2008年10月21日火曜日

日本語の磨きかた

 言葉というのはつくづく難しい。文章といったほうがより正しいのかも知れませんけれど、こうして毎日毎日、なんのかんのと書いていると、だんだんになにをどう書いたものかわからなくなってくるのです。思ってることがあって、それを言葉にしたい。その思っていることに一番近い表現を探すのですが、なかなかしっくりくるものが見つからない。そんな時には、インターネットをむやみにさまよってみたり、ぼさっとしてみたり。これを指して迷走というのだと思うのですが、しかし自分はなんで、こんな誰が求めているわけでもない文章を書くのに、こんなに時間や労力を傾けているのだろう。空しくなったり、嫌になったり、でもまあそれでもなんとかやっつけてきました。

なんだか、変に深刻そうな書き出しですが、別になにか高尚なことをいいたいわけではありません。単純に、文章書く時には迷うことが多い、それだけの話でありまして、例えば漢字で書く/かなで書くというレベルに始まり、アラビア数字にする/漢数字にする、どこに句読点を打つ、慣用句やらもろもろをどう使う、 — 迷ってばっかりだという話なのです。

例えば昨日の文章で、的を得るという表現を使って、もちろんこれは的を射るが正しい、それは知っているのですが、それをあえて得ると書きたかった。自分の語感ではイルではなくエルの方がしっくりくる、それが理由なのですが、一日考えた揚げ句、射るになおしました。たとえ違和感があるとしても、また一概に誤用とはいえないという人があるとしても、それでも言葉には規範となるものがあるわけです。将来こそはどうなるかわからないとしても、現在では的を射るが正しいとされるというのなら、それを受けるべきだろう。迷ったんですけどね、結局は規範に従うことにしました。

規範、それは一度ないがしろにしてしまうと、際限なく逸脱しかねないものです。以前、もう十年以上も前のことですが、枚挙にいとまがない枚挙がないと覚えていたことを思い出します。なにかで使おうと思ったのでしょうね、辞書で調べてみたら、自分の覚えが間違っているとわかって、さすがに認識をあらためました。しばらくの間、枚挙にいとまがないには違和感がいっぱいでありましたが、しかし自分が違和感を感じるからといって、誤りを正さないというのは間違いです。だから私は規範に従いました。今回の的を射るに関しては、一日考えて枚挙と同じ結論にいたった。結論を出すのに一日という時間がかかったのは、こだわりのためであったように思います。

なかでも私が嫌いなのは、「何とかにこだわる」という文章です。これを見ただけで、私は、書いた人の頭の中まで疑ってしまいます。

『日本語の磨きかた』という本に林望が書いていたことです。こだわるという言葉は、今では肯定的に使われることが多いけれど、それでもこれは否定的な言葉だと、林望はいいます。私も同感です。私も昔は、これを肯定的に使ったことがありましたが、しかしいろいろ知るうちに、肯定的にこだわることはなくなりました。だから、私がこだわりを使っていたら、それはほぼ例外なく否定的な意味で使っていると捉えていただいてかまいません。つまらないことに拘泥している、意固地になっている、そうした含みを持った言葉として使っているということです。

林望は『日本語の磨きかた』で、言葉を使う際には自覚的でありなさいというようなことをいっていて、それは実際そのとおりだなとうなずきながら読んだことを思い出します。この本の出版されたのは2000年ですから、もう十年近く前になりますね。その頃の私は、どうも言葉に興味が向いていたらしく、林望に限らず、金田一春彦やら大野晋やらいろいろ読んで、それは結局は迷っていたからだと思うのです。なんらかの指針となるものを欲していて、それがこうした本に向かったのでしょう。

正直なところ、これらの本を絶対視することはできません。私にとっては著者の違和感を理解できないことがあり、また著者が受け入れることに違和感を感じたりもする。しかし、そうした読まれ方は著者も織り込み済みでしょう。絶対的な基準を提示するものではない、あくまでも著者自らの感じるところ、思うところ、考えをつづったものである、そうした前提で読めば、ああこの人はこういう風に言葉に向かっていらっしゃるのかと思えてきて、それはやっぱり参考になるのですね。共感するところもあれば、学ぶところもありました。こうした本を読んで、もちろん他の本も読んできて、いいとこどりをした結果が今の私の文章であるのかも知れません。

引用

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