2006年4月30日日曜日

ライカとモノクロの日々

 えい出版(えいは木偏に世と書くんだけどコンピュータじゃ使えないみたい)から文庫が続々出版されていた時期があって、だんだん充実していくえい文庫の棚にたまたま見つけて、そのタイトルの面白さから買ってしまったのがこの本です。内容はまさにタイトルどおりで、ライカで撮ったモノクロ写真についてのこと。けれど写真本を期待しちゃいけないと思う。内田ユキオという写真家のエッセイが中心で、そこに写真がアクセントとして加わる感じといったらいいでしょうか。けどただのエッセイ本というには写真はしっかり充実してるから、写真を見たい人にもいいかも知れません。

でも、正直なところをいうと、どっちつかずの中途半端な本という印象も否めません。けど、私はこの曖昧さは結構嫌いじゃないのですよ。

さて、ここでことわっておかないといけないのですが、私は内田ユキオという人を全然知りません。この本を知る以前にも、この本を知った以降にも、この人について知る機会はついぞ与えられず、つまり私にとって内田ユキオとはこの本でしかない。しかもさらにいえば、私はこの本のタイトルこそは覚えているけれど、著者の名前はちっとも覚えていなくって、だから私にとってこの本はこの本そのものでしかない。

こういうスタンスは私の写真に対するスタンスそのものといっていいのかと思います。そりゃ私だって何人か写真家の名前くらい列挙はできるのですが、けれどそれでも私にはそれらはあんまり重要じゃないんですね。写真を見る。美しいな、すごいな、迫力だな、神秘だな、と思うことはありますが、けれど私にとっての写真は見るものではないのです。撮る。それでしかなくて、撮るという行為によって私がそこにいたということを確定したい。いや違うか。私のいた風景を確定したいという方がそれらしいかも。そりゃ出来がよければそれに越したことはないけれども、私における写真とはまず撮るであり、それ以上でもそれ以下でもないんですね。

いま、『ライカとモノクロの日々』を思い出したのは、GR DIGITALを欲しいと思ったことが関わっていて、でも私がGRを買ったとしたらなにを撮るの、という疑問も涌いてきて、だから写真を撮るってどういうことだろうと、思わずこの本を出してきたとそういうわけです。でも、答えがこの本にあるわけじゃなくて、とにかくこの本に収録された写真を見たかったんです。それで、写真というのが決して大振りに構えて撮らなければならないものでないと確認したかったのだ、と思います。

この本には、素敵な写真がいっぱいあって、その写真の半分くらいかそれ以上を日常ぽさの残されたスナップが占めていて、こういうのを見ると写真を撮るには大げさなロケーションとかいらないというのがわかって、だとしたら私がGRを手に歩いたその時々の印象を撮ればそれで充分なのかも知れないという気にもなれるというわけで、ならGRを持つことは悪くないと思えてくるというわけで、じゃあ買おうという気にもなれるかも知れない。

現実にはなかなかそういう風にもいかないんですけどね。

この本の写真を見て、ああこの感じがいいなと思う写真のほとんどがズミクロンの50mmで、やっぱり私は標準レンズが好きなのかもと思えば、GR DIGITALの28mmは不安になります。いや本当どうしたものか、50mmには被写体の側にたっているような感じがあるんですね。そして多分私はその感覚が好きなんですね。いや本当どうしたものでしょうか。

2006年4月29日土曜日

RICOH GR DIGITAL

 私はずっとデジタルカメラが欲しいと思っていて、その割に全然買う気配を見せないのはなぜかというと、好みのカメラがどうにもみつからないんですね。私の好みというのはどんなかといいますと、シンプルであろうかと思います。デジタルガジェットとしての面白さなんてなくていいんです。とにかく、操作が簡単でちゃんととれればいい。そして、これが重要なのですが単焦点。ズームは面倒くさい。カメラは単焦点でいいのです。

ところが、今はズーム全盛期でありますから、これだというカメラもなかなかなくって、そこにリコーがGRのデジタル版を出すっていう話を以前聞いて、ちょっと興味を持ったのですが忘れていました。と、ここにtara-exさんがGR DIGITALを購入されたという話をきいて、ああこりゃちょっといいかも知らんなあなんて思って、つまりは欲しくなったのでした。

リコーのGRといえば、私にはGR1が印象深いのですが、この当時(というか今も)、私はミノルタファンであったので、GR1よりもむしろTC-1の方に興味があって、ああ無理してでもTC-1買っときゃよかったかなあ。

でもTC-1は高くて、ちょっと手が出ない。そうした人がかわりに、というわけでもないのですが、高性能コンパクトを求める人の中ではTC-1とGR1というのがちょっとした位置を築いていて、だから私もGR1を覚えていたというわけです。だから、これのデジタルが出るというのなら欲しいと思うのも当然でしょう。GRのデジタルが出て、TC-1のデジタルが出たら、もう私には天国のような状況であったのにと、ミノルタのカメラ事業撤退を聞いた今、悔やまれる思いでいっぱいです。

コンパクトにしてシンプル、そして単焦点が私の好みということはすでにいいましたが、ではGR DIGITALはどうであるかというと実はちょっと微妙。なんでかというと、35mm判換算で28mmという広角レンズの画角に引っ掛かりを感じるのでして、実をいうと私は広角は苦手です。私は標準レンズ(35mm版で50mm)が好きで、つまりはこういう画角。カメラの基本は50mmであるぞといわれまして、なににつけても基本の好きな私ですから標準レンズでがんばって、ついにはその画角に慣れてしまった。けれどコンパクトカメラで50mmというのも聞いたことがないので、せめて35mmかなあと思っていたのですが、今や超広角時代であって、28mmというのが普通なのですね! ああ、私に28mmなんて使えるのかなあ。

私が広角を好かんというのは、広角には広角特有の収差があるからで、それを広がりといってもいいのかも知れませんが、でも私は標準レンズの素直さが好きで、だから広角には苦手意識が強い。そんなこというんだったらズームでいいじゃん、ズームを50mmに固定すればいいだけの話じゃんみたいな意見もあるかも知れませんが、単焦点広角のゆがみがいやだという人間がズームレンズの不自然なゆがみに耐えられるわけがあるわけないのであって、そう、ズームレンズのあのくらくらとしたゆがみが私は嫌い! まあ一旦撮ってしまえば気にはならないんですけどね、けどいっぺんでも気がついてしまえば気になってしまうものなんですよ。

けれどGR DIGITALには迷います。もしかしたら、やっぱりこれが私の理想のデジタルカメラなのかも知れないと思います。コンパクトでシンプル。飾り気のなさが好みにあっていて、それに液晶にグリッドを表示できるなど気の利いた機能もあって、やっぱりこれかなあなんて思う。作例を見ても、例えば作例4みたいなのは実に私好みの絵で、これはちょっと欲しくなるなあ。

迷うなあ、迷います。きっと猫の写真を撮る人がトラックバックでこのカメラの評判やらなんやを教えてくれるんじゃないかと思うから、そのへんを参考にして決めてみようかなあ。どうしようかなあ、迷います。

2006年4月28日金曜日

クジラは昔陸を歩いていた

 私がこの本に出会ったのは高校に通っていたころ、図書室においてでありました。もともとから自然科学に興味のある私には、このストレートなタイトル『クジラは昔陸を歩いていた』の訴える力はかなりのもので、とりあえず内容もよくわからないのに借りてみて、そしてはまってしまいました。丸ごと一冊がクジラでもって貫かれていましてね、またそれがちょっと想像を超えるような話ばかりですから、いや本当にすごいなあと感心するばかりなんです。クジラの潜水能力、そして餌を得るための攻防。それら描写は、どことなくのんびりとおおらかに見えるクジラのまた別の側面を描き出して、お気に入りの一冊になりました。

この本には隅々にまで楽しさ、面白さがつまっていて、目次の次にイラストで紹介されるクジラの種類というのからがもう楽しい。知っているクジラもあればまったく知らないのもあって、しかしクジラ・イルカの種類というのも多いのですね。私の知っていたことはというと、まずクジラ、イルカの区分があって、クジラにはハクジラ、ヒゲクジラの区分があって、とそれくらいであるのですが、ところがもっと多様な種の広がりがあることがイラストだけでわかります。見た目が違う、姿が違う。

このイラストの書かれた数ページは、子供時分に図鑑を眺めるのが好きだったというような人にはかなり訴えるものがあると思います。私もそうした子供のひとりでしたが、眺めていて飽きるところがありません。

しかしやっぱりこの本の中心はクジラに関する記述にあるのであって、読んでみれば本当にクジラの世界は広いと実感できます。超音波で会話をするというようなことなら一般にも広く知られていますが、この本に書かれているのはそんなレベルではないのです。泡で餌となるオキアミ、プランクトンを囲い込んでみたり、脳油器官を駆使して深海にまで潜ってみたり、そうしたクジラの高性能(?)さが書かれていて、しかもその時点で未だ仮説であるような情報まで書いてあって、例えばですよ、脳油器官をレンズのように使うことで超音波を集束させてイカを狙撃するであるとか、読んでいるだけでわくわくするんですね。

この本には、こうした自然科学的興味がたくさん盛り込まれていますが、もちろん政治的なこともあって、例えばクジラ保護に関することとか、なぜクジラが減ることになったのかということから説明されていて、それを読むかぎり、クジラ保護なんてイデオロギーは結局政治戦略なのかも知れないと悲しくなりますな。ともあれ、クジラという未だに神秘に隠された巨大な生物が人間の思惑で振り回されているという現実はあんまりに悲しいことであるなと、一冊を読み通してみるとそんなふうに思えるまでにクジラに対する愛着というのが増す、そんな本です。

2006年4月27日木曜日

よつばと!

  なんだか買い物ノートのような様相を呈してきたこのBlogですが、そう、今日の買い物は『よつばと!』でありました。『よつばと!』、もう説明する必要はないかも知れませんが、翻訳家の父ちゃんと元気いっぱいの女の子よつばが暮らす町でのできごと。お隣さん、三姉妹、友人たち。ほのぼのとして、勢いもあって、明るくて、普通じゃないんだけどでもやっぱりどこか普通で、普遍? 私はこの漫画が大好きです。誰にでもお勧めできるいい漫画であると思っています。

と、ここでちょっと私は反省です。今日、若い人が昭和の高度経済成長のころとか、そういう時分のことをさして、まだ生まれていなかったこの時代のことはもちろん知らないけれども、それでも好きだとおっしゃった。それに対して私は、きっと言葉では伝えられないと冷たい物言いをしてしまって、ああ私はどうしていつもこう人情味のないことをいうのかな、反省しているのです。

でも、私の育って、見て聴いて感じてきた時代を伝えることは無理でも、そうした時代に対して抱くノスタルジーのようなものはきっと同じだと思ったのです。ノスタルジーというのは、自分がかつて包まれていた時代を思い出して懐かしむ思いであり、そしてそれは今の時代を舞台に描いた『よつばと!』からもどことなく感じられて、昭和の七十八十年代に少年時代を過ごした私がそうなら、今の時代を自分の時代として育った若い人にとっても同じかも知れない。そして、もしかしたら、私よりもずっと年上の人にとっても同じなのかも知れません。

なにがノスタルジーなんだろう。それは多分、私が変わってしまったと思っている時代のなかに、きっと変わらず保たれ続けているなにかであると思うのです。子供の頃、世界はむやみに広くて、時間はむやみにだらだらと流れて、けれど毎日はエキサイティングで、冒険と発見、遠征先で知りあう新しい友達、まみれた土や水の匂い、寝そべった地面の熱さ、太陽、ねだって買ってもらったアイスキャンデーを友達と一緒に食べた夏。私が子供時分を懐かしく思いだすとき、それはなぜか夏なのです。夏休みか。友人のうちの決して広いとはいえない庭いっぱいにテントを張って寝たこともあった、親戚と一緒にいった海、帰り際に砂浜で大きな山を作った。アメフラシ、シュモクザメ、海辺の珍しい生き物、乗りつけない国鉄にも興奮して、私のかつて感じた時間、そして今この文章を読む私の知らないあなたも感じた時間、そうした時間はおそらく今の時代に育つ子供も共有しているのではないかと思えて、ひとつひとつの体験は違っていても、毎日が新しい体験の連続であった子供時分の楽しさはきっと同じなんだと思ったりした。

そう、『よつばと!』を読めば、きっとそう思うんです。なんか、昔なじみと子供時分を懐古するような思いに近い、不思議な読後感の残る漫画で、そしてまだ見ない未来も見られそうな、そんな不思議な時間の流れる漫画です。

  • あずまきよひこ『よつばと!』第1巻 (電撃コミックス) 東京:メディアワークス,2003年。
  • あずまきよひこ『よつばと!』第2巻 (電撃コミックス) 東京:メディアワークス,2004年。
  • あずまきよひこ『よつばと!』第3巻 (電撃コミックス) 東京:メディアワークス,2004年。
  • あずまきよひこ『よつばと!』第4巻 (電撃コミックス) 東京:メディアワークス,2005年。
  • あずまきよひこ『よつばと!』第5巻 (電撃コミックス) 東京:メディアワークス,2006年。
  • 以下続刊
  • Azuma, Kiyohiko. Yotsubato!. Vol. 1. Texas : Adv Films, 2005.
  • Azuma, Kiyohiko. Yotsubato!. Vol. 2. Texas : Adv Films, 2005.
  • Azuma, Kiyohiko. Yotsubato!. Vol. 3. Texas : Adv Films, 2005.

2006年4月26日水曜日

木綿のハンカチーフ / わかれうた

  デアゴスティーニの隔週誌『青春のうた第7号に中島みゆきの『わかれうた』が収録されていて、これだこれだよ、私の求めている歌はこういうものなんだ、と思ったか思わなかったか。ともあれこの本のいいところは歌詞にコードのふってあるところで、なので私は鋭意『わかれうた』練習中。でも、『わかれうた』ばかりもなんだから一緒に収録の『木綿のハンカチーフ』歌ってみたらば、これがまあ、なんて都合のいい歌詞かしらとあきれてしまったのでした。国許に残した女性の心をまるっきり斟酌しない勝手な男の言い分に、あれやこれやと毒にも薬にもならんこというだけで、振られた最後にいたっては涙を拭くためのハンカチをくださいってなんだその物分かりのよさは! だなんて憤慨して、結局この歌というのは男の視点において語られる恋愛模様なのかもなあ、と思ったのでした。

でもって『わかれうた』に戻ってみて、ふと思いついたんです。『木綿のハンカチーフ』において物分かりのいい女を演じているその娘の別の側面が『わかれうた』であったらどうだろう。捨てられることに納得いかない女の醜態、都合のいい女を演じてみたり、あるいは泣きすがってみたり、恋愛の終わろうというときがきれいごとばかりですむわけなんてないんです。今まで自分が優位に立っていると思っていたならなおさら。自分がこの人を振り回していると思っていたときからひとたび状況が違ってしまえば、これまで見せたこともないようなそぶり口調で、去ろうという人の心をつなぎ止めようと必死になるのが恋愛なのです。ましてやつなぎ止めることもかなわず、一方的に去られようというときに、涙を拭くハンカチ一枚贈ってくださいというのなら、その一見物分かりのよすぎる態度の裏にいかほどの情念渦巻かせておることでしょうか。

とこんな風に思いながら『木綿のハンカチーフ』、『わかれうた』を一続きに歌ってみると、まったくといっていいほど違う歌に聴こえてくるから歌というのは面白いのです。

だから私は、ちょっとこの二曲をセットで練習してみようと思います。『木綿のハンカチーフ』を歌うときには『わかれうた』じみた情念を明るさけなげの裏に隠して、『わかれうた』歌うときには、かつてあったろう美しい季節、関係をほのめかしてみて。

けれど本当のところをいうと、『わかれうた』歌うときには、あの時はすまないことをしてしまったなどと昔を思い出し思い出し、つまり私はこの歌に責められる立場の人間です。

2006年4月25日火曜日

弦楽四重奏 恋の千年王国

その時々にはやりというのはありまして、あんまりにもその廃れるまでがはやいから自然記憶からも簡単に抜け落ちて、例えばそれはアダージョ1/fゆらぎオルゴール、そして弦楽四重奏。とにかくなにかが流行れば業界というのは売ろう売ろうと躍起になって、まあこういうときにまず出るのはビートルズと相場が決まっていて、弦楽四重奏では松任谷由実なんかも出ました。流行りに背を向けるのが常の私ですからもちろんこうしたものにはまったく関わりを持ってこなかったのですが、ところが一枚だけ持っているものがあります。それはゲーム『ネクストキング』のBGM集。サントラではないのです。ゲームのBGMを弦楽四重奏にアレンジしたアルバムが出るほどに弦楽四重奏は流行ったといったら、その人気、浸透のほどがうかがい知れるんじゃないかと思います。

私は今になって思うのですが、弦楽四重奏のブームというのは結構良心的であったと思うんです。だってね、オルゴールの時なんかはひどかったもの。まっとうなところではちゃんとしたオルゴールを使ったりもしたみたいですが、シンセでやっつけたみたいのもたくさんあったと聞きますし、とにかく音色と雰囲気さえオルゴールなら文句はないだろう、みたいな本当に乱暴なものも散見されて、1/fゆらぎやリラクゼーション、環境ミュージック、癒しの音楽なんて時にもそういった傾向を感じたんですが、本当に、なんかそれっぽいの作って売り抜けちゃえばいいだろうって思ってるんだろうといいたくなるようなものも少なくなかったんです。けれど弦楽四重奏は、少なくともオリジナルの曲を四声部にアレンジして、ちゃんと演奏者を使って録音して、そりゃもちろん急造のカルテットもたくさんあったことでしょうが、それでもシンセやサンプリングでやっつけました、みたいなのに比べたらずいぶんましじゃないかと思ったりして、そして実際そのアレンジもよかったといって、ちょっとした編曲の手本みたいな扱いをされたりもしましたっけね。

『弦楽四重奏 恋の千年王国』にもそうした影があるのです。ゲーム音楽の、時に壮大で、時にユーモラスなBGMを弦楽四重奏に再編して、そしてそれが実によくできているんです。どの曲ももとの雰囲気を壊さず、けれど上品に、けれど勇壮に、そしてそれらはとても弦楽四重奏らしいのです。演奏もなかなかに熱演でして、聞いていると、ゲーム関係なしにいいと思える。仮にゲームを知らなかったとしても、充分にインストゥルメンタルアルバムとして通用する質を確保しています。

このアルバム、1998年にリリースされたのですが、おそろしいことにアマゾンではまだ買えるみたいな表示がされていて、もしそれが本当だったら買いかも知れません。アマゾンは在庫を抱えているのかも知れない。ともあれ、今、ゲーム『ネクストキング』の関連品で普通に買えるのは、もうこの弦楽四重奏アルバムだけではないかと思われます。

ゲームを知っている人ならなおさら、そうでない人にもお勧めできるアルバムで、私は正直サントラよりもこちらの方が好きだったりするのです。

以下参考

プレステ

セガ・サターン

2006年4月24日月曜日

ナツノクモ

  私がその発売を楽しみにしている漫画雑誌『IKKI』の六月号が発売されていまして、嬉しいなあと買ってきたらば『月館の殺人』が最終回。ああ、じゃあ今日はこれで書こうかと思って、けれど単行本で読む人にネタバレにならないようにしなくっちゃと思っていたらば、巻末に収録される『ナツノクモ』が急展開を見せて、ああ、私は今月のこの回を読んで、今まで聞きたかった言葉をはじめて耳にした思いがしました。いや、聞きたかった言葉なんかじゃありません。そうですね。あの言葉は、私が口にしたい言葉なんです。そうなんです。私が誰かに告げたいと思ってやまない言葉がそこにあったのです。

だから、私はその言葉の告げられる最終コマにいたった時にはもうなんだか泣けてきて、けれどべそべそ泣くばかりじゃなくて、なんか心の底から言葉にできないような思いが沸いていて、窓をばーんっと開け放ってわーって叫びたいような気持ちであったのですが、そういうことをして警察に通報されても困るからここにこうして書くことにしたのです。

『ナツノクモ』は厄介な問題を扱って、決して後れを取らないまっすぐさが気持ちよくて、心にどしんどしんと伝わるような重さ、実感がともなっていて、私は本当にこの漫画を今、一番に推したい気持ちであるのですが、それは多分に、私の自分に対する評価がこの漫画の主人公コイル(トルク)のそれに似ているからであると思っています。いや、実際私の自分に対する評価の低さったらなくって、もう本当にゴミのようだって思っていて、なんの役に立つわけでもない穀潰しで、そのくせ自意識ばかりは強くて、いつも誰かに相手にして欲しいと思っているのに、誰かが相手してくれたらその手をはらうようなあまのじゃくで、人恋しさに揺れるのに、人の輪の中にはいればなぜか孤独にさいなまれて、自分から、まるで後脚で砂をかけるようにして出ていこうとする……、そういう最低な人間なのです。

だから私は、この漫画のヒロインのひとりであるガウルにも感情移入をしているのかも知れません。自分自身なにをというような思いもあるのですが、あの、動物園に暮らす人たちの思いは私にとって他人事でなく、存在しない人をあたかも存在する友人であるかのように思い、きっと仕合せな明日のくることを祈って、そしてそれは私自身が求めていることの反映なのだろうと思っています。そう、私は誰かに自分の身を預けたいと思っていて、けれど自分などを受け入れる人などいないとも思い込んでいて、そして誰かを受け入れたいと願っていて、そうした屈折した欲望やら願望やら切なさやら悲しさやらが、この漫画にはそっくり描かれているような気がするから目が離せない。そうなんです。寂しいのです。そしてその寂しさをネットワーク上に仮想的にできあがった世界に紛らわせたいと思う人たちがいて、そしてほかでもない私自身がそのひとりであるということをはっきりと自覚しています。

『ナツノクモ』の物語は、いま本格的に動き出したと感じて、だからクライマックスは直きでしょう。あと一山、二山くらいはあるでしょうが、あるいはもっと思いがけない動きもあるかも知れませんが、けれどいつかくる物語の終わりを予感して、私はなんだか震えそうです。悲しかったり寂しかったりしながら、けれどいつかくる物語の閉じられる日を感じては震えを覚えるのです。

  • 篠房六郎『ナツノクモ』第1巻 (IKKI COMICS) 東京:小学館,2004年。
  • 篠房六郎『ナツノクモ』第2巻 (IKKI COMICS) 東京:小学館,2004年。
  • 篠房六郎『ナツノクモ』第3巻 (IKKI COMICS) 東京:小学館,2004年。
  • 篠房六郎『ナツノクモ』第4巻 (IKKI COMICS) 東京:小学館,2005年。
  • 篠房六郎『ナツノクモ』第5巻 (IKKI COMICS) 東京:小学館,2005年。
  • 以下続刊
  • 佐々木倫子,綾辻行人『月館の殺人』上巻 (IKKI COMICS) 東京:小学館,2005年。
  • 以下続刊

2006年4月23日日曜日

耳をすませば

  図書館で借りた本、本の表紙をめくったところにはポケットがつけられていて、そこに図書カードが差し込まれていたというのはいったいいつの頃のことでありましょう。図書カードには、これまでこの本を借りた人の名前が書かれてあって、もちろん一番最後には今この本を手にしている私の名前があるはずで、そしてその上にはいつも同じ名前があったとしたら……。

『耳をすませば』はそうしたロマンティックなシチュエーションのもと出会った男女の物語で、まさしくボーイ・ミーツ・ガール。いや主人公が女性であることを思えば、ガール・ミーツ・ボーイというべきか。私の読もうとする本を先に借りている誰かがいる。誰かわからない、わからないからこそ知りたい。私の読みたい本を同じように読みたいと思ったまだ知らぬあなたはどんな人なのでしょう。実にロマンティックな導入であろうかと思います。

で、ロマンティックなのはよいのですが、残念ながらこうした出会いはもう不可能なのですね。というのは、図書館というのは利用者のプライバシーを守らなければならないわけでありまして、つまりこの本を誰が借りたかということを第三者に知らせるわけにはいかないのです。そのため、貸出の履歴を簡単にたどることのできるこの方式、ニューアーク式は衰退し、ついに消え去ったのです。ですが、私が子供だったころにはまだこの方式は細々ながらも存えていて、だから図書館における利用者のプライバシー保護がなされるようになったのは、ここ二十年ほどのことであることがわかります。と、そんなわけで、『耳をすませば』のようなロマンティックな出会いはもはや起こりえないというわけです。

このへんの事情は、ストーカー事案が重大な社会問題化したことで、一目ぼれを成就させることが極めて困難になったというのに似ているでしょうか。

私が最近やっているゲーム、『ときめきメモリアルONLINE』にはドラマ(ロールプレイ)というのがあって、決められた役割を演じて遊べるのですが、今日やってみたものがまさにこの『耳をすませば』シチュエーションでありまして、時代は二十一世紀だというのに、図書館がニューアーク式をすでに廃してしまっているということも、その前提となる利用者の秘密保持についても、かくも知られていない。つまりこうした現実の図書館に乖離した描かれ方がされる背景には、図書館への興味の薄さがあるわけで、あまりの描かれ方の旧態依然とした様に愕然としてみたり、まあ、ゲームごときで嘆きなさんなよといった話なのですが、でもまあ一応かつて図書館員であった身としては思うところがあるという話なのです。

でも、それでも、この見知らぬ相手に興味を持って、というのはなかなかにドキドキとさせるシチュエーションであるのは確かで、TMOのドラマにおいてはべたな設定で進行するのが常だから、もうニューアーク式が出た時点で最後に見つかるのはあいつだっ、みたいに分かり切ってしまうのですが、けれどもしこれが現実のシチュエーションであったら。本当に誰かわからない名前をいつも私の借りる本に見つけてしまう。本というのは、まさしく人の興味のそのものであるといい得るものであって、だとすれば私と興味を同じくするまだ見ぬあなたはどんな人であるのでしょうか。

私はプライバシーが守られなければならないことは百も承知しながらも、昨今なお強弁される個人情報保護の意義を理解しながら、でもあまりにこうした情報が隠蔽されすぎる状況というのもまた空しいのかも知れないと思ったりします。けれど穏やかであった時代は過ぎ去ってしまって、住所や電話番号は当然として、名前さえ覆い隠して見せようとしない時代がやってきたと感じて、今自分の暮らす時代の世知辛さを思います。なにも昔がよかったといいたいわけではありません。仮に昔に戻ったとしても、『耳をすませば』のような状況は私には訪れない。けれど、それでもあまりに人の顔が見えないような時代に、私はあたかも空白に向かって声を投げかけるような一抹の寂しさを感じているといえばいいすぎでしょうか。

私が、たとえすぐ側に人の気配を感じたとしても、いやむしろ人の存在を感じるからこそ、よりいっそう空しさ、寂しさをつのらせるのは、いったいどういうことなのか。自分自身でわからず、まるで私は暗闇に包まれたようで悲しいのです。

参考(映画版DVD)

2006年4月22日土曜日

フランス・ロマネスク

 私はヨーロッパの中世という時代が好きで、とりわけ好きなのはゴシック、と思っていたのですが、どうやらそういうわけでもないみたい。昔、図書館に勤めていたときに、中世っぽさを持った建築について知りたいという欲求にとりつかれたことがありまして、それは例えば城であるとかについてとかが知りたかったのですが、残念ながら城についての資料を見つけることができず、かわりにたどり着いたというのがロマネスクという様式、そして修道院であったのです。ロマネスクというのはゴシック以前のヨーロッパに生まれた様式で、天を目指して上へ上へとのびんが如しのゴシックとは異なり、簡素でやわらかな印象を与えるロマネスクは地にありて粛然としています。

この本の著者である饗庭孝男は、私の記憶ではフランス文学者なのですが、こうした本も書かれるのですね。『フランス・ロマネスク』はそのタイトルの示すとおりフランスにおけるロマネスク建築を扱っているのですが、著者が文学系の人間だけあって、その視点は独特です。なにしろ、建築を扱いながら、その向こうにロマネスク様式を育んだ時代の精神を見ようというのです。そしてこの試みは成功していると思います。なにぶん一般向けの本ですから、概略程度に抑えられているところも多いのですが、それでも、あの時代にどういう社会状況があって、それがどのように様式に反映されたかというのを知るのは面白く、修道院建築が好きで、中世という時代も好きという人にはきっとうってつけの本でしょう。

この本の前半は中世ヨーロッパ社会を俯瞰した概略的な章で、ここで時代の背景を知って、後半は実際の建築、修道院が紹介されるカタログといった様相を見せています。おおまかなところから入り、個別の事象にいたる。修道院の紹介にしても、歴史があり、建築についての説明があり、そして実際にその場に立った者としての感想があって、なかなかに多層的重層的で面白いのですよ。私がこの本を手にした理由は、建築解説に興味を持ったからなのですが、今となってみれば中世という時代にこそ興味が涌いて、面白いです。多様な興味を吸収できる、本当によい本であると思います。

この本を読んで、それから『薔薇の名前』を読むときっと面白い。映画でもいい。そしてそれらを体験したあとで戻ってきたら、この本の面白さもきっとよりいっそう膨らむはず。写真もたくさんあるので、ページをめくっているだけで中世の残るヨーロッパの土地に心が引き寄せられるようです。

2006年4月21日金曜日

Beethoven : Piano Sonata No. 21 In C, Op. 53 "Waldstein" played by Artur Schnabel

 iPodで音楽を聴いていると、新たな発見が次々とあるのです。今日、朝、通勤の電車を降りて歩いているときに、彼方に響くようなピアノの連打音が印象的に聞こえてきて、ああ、これは『ヴァルトシュタイン』だ。けれど私はこれをずっと『ハンマークラヴィーア』と思い込んでいて、あの低音の連打音。これは、確か、新しいピアノを手に入れたベートーヴェンがその音域の広がりを確かめるように、新しい表現の可能性を試すようにして書いたものだったはず。そう、この新しいピアノ、つまりハンマークラヴィーアを手にしたベートーヴェンの喜びがあふれるような曲であるから、私はこの曲を『ハンマークラヴィーア』と誤解して覚えてしまった。けれど何度もいいますがソナタ21番は『ヴァルトシュタイン』。ベートーヴェンの中期ピアノソナタにおける傑作であります。

この曲を弾くのはアルトゥール・シュナーベル。これまた私の記憶が確かであれば、我が敬愛するピアニストであるグレン・グールドが、少年時代に憧れていたというピアニスト、それがシュナーベルだったはずです。なので、当時行きつけのCD店にシュナーベルのCDを発見して、私は珍しくピアノものを買ったのでした。けれど、私はさほど貪欲にはこれを聴かず、というのも一度に買うCDが多すぎたのが原因です。シュナーベルは長い間棚にしまわれたままになっていて、iPod時代が訪れてようやく日の目を見ました。それが、かの彼方から響く低音の連打音。一聴して古い録音とわかる。SPからの復刻なのでしょうか。けれど、思いもかけず躍動するベートーヴェンに私はシュナーベルの活躍した時代というものを感じて、ああ、ロマンの時代です。演奏家が演奏家の個性により再創造を積極的に行った時代があったことを改めて思ったのでした。

多分、これが今のピアニストであらば、こんな風には演奏しないでしょう。揺れ動くテンポ、大きくたわんで膨らむフレーズは堂々として豊かで、そこには均整の美よりも表現の躍動がより色濃くあらわれて、やはりこれはロマンティックなのです。今ならこうは弾かないというのは、きっと古典派ベートーヴェンなら古典派らしい表現で、主題の関連を緻密に、分析的に追っていって、各部各部のバランスも確かめながら演奏されるに違いないと思うのです。ところが、かつてはそうしたバランスをよりも、演奏者の個性が重視された時代があって、それはやはりロマンなのです。たっぷりと肉感豊かに、まさに演奏者の、朗々と響かせる声、大げさにしかしダイナミックな手振り身振りが見えるかのような演奏に、私はたまにはこういうのも面白いと思います。もしこれが現在の演奏家によるものならどう思ったかわからないけれど、しかしシュナーベルも悪くないと思って、こういう演奏もありなのだという気になったのでした。

2006年4月20日木曜日

少女セクト

  去年だかおととしだかくらいから、百合などといって女性同性愛をモチーフにした漫画やライトノベルが流行っているようですが、私はこうした傾向は大歓迎。なんと、これらの流行がおこる以前から私の中にはこういったものへの傾倒があったんですね。これからちょっとややこしいことをいいますがどうか黙って聞いてつかあさい。

実のところをいうと、私は女として生まれたかった。それはさかのぼれば高校生くらいにまでなるんじゃないか、ともかくずっと以前からそんなことを思っていたのでした。いや、別に性同一性障害だとかそういうたいそうなのではなくてですね、単純に男ではありたくなかったというような話だと思うのです。男という性をもった自分への嫌悪や違和感があって、それで女に生まれたかった。けれど私はそれでも今は女ではないから、男を愛することはできない。そうした鬱屈から、女性同性愛的世界への思慕を深めた……、のだと思っています。

こうした偏屈な傾向を持つ私ですから、実は男性向けのエロは楽しくなくって、なんというのでしょう。男が女を、というベクトルがどうにも好きではなくて、ビデオにしても漫画にしても、小説にしても、これだっ! というようなものは実に、実に見つけられないんですね。それでもいろいろと自分の傾向を探ってみた結果、私にとっては女性の描くエロの方がよいようで、それもできれば直接描写の少ない、寸止め系の方がよりよい模様であるぞとわかってきた。そんなわけですから、『少女セクト』はしくじったと思いましたね。いや、表紙にひかれて目をつけていて、どうも評判であるようだからと購入に踏み切ったのですが、そうしたらやっぱり『メガストア』に連載されていただけあって、実に男性的な視点にもとづく漫画でありました。この同日に、同じく評判であるときいて買った『くちびるためいきさくらいろ』の方がよかった。あの、なんか、いたたまらなさというか、最後の最後で手をこまねいているような『さくらいろ』の方が好ましかった、と思ったものでした。

でも、読んでいるうちに評価が変わってきたのですね。読んでいるうちにこの人のエロの描写に慣れたとでもいうのか、エロをさほどエロと感じないようになって、そうしたら実によく仕掛けがされていて、その工夫のよく行き届いていることに気付いたのです。その工夫とは、基本的に男性向けである漫画を女性だけで展開して男性に飽きさせないという工夫であり、そしてもうひとつは、心の行き違いといったものがうまく表現されているというところ。ほら、前者は第四話に際立っていて、後者は第五話が白眉です。第四話においては、嗜虐性のある側を自分と見るかあるいは逆か、読者が選んで感情移入する余地があり、そして屈服させられる側が最後までそのままではないという下克上シチュエーションが実にうまいなと。そして五話。自分の好きな相手が違う相手を見ているということを知りながらもその思いをとめることができず、そして思いを遂げたかと思われたときに呼ばれた名前は自分のものではないという状況の見せ方。古典的かも知れません。ですが、最後、結末にいたるまでの展開は丁寧で、べたながらもうまさがそれと感じさせず、私は結局はこういうすれ違う思いというものが好きなのだなとしみじみ思ったのでした。

この漫画は、結局はその思いのすれ違いを二冊にわたってやって見せたんでしょう。第1巻ではさまざまな人間関係の中で、第2巻では常に主要な位置にあった二人をメインに据えて。通して読んでみて、今私は第1巻の方がよかったなと感じています。ですが、これから2巻を読み進み、分け入るにつれて、その評価は変わるかも知れません。でも、私には、内藤と藩田の関係については、第2巻においてのものよりも、第1巻の方が好みであったと思います。表立っては描かれず、端々に匂わされるような、そうしたほうが好みであったと、今の時点ではいっておきます。

  • 玄鉄絢『少女セクト』(メガストアコミックス) 東京:コアマガジン,2005年。
  • 玄鉄絢『少女セクト』第2巻 (メガストアコミックス) 東京:コアマガジン,2005年。

2006年4月19日水曜日

中庭

世間では『サラダ記念日』をきっかけに短歌ブームが巻き起こりたり、って、ああ五七調になっちゃったよ。実は私は短歌を詠んでいた頃があって、それもわりと熱心に取り組んでいたのですが、例えば短歌の専門誌『短歌現代』を購読してたりしましてね、ポケットにはいつ詩情にとりつかれても大丈夫なようにメモとペンが入っていました。今はもうその頃のようには乱造しなくなったのですが、それでもまれに詩情にとりつかれることはあるんですよね。それが今日。なんか思いがかたちをもとめて騒がしいものだから、どうにも詠まんではおられなかったのです。

と、いきなり『サラダ記念日』を引き合いに出しておいてなんですが、私における短歌のきざしは俵万智ではありませんで、じゃあ誰かといいますと栗木京子でありました。いったいなにで目にしたものか、栗木京子の一首を目にとどめて、それが歌集『中庭』からの一首と知った私は、その一冊を求めて書店へと急いだのです。

だから私がはじめて買った歌集というのは栗木京子の『中庭』で、ちょうど『水惑星』と一緒に編まれた本がでたところであったらしく、だから私の持っているのは『水惑星・中庭』です。この文章を書こうと思って、久しぶりに出してきました。この本は、書棚のおそらく最も古い状態が保持された棚の中に発見されて、淡いオレンジの装幀も往時のままに、なんだか懐かしいとは思いつつもまだ十年は経っていないのですか。震災があって、その二年後、私が歌詠みに精を出していたのはその頃だから、時期的にもぴたりとあいますね、ってなんの時期だか。

栗木京子の歌は、割合に神経質で、意識のたっているという印象が私にはあるのですが、そうした感覚が当時の私にはマッチしていたのだと思います。いろいろなことが歌に詠まれていて、私はそれまで短歌をきちんと読んだことなんて一度もなかったから、したたかショックを受けました。そうか、こんな世界があるのかと思って、だから釣り込まれるようにして歌を詠んで、今あの時の歌の数々はどこにあるんだろう。きっとぎこちなくて、けれど今よりもずっと若々しい言葉が踊っているはず。でも、多分あの頃は言葉にしようと思ってできない思いもあったはずで、そうしたことどもを私はどのように詠んでいたのか。臆面のなくなった今の私からは感じ取れないナイーブさが残っているんじゃないかと思うと、読み返すのはちょっと怖いですね。

今から当時を思い起こして一首:

恋に千々乱れし胸をおさめんと歌詠みてなほ思ひはすさび

しかし、今栗木京子の歌集を紹介しようと思って、それがことごとく絶版している、Amazonにおいては検索にさえ引っかからないというのはほとほと悲しいことでありまして、読めさえすればきっと響く心はあるだろうのに。

短歌は人気じゃないのかなあ。読めば面白く、自ら詠めばなお味わい深いものだというのに。

  • 栗木京子『水惑星・中庭 : 栗木京子歌集』(2 in 1シリーズ) 東京:雁書館,1998年。
  • 栗木京子『中庭 : 栗木京子歌集』東京:雁書館,1990年。

2006年4月18日火曜日

うちの大家族

  なんかここのところ重野なおきづいているといいますか、『Good Morning ティーチャー』がいいといっていたら今度は『うちの大家族』ですよ。そう、私はこれまで何度もいってきたように重野なおきの漫画が好きで、そしてたくさんの重野漫画のなかでどれが好きかといわれたら『うちの大家族』を外すことはできません。重野なおきの静と動、静が『ひまじん』なら動は『うちの大家族』。内野家せましと個性豊かな姉弟たちが生き生き暮らすその様がすごく楽しく感じられるのは、まさに彼らが千葉のどこかに生きて生活していると思えるほどに存在感をあふれさせているからなのでしょうか。

第三巻の主役は次男の大吾なんじゃないかと思います。大吾というのは、表紙にもでている坊主頭の少年で高校球児。野球に打ち込み、練習に労をいとうことのないストイックな一面も見せる好青年であった彼なのに、いつの間にか末の妹リンの見ているアニメ『魔女っ娘めもりん』にはまってしまって……。重野の漫画においては、男は総じて報われない傾向にあるのですが、それにしても大吾に関してはあんまりだ! とはいって見せていますが、だんだんと深みにはまっていく少年の姿を見る私の視線はきっと他の誰に向けられるものよりもあたたかであるのではないかと思っています。家族(特に長女愛子)から、そして読者からもその将来の向かう先を案じられている大吾ですが、けれどそんな彼が仕合せになってくれると嬉しいなと思っている読者はきっと多いだろうと思うのです。なにを隠そう私もそうした読者のひとりでありまして、ああ大吾が報われる日がきてくれたらなあ、そんなことを思わないではいられないのです。

けど、大吾みたいな人っているよね。隠れおたくといったらいいのか、アニメやら漫画やらにはまってるんだけど、それをどうしてもカムアウトできなくってさ、ひた隠しにして、なんの気もないそぶりをしてみせてって、こうした覚えのある人間はきっと『うちの大家族』の読者にも多いんじゃないだろうかと思って、そして私もそうしたひとりであって、だからそうした人からしたら大吾は他人事じゃない。ただ、歩んできた道が少し違うだけなんだ。うん、少しね。実際のところ、私と彼にはそんなに違うところはないと思う。

そんな報われない大吾でありますが、実際報われないのは本当で、第2巻でさ、私を号泣させた長男音也メインの回なんかでは、音也は格好良かったと思うんですよ。ところが、待望の第3巻、大吾メインの回において、やっぱり彼には花がないんだ。なんかぱっとしなくってさ、格好良さよりも人のよさばかりが表に出ちゃってさ、格好良かったのって結局次女のキリカじゃんかよ(私はキリカのファンだから、これはこれで嬉しい)。でも、こういうぱっとしないところが大吾の愛されるゆえんなのかも知れないなあとも思って、だからいつか大吾に一発奇跡の大逆転が訪れてくれたらよいなあなんて思うのです。本気です。

  • 重野なおき『うちの大家族』第1巻 (アクションコミックス) 東京:双葉社,2004年。
  • 重野なおき『うちの大家族』第2巻 (アクションコミックス) 東京:双葉社,2005年。
  • 重野なおき『うちの大家族』第3巻 (アクションコミックス) 東京:双葉社,2006年。
  • 以下続刊

2006年4月17日月曜日

機動戦士ガンダム

 私は第二期くらいに属するガンダム世代でありまして、再放送の再放送くらいでその洗礼を受けたのです。はじめてみた回は、忘れもしません第36話「恐怖!機動ビグ・ザム」。このことについてはもうなんべん書いたので、今更いうことなんざなにもありゃしないのですが、とにかくガンダムというのは私たちの世代にとってはなかなかに特別なアニメでありました。再放送があれば見て、プラモデルも買って、私の最初のガンプラはリアルタイプ・ザクで(って、これも書いた)、途中ザブングルやらマクロスやらに寄り道するんだけど、けれどなんでかいつもガンダムに帰ってくる。ガンダムというのは、そんな感じの、一周するときっと戻ってくる場所みたいな、そんな特別な感じがするんです。

ガンダムはいったいなにがよかったんでしょうね。子供の頃は間違いなくロボットでした。局地戦に特化されたロボット兵器は、その特化された能力ゆえにわくわくさせて、ジオラマとかが流行っていた時期ですから、模型店の店頭にはかりかりにウェザリングとマーキングの入ったモビルスーツが、背景を背負って本当に格好良くって、私はほぼ素組み派、色を設定どおりに塗って満足という子供でしたが、いつかああいうのが作れるといいなあと思って、ショーウィンドウに張り付いていた。そしていつか作りたいシチュエーション、想像の戦場を脳裏に思い描いていたのですね。

こんな私だから、MSVにははまりましたよ。連邦ではジム・スナイパー・カスタム、ジオンならザク・フリッパーが好みでありました。あと、マインレイヤーとかもわくわくしましたよね。けど、今から考えたら、遠距離砲撃にモビルスーツを使う意味なんてないし、そもそもなんであんな大きな兵器でもって偵察できるだなんて思うんだ? 機雷の敷設だって船舶でやりゃあいいじゃんかって夢のないことをいってしまうのですが、それでも私たちはガンダムが好きなのです。夢のないことをいいあって笑い話にするのは愛ゆえのことなのです。

そして、大きくなっては、ガンダムにドラマ性を見るようになって、以前、KBS京都が年末にガンダムの映画版を一挙放送したことがあったのですが、うちじゅうで食い入るように見て、最後、アムロが落ちるア・バオア・クーから脱出する場面にうちじゅうで感動していた。もうすっかり大人になった姉弟も、もう老いにさしかかろうかという父母も、皆がガンダムの物語に飲み込まれてしまっていた。

ガンダムの物語は骨太で、そりゃあ粗っぽいところもあって、その粗っぽさは主にテレビシリーズ版にこそ顕著であったけれども、でも、それでも人を夢中にさせる力があって、あの年代のアニメは本当に侮れない。真面目にドラマをする。人間臭さを前面に押し立てて、人の死には愕然としておろおろと、ランバ・ラル、リュウ・ホセイ、マチルダ・アジャン、ミハル・ラトキエ、そしてララァ・スン。千々に乱れる心に、最後のアムロの台詞はどーんと効いて、ああやっぱりガンダムは名作だと私なんかは思うのです。

ガンダムのテレビシリーズがついにDVD-BOXになるそうで、きっと私は買えないですが、しかしこれを買うという人は少なからずいるでしょう。ええ、ガンダムは出せば売れるから。けれどそういうガンダムの位置づけを多少かなしむところも私にはあって、心はなんだか裏腹です。

連絡

ごめん、LD-BOX、借りっ放しにしてます。返そう返そうと思っているんですけど、どうも私はいい加減で、本当にごめん。また、連絡します。

2006年4月16日日曜日

さとうきび畑

 今日はなぜか歌を歌いたい気分だったのか、手持ちの楽譜を次々、それこそ棚卸しするみたいにしてひとつひとつ歌っていって、そうしたら『さとうきび畑』の楽譜があるのを発見、歌ってみてそしてこの歌のあまりに歌いづらいことに気付いたのでした。技術的に困難というんじゃないのです。楽譜の一番あたまに記された発想の表示は、淡々と、感情をおさえて。ええ、これは本当に必要なことであると思います。表現の上でもそうであれば、それ以前の歌う姿勢として私には大切な心構えで、というのも、だって、私は油断をするとうっとつまってしまって、感極まってしまうのですね。つとめて感情を抑えていないと、歌うどころではなくなってしまうんです。

『さとうきび畑』は今更説明するまでもないほどに有名な歌で、シンプルなメロディ、やさしい言葉で淡々と紡がれる歌詞。印象的なざわわざわわの繰り返しは目の前にあたかも青々と息づくさとうきび畑が広がるようで、そして夏の強く明るい太陽のもと、一連のエピソードが語られていく。その様は、まるで時間がとまったかと感じるほどに鮮烈な印象に彩られていて、絵画的状況のなか、私たちはその印象を自分の中に刻んでいくかのようです。

私がこの歌にこれほど強く心を揺さぶられる理由は、私自身わかりません。沖縄戦どころか、あの戦争についてさえなにも知っていない私が、この歌に感情をつのらせる。いったい私はこの歌のなにに共鳴しているというのでしょう。おそらく、この歌の中心に、核のようにしてある実感の強さに共鳴しているのであろうと思います。声高に叫ぶようなそぶりも見せず、ただ思いのまま、静かに言葉にすべてを移して、しかしその穏やかな凪のような言葉、メロディに、さとうきび畑を揺らす風が吹いているのです。その風が私のいる今のこの時にも届くようで、そして沖縄の強い光が照りつけてくるようで、ここで私は油断をしてはならない。

心を強く保っていないと、きっと歌うどころではなくなってしまうからです。

参考