2007年11月8日木曜日

リトルプリンセス — 小公女

 私はわりと古い人間で、最近の話題、集英社文庫が大宰の『人間失格』の表紙を小畑健に書かせてみたってやつ、結果的に大当たりとなったわけだからそれはそれで意義深いことだと思いながら、どこかに釈然としない感情を抱えていたのです。大宰という文豪の作品に漫画家ごときのイラストなぞを、なんてことはさすがに思わないんですけど、なんか古典ものはポップになっちゃいやだと思っているようなのですよ。そんな私の傾向は高校生の時分にはもうはっきりとしてあって、まだバブルの残照が色濃い時代でした。角川の出していた漱石の文庫、表紙がわたせせいぞうだったんですね。なんてこった! いや、おしゃれで悪くはなかったんですけどね、けど私の買ったのは岩波の文庫でした。私は意固地な、つまらない人間なんです — 。とかいいながら、書店、児童書のコーナー、平に積まれた『リトルプリンセス』を見て、表紙にひかれるままに買ってしまったのですから、ああなんと私の首尾一貫しないことよ! 人間とはかくも矛盾をそのうちに抱えて生きるものなのですね。

 『リトルプリンセス』というのは、かつては『小公女』と訳されてた本ですね。それが、装いも新たになった。ちなみに、青い鳥文庫の旧版の表紙は全然違っていました。申し訳ないけど、この表紙だったら買わなかったろうなあ。きっと私は、偕成社あたりを選んだろうと思われて、そうなんですよ。基本的に私は保守的なのです。児童書となると、偕成社だとか福音館だとかを選びたがって、ちょっと昔っぽい雰囲気、そういうものを求めたく思っているようなのです。

でも、青い鳥文庫を買った。しかも表紙が決め手となった。訳者は曾野綾子。名前に覚えあり、この時点で躊躇はなくなって、そしてこれが私のはじめての『小公女』となりました。 — 実は、名作劇場とか見てなかったんですよ。だから、ミンチン先生とかそういう名前が出てきても、それがどういう人であるか、まったく知らなかったのです。そもそもなぜ彼女が小公女、リトルプリンセスと呼ばれたのかさえも知らず、まさしくまっさらな気持ちで読むことができました。

そして、ちょっと感動してしまいました。

真っ当な筋、善い行いと悪い行いがわかりやすく対比されていて、主人公は一貫して善き人であることを求められる。実に児童文学らしい、というかバーネットらしいというべきかも、そういうお話でありました。けど、こうした素直さ、まっすぐさっていうのはむやみやたらと効きますね。ミンチン先生はひどい人! 彼女のセーラに対する扱いったら! これを、十九世紀当時の福祉の問題と見るか(現実はもっと過酷だった)、あるいはこういう物語が与えられた良家の子女について思いをはせたものか、それはある種自由であるとは思うんですが、けどここで語られているような問題、人はどのような境遇にあっても驕らずくじけず、高貴であらねばならないということ、弱きものがあれば助けの手を差し伸べるということ、noblesse obligeについての諭しがじんわりと効いてきますね。こうした物語は、高い階層における家庭教育に役立ってきたのだろうなと思わされて、私なんかは野蛮な子供時代、決して裕福な家庭にあったわけではないですからね、なんだい結局ハッピーエンドなんだろ、なんて思ったりしそうになりますが、こういう僻み方する時点でもう失格なんだろうなあ。いや、私は基本素直だから、そんなこと思いませんでしたよ。というか、もうたいがい大人ですし。

けど、大人であっても、セーラの境涯の変転にはやきもきするところがあって、児童書を読むというのは、大人の判断を捨てきれないまでも、子供の頃のような感じ方を取り戻す体験であるのだなとつくづく思います。先ほどもいいました、ミンチン先生に対しては憤慨しました。セーラとベッキー、アーメンガードの途切れぬ友情にはなんだかほろりとしました。逆境にあっても凛々しさそして優しさを失わないセーラには私自身がはげまされるように感じたものだし、そしてあの悲しい夜に起こった魔法のような出来事にはわくわくと楽しさをつのらせて、そして奇跡のような巡り合わせにはほっとした気持ちでした。その時々の感情がいちいち素朴で、純粋で、ああ私もかくあらねばなるまいなと思ったのです。セーラの立派な振舞いに心打たれたパン屋のおかみさんがそうであったようにです。

ノーブレスオブリージュとはいいますが、決して高貴であるとはいえない私にしても、できることはあるのだろうと思う、そんな読後感があって、それは最終章「アンヌ」の残した印象によるのかも知れないと思っています。幸いで、そして将来へ向けての広がりを持った、そういう終わり方です。そして、私たち大人は、セーラのなそうとしたことが真に達成していないことをよくよく知っているはずなんですね。

だから — 、といえばあまりに理想的すぎるように感じてしまいますけれど、現実を前に忘れてしまいがちな理想を思い出させるために、児童書はあり続けるのかも知れません。そうでなければ、大人が児童書を読む意味などないではありませんか。なので、私はそのだからの先を模索しなければなるまいと思っている最中なのです。

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