『ひろなex.』はなにがいいといっても、ヒロイン広菜のあほなところであると思います。思いつきでやってるのか、あるいはなにも考えてないのか。まったく考えてないということはないと思いますが、少なくとも深く考えてないことは確かっぽい。そんな広菜がなんやかんやとやらかしては、友達巻き込んだり、先生まで巻き込んだり、でもたまには自爆してたり、そんな様子がかわいくて仕方がないなあって思うんですね。ああ、もう、あほの子、かわいいなあ。でも、これは多分萌えという感情とは違うと思う。なんというか、イノセントなものを愛でるには、きっともっと適した言葉があると思うんだ。なんだかわかんないんだけど、だから、あほの子、かわいいなあ、今はそういっておきたいと思います。
なにがかわいいかというと、向こう見ずなところ。興味の対象があると、いてもたってもいられなくなって、突き進まないではいられない。これって、五歳児くらいの行動様式じゃないのかと思うんですが、それを中学生がやっている。ああ、あほの子、かわいいなあ。やっぱりそう思わないではおられず、しかも広菜に付き合ってくれる子らのうち、少なくともひとり、ともすればふたりくらいはやっぱりちょっとあほな子で、けれどそのあほの向かう方向がそれぞれちょっとずつ違っている。広菜を上回って無垢な感じのあほの子と、普段は普通、むしろかわいげのない子なんだけれど、特定の人を前にするとあほが全開になる — 、ああ、あほの子だ。けど、このちょっと過激な少女漫画読んじゃうようなあほの子に対しては、ほほ笑ましさや、あほの子、かわいいなあ、という感想は出てきません。だからやっぱり、かわいいあほの子は、広菜と風優夏のみに許された、栄誉ある称号なのだと思います。
あほの娘萌えというと、もしかしたら『あずまんが大王』の大阪あたりもそうしたポジションであったのかも知れません。けれど、大阪に対する感じと、広菜たちに対する感じはずいぶん違っている、そのように思っています。大阪に関しては、当時はそうは思わなかったのですが、今となっては多少作られた感があったように思います。その作られた感が、人によっては受け入れられず、『あずまんが大王』は萌え漫画かいなかという不毛な論争を引き起こすことになった、のかどうかは知りませんが、一方広菜たちに関しては、作られたあほの子という印象よりも、もっと無邪気で子供っぽい、無垢な、イノセントなものを感じるところがあって、児童がまんま大きくなったような、そんなかわいさが感じられます。子供がわいわい、あほなことしながらほたえている様子を見て、目を細める感じといったらいいでしょうか、そういう愛で方というのがあるのだと思うんです。
とはいえ、そのイノセンスを盾にして、思いっきりのあざとさをふりまくというのもこの漫画であろうと思います。妙にエロい。本人はまったく気にしている風がないから、また露骨に描写されることもないから、直接的な作用は少ない。うえーっ、というような拒否感情は起きにくいんですが、けれど、描かないことによってより一層の効果をたたき出しているようなところがあって、なんかこれは反則すれすれだなあ、と思ったりすることがたまにあります。これ、昔イギリスはヴィクトリアの時代にて、子供の無垢さを盾にして売られた写真なんかに通ずるものがあるようなないような。どちらもたわいのないものなのですが、たわいのない表現に秘められたメッセージというのは、時に露骨な表現以上に強く作用するものだと思います。
さて、そういったあれな話は置いておいて、広菜のかわいさに戻りまして、広菜のなにがかわいいかというと、普段はやんちゃで自由気ままに振る舞ってる癖して、たまーに、すごくしおらしくなる時があるところ。川にはまった時とか、お兄ちゃん引き止める時とか、風邪移しちゃった時とか、あの神妙さにはほだされます。ああ、かわいいなあって、あほの子とかじゃなくて、いじらしさにたまらなくなる。
とまあここまで書いて思ったんですが、この広菜をかわいいと思う感情っていうのは、おじいちゃんが孫について感じるものに似ているのかも知れません。なんでこんなに可愛いのかよ
、下がる目じりがえびす顔
。目に入れてもいたくない、とまでいっていいかはわかりませんが、でも多分、もしかしたら、世のおじいちゃんは孫見てはこんな気持ちになっているのかも知れません。
引用
- 荒木良治『孫』
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