山下和美の『天才柳沢教授の生活』、新刊が出ていたので買い求めましたところ、カバー折り返しにちょっとショックなことが書かれておりました。ほかならぬ柳沢教授のモデルであった作者山下和美のお父上が逝去なされたとのこと。もちろん私なんかは面識もなにもないものでありますから、特になに思うものでもないはずの立場であるのですが、けれど山下和美の漫画を通じて、わずかながらでもかかわりを持って、しかも親しみを感じていた人が亡くなられたというのは、多少なりともショックでありました。漫画の中では時間の経つことなく同じ時期をぐるぐると旋回しているようであったけれど、現実はそうもいかず、喜びも悲しみも、愛しい人もなにもかもがだくだくと流れる時間に押し流されていくばかりであるのですね。
柳沢教授で語ろうと思ったのですが、ここはあえて『BOY』を取り上げたいと思いました。マーガレット時代の作品、今から二十年ほど前の漫画です。主人公は二人、親の離婚再婚がきっかけになって再び暮らすことになった姉弟の話。その姉の一人は双子。双子の姉弟が、お互いに自分自身を映し、あるいは反発しあいながら自分の位置を見つけ出そうともがく。そういう物語なんだと思います。
なぜ、柳沢教授でなく『BOY』なのか。この漫画に出てくる父が、おそらくは柳沢教授以前に描かれた作者の父の姿であると思うからです。見ればわかります。杓子定規ともいえる、少しばかり、いや、結構? 世間離れした父親が描かれて、そしてその風貌も、柳沢教授以前に描かれた父の像であるということを物語っています。けれど、この人は柳沢教授みたいな人格者としては描かれない。破綻者とはいわないけれど、世間の求めるモラルから逸脱した父を責める目が家族の中に潜んでいる。その父への非難は息子、すなわち主人公にも向けられ、そうした女性という性のはらむセンシティブな傾向が、男性という性に向かって鋭く突き刺さるような、そういう描写もある漫画なのです。
けれど、それが一面的に終わらないのがやっぱり山下和美なんだと思うのです。主人公真太郎は親に反発し、かといえば双子の姉紀子も同様で、押さえきれない情動に突き動かされるようにもがきます。そう、この漫画の登場人物には情動が強く働き掛けて、時にその情動が理性を押しやぶってしまう。そしてそれは父においても同じであったのでしょう。モラリストである父。曲がったことの嫌いなはずの父が、それでも情動に突き動かされた。いや、それは情動と単純化できるようなものではなかった(と父はいう)。むしろ情動ではなかったところがまずかった。迷いでなく衝動でもなく、けれど規範的でもなかった、そうした、人が扱いきれない人の感情というものを描かせれば山下和美は白眉です。そして私たちは、この二十年前に描かれた漫画を読んで、その時点ですでに山下和美は自分の描くべきドラマを知っていたのだと気付くのです。
『BOY』のラストは素晴らしく美しく仕上がって、それはご都合主義なんかじゃない。人間が自分自身を飲み込み、乗り越えた先にたどり着いた、そうしたラストであるということを力強く物語っています。そしてそのラストに向かう途上の奮闘、おそらくは作者の身にも吹いた嵐であったのではないかと思っています。考えすぎかも知れない。けどそう思えてならない。それくらいに、この漫画の登場人物たちはリアルで、生き生きと、あるいは生々しく息づいています。そしてそれゆえに、この漫画を読む私は、しようのないほどに引きつけられてしまう — 、のだと思います。
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