2019年3月22日金曜日

ビハインド・ザ・カーブ — 地球平面説

先日、ネットですこし話題になってたドキュメンタリー、『ビハインド・ザ・カーブ — 地球平面説』。アメリカを中心に増えてきている地球平面説を信じる人たちの活動を追うもので、曰く地球が平面であることを実験で確認しようとするも、その結果は地球が球体であることを証明してしまうというナンセンスが面白い。こうした前評判から、結構コミカルで地球平面説信奉者たちを笑いとばすみたいな番組なのかな? みたいに予想して見たのですが、いやいや、これはちょっと笑えない。深刻 — 、というほど重々しい作りでもないのですが、結構シリアスさ感じさせる場面もあって、これは広く見られるべき番組なのではないか。とりわけニセ科学や歴史修正について少しでも関わりを持った人、批判的である人にとっては相当な危機感もって迫るものがあるのでは、という思いを持ちました。

番組を通じ、地球平面説を信じる人たち、フラットアーサーが、どのように急拡大を果たし、そして今どのような状況にあるのかが語られていきます。YouTubeやFacebookを仲介のツールとして使い信奉者のコミュニティーが育っていったという経緯。登場するフラットアーサーたちは、いかにもなビリーバーであるように見えるのですが、彼ら自身は自分たちを陰謀論者ではないと考えており、それどころか典型的な陰謀論を批判してさえ見せます。その態度は、客観的に見るにあきらかな齟齬をきたしているのですが、しかし地球が平面であると信じる彼らは他の陰謀論に対して働かせる懐疑心を、こと自分たちのこととなると発揮しえないでいるのです。

その懐疑心の機能不全というべき現象が、この記事の冒頭に紹介されていた実験のエピソードであるのです。地球が自転するというのなら1時間で15度傾くと仮説をたて、ジャイロを使い実測して見せるも、その測定結果、15度の傾きが自転以外の理由で説明できないかと苦心してみせる —。

ニセ科学の批判の場でよくいわれることがあります。信者は説得できない。あちら側にいってしまった人をこちら側に呼び戻すのは難しい。自分の信じることについて、どれほどそれを否定する説明がなされようとも、決して受け入れることをせず、その場しのぎであっても反論を試みようとする態度。時にゴールを動かすと揶揄されるそれが、自分自身がおこなった実験結果に対しても適用されるのです。

この様子を目の当たりにした時、これは笑いごとではないなと思いました。自分自身で確かめたことさえ受け入れないというのなら、他人の言葉なんて届くわけがない。また、地球が自転していることや、地球が球体であるということを、どうすれば実験でもって確かめられるか。そのための仮説を立て、実験のデザインをし、そして実際に観測してみせる一連の行動からは、少なくとも彼が教育を受け、科学の素地を身につけていることがうかがえるわけで、それでなお地球平面説に固執するその様子に、ある種の絶望、徒労感を覚えたのでした。

地球平面説にはいいところもあります。いいというか、マシというべきかもしれませんが。それは、これが直接的な金儲けの手段ではないというところ。ニセ薬やニセの治療法と違い、とりかえしのつかないような被害を生まないところ。また誰かを差別し排斥するような行動に繋がりにくそうなところもよかった。おかしな器具を売りつけたりすることもないし、誰かの不幸を望んだりしているようにも見えなかった。彼らは、地球が丸いなんて思えないと素朴に直感し、主にネットを通じ自分の直感を支えてくれる説に触れて、直感を確信に変えた人たちです。活動の中心にいる人たちも、どこかしら牧歌的な雰囲気をただよわせていて、なにか楽しいクラブ活動をするような、同好の士との交流を楽しむような、そんなほがらかさが見てとれたところには戸惑いさえ感じました。

けれど、それでもフラットアーサーのコミュニティー内では、分裂が生じ、攻撃しあう、そんな不幸な関係も生まれていて、どこまでも素朴であり続けるということの難しさを感じさせます。また、フラットアーサーの中には、他の陰謀論、偏った考えを掛け持ちしている人もいて、とりわけ気になったのは反ワクチン主義。これは、直接的に社会を危機に晒すものだから、地球が平面と信じるのとはわけが違う。ドキュメンタリー内で地球平面説に批判的な科学者がいっていたこと、フラットアーサーの広がりは長期的には社会の基盤である政府や科学への不信を拡大し、社会を不安定にさせる素地を作るという危惧、そのひとつのあらわれがすでに番組内に見てとれるのです。

番組は終盤にフラットアーサーたちをとりまく社会状況にも言及します。家族や友人と縁を切ったという人たちが紹介される。いわば一般的な社会からこぼれ落ちてしまっている人たちの受け皿として、こうした陰謀論コミュニティーが機能しているという現状が再確認されるのですね。もともと、社会に生きづらさを感じていた人が、そんな自分でも受け入れてくれる場としてフラットアースを見つけたのかも知れない。あるいは、この活動にのめりこむことで、社会から距離を置くようになってしまったのかも知れない。ドキュメンタリーでは、こうした人たちが地球平面説を否定した時の可能性として、孤立を挙げていました。一度彼らから距離を置いた社会が再び彼らを以前のように受け入れるかというと、それは簡単ではないだろう。そして、転向したものをコミュニティーは排斥するだろうとも。

コミュニティー内の論理に反する行為によって、コミュニティーから排斥された人たちの話は、他の陰謀論においても見聞きしています。執拗な攻撃を受け、疲弊してしまっているという人たちの話も聞いています。フラットアースにおいてもこうした不幸はおこり得るのだろう、あるいはすでにおこっているかも知れないと思えば、もう素朴だ、牧歌的だとはいっておられない。とはいえ、フラットアースの活動をとめるなんてことは、きっと誰にもできやしないわけで、この頭の痛い状況、フラットアースに限らず — 、をどのように受け止め、どのように対応していくかは、社会全体が支払うべき、支払わざるを得ないコストであると思えぼ、それはあまりに重いわけで、つくづく途方に暮れる、そんな思いで見終えたドキュメンタリーでした。

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