2007年11月26日月曜日

浮上せよと活字は言う

 このところKindleがらみで、電子本やそのための端末について、色んな人が色んな意見を述べています。私なんかもその一人でありますが、つまり私がやっているように、この意見は面白いなと思ったり、凡庸だなと思ったり、そして読むに及ばんなと思ったり — 、私の書いたものもそうして品定めされてるってことです。Kindleあるいは電子本に対しいろいろ思う人が、色んな意見に触れて、またいろいろと思う、そういう状況が生じています。さて、そうした意見の中に、本の価格破壊が進んで欲しいというものがあったのですが、それ読んで私は驚いてしまいました。本、高いですか? そりゃ私も貧乏人ですから安いに越したことはないと思ってますし、もうちょっと低廉ならもっと買えるのにと思ったこともありますが、けれど日本はかなり本の安く買える国であると思っているのも事実です。

ここ数年、著作権絡みでいろいろと議論されているからか、あるいは本当に出版では儲からないからか、そうした界隈の内情のようなものがぼつぼつと漏れ聞こえています。もうネットの世界では古典と思えるような小文、馳星周の「おれたちは絶滅するか?」では、執筆年数三年、原稿用紙一五〇〇枚、ページ数五六〇の本が一九〇〇円じゃ高い?という悲鳴に似た問い掛けが見られるし、森博嗣も本の単価が低すぎる、そもそも本を書いて得られる収入はその内容ではなく体裁で決まる、これってどうなんだという問い掛けをしている。実は彼らの問い掛けは、私が前々から疑問に思っていたことへの回答になっていて、つまり私は本の定価と部数から作家の手取りを類推して、はたしてどれだけの人がこれで生活できてるんだろうと疑問に思っていたんです。そしたら案の定、著述だけで生活できる人はかぎられているんだというわけで、そしてここにさらに価格破壊の波が押し寄せたらどうなる!? なんて、思ったんです。正直、本は安いと思っています。そりゃ消費者としての私は安ければ安いほどいいと思ってるし、書店での支払い、一万円札出して釣りが返ってこなかったりするときついなあと思ったりもしますけど、けどそれは作品としての本ではなくて物質としての本について思うことで、作品としてはもっとこの人に儲けさせたいなと、もっと取ってもいいのになと思うものは確かにあるのです。

本ひいては出版を取り巻く状況を、こと著者の視点から説明したものというと、『浮上せよと活字は言う』に所収された「産業となった出版に未来を発見しても仕方がない」が一番に思い出されます。これ、私にとって結構ショックなことが書かれていたんですね。というわけで、ちょっと長いけど引用してみましょう。

『窯変源氏物語』の一巻が出たくらいの頃、「日本文学の研修」という目的で日本の出版社に来ていたイギリス人と会って、話のついでに彼が訊いた — 「『窯変源氏物語』の初版はどれくらいですか?」と。それで「十万」と言ったら、彼はびっくりして、「橋本さん、ジェフリー・アーチャーの新作だって、全英語圏で十万ですよ」と言った。私は、「もう源氏物語の初版が三十万出るような時代じゃないんだな」と思っていただけだから、ただ「へー」と言うだけである。その後に、映画の『枕草子』を撮るために日本に来ていたピーター・グリナウェイに会っていた時、彼がまた「参考までに」と、「あなたの『桃尻語訳枕草子』はどれくらい売れたのか?」と訊いた。私が、「上巻だけで三十五万」と言ったら、彼は瞬間絶句して、「じゃ、あなたは一生なにもしないですむ大金持ちじゃないですか」と言ったが、生憎私の住むところは、イギリスではない日本なので、私は働かなきゃ食っていけない貧乏人である。

橋本治が上巻だけで三十五万売って大金持ちになれなかったのは、彼が続けていったように日本の税金が高いからなのか、馳星周や森博嗣がいうように、本一冊あたりの単価が低く利潤も抑えられてしまうからか、あるいは山本夏彦がいうように原稿料は物価にスライドしないからか。山本は、人権蹂躙のような原稿料ともいっている。肝心の生産者が儲からない仕組みがある。そういえば、ことのはの人が著作権保護期間延長に寄せて死後の他人の利益より、今現在の本人の生活費を保護してくれといってたな。

正直こういう話を聞くと、私はとてもつらいのですよ。いうまでもなく本が好きで、予算がなく、時間がなく、蔵書するスペースがないためたくさん買えないだけで、可能だったらもっと買いたい、読みたいと思っているのが私です。なんつったって、好きが講じて全集やら著作集買うような人間なのですから、ちょっとの価格じゃしり込みしないぜ。私の好きな作家にはもっとお金がいって欲しいと思っていて、お金がたくさんいったら書かなくなっちゃうかも知れないと心配したりもするけど、でもほれ込んでるんですよ、仕合せになって欲しい、報われて欲しいと思うのは人情じゃないですか。

けど、どうも今の状況じゃそうはならないようになってるようで、私の思いはなんだか空振りしたみたい。なんなんだろうなあ、って冷静な側の私が、一喜一憂する私をさげすむような目で見ています。

あ、最後にまた橋本治から引用しとこう。

出版が“産業”として成り立つためには、「多種多様の人間が、ある時期に限って同じ一つの本を一斉に読む」という条件が必要になる。こんなことは、どう考えたって異常である。出版というものが、“産業”として成り立っていたのは、この異常な条件が生きていたというだけで、つまりは、そんなものが成り立っていた二十世紀という時間が異常だった — というだけの話である。

彼は出版という営為に対して、徹底して冷徹でシニカルな視線を向けています。そしてこの小文の結論、その直前に記された状況はまさしく日本の出版の現状を言い表していているかのようで、それを読んで私はなんだか気が抜けたような気分になりました。

引用

2 件のコメント:

匿名 さんのコメント...

今の本の値段と言うのは私にとっては妥当な線だと思うのですが、世間の方々の中にはまあ高いと思う人がいても不思議では無いかも知れませんね。

本にも色々あって、読み終わった後に痺れるほど感動したりすると少々の値段でも関係ないような気がしますが、明らかに駄作であると言うやつなんかは、たとえ安くとも出したお金がもったいないようなものも無い訳ではありませんしね。

最近の傾向としては、本を読めない人が増えていると言うのが、問題なのでは無いでしょうかね?。話を聞くと読まないんじゃなくて読めないみたいなんですよね。

ある程度たくさん読まないと本の面白さは分からない、でも読まないから面白くない、本は買わない。って悪循環になってるような気がします。

いわゆる電子本みたいなのが普及するようになって、突破口になったりすると良いなあとか思うんですが、難しいような気がします。

子供の頃の環境でしょうかねえ?。

matsuyuki さんのコメント...

ええ、高いという人の気持ちもわかるつもりなんです。けど、あんまり価格が破壊されてしまうのも問題で、質を計らず価格を追求したことが産業にダメージを与えたように、本の内容を加味せず価格を抑えようと躍起になることは、結局その土壌を痩せさせることにしかならんと思っているんですね。破壊されるのが価格だけならいいんですけど、その裏にあるいろいろが破壊されるのはいやだなって思って、こんなことを書いたんですね。

最近読んだもので、Web上のものだと思うんですけど、経営努力と称して納品業者に深夜、無給で品出しをさせる話みたいなものがありまして、もう最低だなあと。ま、これは直接は関係のない話。けど、根っこは一緒だと思っています。

森博嗣のいう、著作からの収入が内容でなく物質としての本の価格に基づくのは不思議、という話は、つまり内容が評価されてるんじゃないよねっていってるんでしょうけど、これってよほど自作に自信がないといっちゃいけないことのような気がしています。

それはつまりはyujirocketsさんもおっしゃる「たとえ安くとも出したお金がもったいないようなものも無い訳ではありませんしね」。読んだ後で、返金を求めたくなるものは確かにあります。また、こんなのこんなに刷っちゃって、あーあ、みたいに思うのもあります。当座瞬間的に売れるんだけど、ほどなくして古書店の日当たりのいいワゴンに十把一絡げの低廉価格で投げ売りされてるのを見て、なんともいえない侘びしい気持ちになって、こういう流れゆくばかりの本が業界を支えてるんだろう、こういう本も業界には必要なんだろうと、寒風に吹かれるような思いで空しさ噛みしめることもあります。わかってます。そういう儲かった本があるから、学術書みたいな、どう考えても儲からない本も出せるんです。しかも、わりと廉価に。わかってても、釈然としないこともあるって話かも知れません。

> 話を聞くと読まないんじゃなくて読めないみたいなんですよね。

けど、それでも売れる本があるんだそうですよ。読まない人もいるし、読めない人もいるけど、けれどそれでも買われる本はあるようなんです。読めないという彼らは、私ら古い世代がいう本、文章を読まないだけで、テキストは日常に目にしている。そうしたテキストが彼らの本となっているんです。

そしてここに橋本治の書いたという状況がしっくりとはまって、ええと、引用してもいいんですけど、できればそこだけじゃなくてそこに至るまでも読んでいただければありがたいんですがと思って、Webで公開されたりしてないかとGoogleで検索したら、この本文がもうインデックスされてました。恐ろしいなGoogle。

文庫版にしか入ってない文章です(多分)。文庫だから、図書館には入ってないかも。できたら読んでいただけるとありがたいんですが、まあ無理はいいません。適当にはしょっていいますと、橋本治がその文章を書いた時点(2000年)で、すでに出版は終わってたんだってことです。あるいは、橋本がデビューした時点(1977年?)ですでに終わってた、終わりへの道を辿っていたというような話です。

> 子供の頃の環境でしょうかねえ?。

私は、大衆化した本の辿るべくして辿る末路であると思っています。大衆というのは、博報堂生活総合研究所が『「分衆」の誕生』を発表した1985年の時点ですでに成立しなくなっていました。もう二十年くらい前の話です。

結局、本は、一部の本好きと呼ばれるようなものが嗜好するに過ぎない、大多数のものには顧みられない品であるのだ、あったのだと私は思っています。それが、ある一時期、近代においては広く大衆に受け入れられていた。近代が終わり、大衆という幻想も失われれば、本は再び大衆から好事家の手に戻るしかないのだろう。と、そのように考えているんです。

電子本は、本が好事家の専有物にならないための、いわば普通の人に残された最後の絆になるだろうと思っているから、私はそれらに期待しています。紙の本は完全にはなくならないだろうけど、だんだんとその規模を縮小させていくでしょう。デジタル写真がフィルムを駆逐したように、というのはいいすぎですけど、カラオケが生バンドを追いやった程度にはやってくれるんじゃないかと思っています。

えらく長くなっちゃいましたが、まとめると本なんてものはもともとそんなに読まれてなかったって、一部のマニアが独占的に読んできたもんだって、私は思っているってことです。ここ百年だかちょっと事情が違っていただけで、これからだんだんその本来のありように戻るんじゃないかなって。これが私の結論です。