出会いましたらよろしくです。

2007年11月3日土曜日

iMac (Mid 2007)

 本日、iMacが到着しました。私にとっては5台目のMacintoshにあたります。昼過ぎからセットアップを開始して、夜になろうという時刻には、もう問題なく使えるようになっていました。もちろんOSは10.5 Leopard。といってもプリインストールではないので、同梱のUp-To-Date Kitでアップグレードしてやらなければいけません。と、ここまで書いて疲れ果てました。いやね、やっぱり一日コンピュータの前に座り込んでるわけですから、たいがい疲れますよ。なので、今日はあんまりいっぱいは書かずにおこうと思います。そうしないと、こととね本家の更新とバッティングしかねませんしね。いや、バッティングしようが気にせず書いていくとは思いますけど。

一日iMacを使ってなにが疲れたかというと、目ですよ。画面が大きくなりました。今までのiBookなら、視界の中にディスプレイがあるという感じでしたが、iMacとなると、視野いっぱいに広がるディスプレイですからね。まだ新しい液晶の、強すぎるバックライトも厳しくて、だから輝度は最低にまで落としました。けど、それでもまだ明るいんですよね。サングラスでもかけましょうか。いや、冗談なんかじゃなくて。

(本当にサングラスをかけました)

目が疲れるのには閉口しますが、でもまあこれをiMacのせいばかりというのも酷でしょう。しかたのないものと思って、サングラス&ヘッドホンの怪しいスタイルでやっていこうと思います(これが本当に怪しい、iSightで確認したら、逮捕されても文句いえない感じでした)。いずれ蛍光管もへたりますから、その時のくるのを待ちましょう。って、劣化を待つというのもなんかいやな話ではあるなあ。

CPUの処理速度が格段に上がり(Core 2 Extreme 2.8GHz)、メモリも4GBに増強、これまでならもたついたようなことでも機敏に動作して、実にストレスフリーです。まだ広くなった画面には適応しきれていませんが、24インチの広さをフルに使えるようになれば生産性も上がるんじゃないかなあと期待されて、例えばこうしてBlogの記事を書くときもですよ、ブラウザウィンドウとエディタのウィンドウを並べておくことができるわけです。今までなら、どうしても重なってしまうので、Command-Tabでもって切り替えてやらないといかんかった、それがなくなるんですね。ほんと、ありがたいことだと思います。

とりあえず感じたことを書いてみましたが、使い続けるうちにもっといろいろ思うところも出てくるかと思います。それは、またこととね本家で紹介していきたいと思います。

2007年11月2日金曜日

そんな2人のMyホーム

 なんか今日は憑物が落ちたように穏やかな気分でして、なんでなんだろう、毎日がこんな穏やかさに包まれていたらいいのになあと、そんな風に思っています。そして、今日はなにで書こうかと、ペーパーバッグをのぞいてみれば、樹るうの『そんな2人のMyホーム』が見つかって、これ、『まんがタウン』で連載されている漫画なのですが、キャッチフレーズは有能大和撫子。天才肌の彫刻家を父に持つ舞が、そのハイパーさでもって日常を彩っていく、そんな四コマです。

その感触たるや、まるで日だまりのよう。暖かな日差しを受けながら過ごす、穏やかな時間の流れに似て、この多幸感はすごく心地がいいのです。基本的には、娘溺愛父と娘の織り成す日常どたばた系、父娘ともに、ちょっとあり得ないほどのハイパーさで、普通のことでさえも極めて高いレベルでこなしてしまいます。でも、本当ならそういう大げさを楽しむものであろう漫画が、控えめな和装の美女とストイックな芸術家というキャラクター造形も手伝ってか、あんまりどたばたした印象はないのです。むしろあとに残るのは、今の日常をよりよく生きようという朗らかさ、そしてその明るさの向こうにある切なさの影なのだと思います。

切なさというのは、これが父一人子一人ものであるということに由来していて、亡くした妻を、母を、時に偲ぶ話があるんですね。ちょっとしんみりします。この漫画は連載でも追ってたんですが、単行本で読むと正直格別で、切ないねえ。これほどに切ない漫画だったかと、そのことに驚いています。

私は、単行本読むまで、この漫画における時間の扱いがどうであるかに気付いてなくて、その折々の情景を描くタイプの時間の経過しない漫画と思っていたら大間違い、誕生日が過ぎれば、二十歳だった舞もひとつ年をとって、そうなんですよ、時間が流れているんです。そして、この漫画には時間が凝縮されているような、そんな感覚があって、過去に流れた時間を今にしっかりと、それこそ抱き込むようにしてつなげています。そんな濃密な時間をこの父娘は寄り添うようにして生きている。今を今として精一杯に生きながら、今に過去を思う人たち。ああ、切ないね。なんでこんなことに言い知れない切なさを感じるんだろう。私はそんな自分の心の動きが不思議で、こんなに暖かで心地の良い楽しさに触れながら、しんみりとした思いの湧いてくることに、情というもののおかしさを思っています。

けど、やっぱり基本は楽しく明るい、そういう四コマです。有能だけどどこか足りない二人は、父の友人で取引先でもある丸井にサポートされたり、凶暴なチャボ、鯉に守られたりしながら、またちょっと気になる男性もあって? これら決して多くはない登場人物から、情愛といった類いの思いが導かれて、豊かな広がりをみせています。そしてここにこまやかな描写に支えられた情緒の深さが加わって — 、心地よさの源泉はこうした積み重ねのうちにあるのでしょうね。いい仕事であると思います。

  • 樹るう『そんな2人のMyホーム』第1巻 (アクションコミックス) 東京:双葉社,2007年。
  • 以下続刊

2007年11月1日木曜日

サイコスタッフ

 水上悟志という漫画家はなんだか妙に味のある人で、最初はちょっと微妙かなあなんて思ったりもするんですが、読んでるうちにそれとなく好きになってるっていうか、癖に取り込まれてしまうっていうか、本当に不思議な感じなんです。持ち味は、力の入ってないファンタジーテイスト、公園にいくと天使に会える、けどおっさんみたいな、微妙に外した設定をぶちかましてきて、こういう味は『サイコスタッフ』においても健在。超能力者に宇宙人、ちょっとマッドなサイエンティスト — 、ベタであるとか今更だとか、そんな評価を振り切るような勢いが感じられるじゃないですか。それこそ二周くらいして逆にかっこいいみたいな位置に着けていると思います。

けどね、こんな豪華な面子を用意して、ストーリーも表現も淡々としてるのはなんでなんでしょう。主人公が枯れてる、親父も枯れてる。じゃあ熱いのは主人公をスカウトしにきた梅子だけか? でも梅子もちょっとずれてるからなあ。多分ですけど、この人の漫画には、一般にいうシリアスのパターンが欠けているんです。こうすりゃシリアスになる、こうすりゃ鬼気迫る、読者ははらはらして手に汗握り、話もきっと盛り上がるというパターンをあえて外してるとしか思えない。それは作者の好みかも知れないし、そもそものスタイルなのかも知れないけれど、一種独特の筆致で、どこかが抜けていて、どこかがずれている、けれど生真面目で朴訥とした、そんな水上悟志のシリアスを追求するかのよう。ストレートに描かれる登場人物の内心そして主張は、ゆったりと緩まされた心に気付けばするりと入り込んでいて、そうか、なんか淡々としてつかみあぐねていたお前さんだけど、そんなことおもっとったんか、普段そんなそぶり見せないくせに、突然あらたまって、実は、みたいに打ち明けてくれたみたいな — 、そんな染み方をするのがたまらないのです。癖になるんですかね。だからか、なんか好きになってしまうんですよね。本当、不思議な感じだと思います。

『サイコスタッフ』の裏テーマは1話1パンチラだったのだそうですが、表のテーマはやっぱり生真面目なのかな、才能と努力、それだと思うんですが、最近は努力とかはやらんでしょう。それこそ、天賦の才みたいなのを喧伝することが多い、DNAとかなんとかいっちゃってね、けどこの漫画では、努力することにも価値があるんだ、泥臭くとも努力して勝ち取ったものっていうのが本物なのだと、そんなことをいいたかったんだと思います。一握りの天才だけがこの世の主人公なんじゃない、凡人でも自分の望むものを手にしようとあがいて、もがいて、苦労して、そんな君の姿は誰よりもかっこいいんだよと、そういう声が聞こえてくるような、ちょっとした気恥ずかしさも嬉しさに変わる、そんな漫画だったと思います。

  • 水上悟志『サイコスタッフ』(タイムKRコミックス) 東京:芳文社,2007年。