先日『宇宙の戦士』を読んだのをきっかけに新兵訓練所 — ブートキャンプものを見たくなったものですから、『フルメタル・ジャケット』をば引っ張り出すことにしました。『フルメタル・ジャケット』はずいぶん前の映画で、1987年、二十年前ですね。すでに評価も固まっていて、またハートマン先任軍曹にいたっては映画という枠を超えて人気を博するにいたり(こんなサイトまである。音が出るので要注意)、なので映画は見たことないけど彼なら知っているという人もいるのではないかと思います。実は私も少し前まではそうだったのでした。けれど、あまりにFMJ、とりわけハートマン軍曹を用いたパロディが多いものだから、ここは原典にあたっておかないといけないな、と思ったらDVDが絶版していた……。なんてこった、Blu-Rayじゃないとだめですか? 仕方がないから中古で買いましたよ。
しかし、これほど見ていていたたまれない気分になれる映画というのも珍しいと思います。映画冒頭からはじまる訓練シーンは過酷というかめちゃくちゃというか、それこそ再教育ってやつだな、あるいは洗脳と言い換えてもいいかと思います。これまでに築き上げられた様々なもの、人格含めを、罵詈雑言と強烈なしごきでもっていったん更地に戻したうえで、新たな価値観、人格を築き上げていくプロセスであるといったらよいのではないかと思いますが、いやね、実際こういうスタイルの教育って強烈な効果を生むのは確かなんですよ。やらないとやられるからとにかくやる。覚えないとやられるから、とにかく覚える。善悪の判断もへったくれもなく、恐怖に後押しされるかたちでいわれるまま進む。鉄の規律が人間性をすりつぶして、自信もなにもかも揺らいだところに注入される新しいプライドが、国家ひいては軍への強力な帰属心を生みだして、いわば国家と一体化した国家のために死ねる兵を生み出すのです。
わかってはいるんだけど、そのプロセスをこうして見せられるとたまらんものがあるなあ。正直、ベトナム戦争当時のアメリカは徴兵制をとっていたわけだけれど、明らかにこうした訓練に適応しない人間がキャンプには混ざっていて、彼へのしごきはしごきというよりもむしろいじめであり、人間性の否定もここに極まって、そして連帯責任というシステムによりふつふつと煮えたぎる憎しみも見ていられませんでした。ただでさえ高ストレスの環境です。そこに弱い個体があるということははけ口となる可能性があるということで、さらに連帯責任システムはその可能性を飛躍的に高めるわけで、いたたまれませんでした。身体的に決して頑健とはいえない私ですからね、チームの足を引っ張り、メンバーの恨みを買うことは必定でしょう。実際、似たようなシステムで運用された体育という授業、嫌いで仕方なかったですね。個人プレイでやらして欲しい。それがかなわない場においては、私などはそれこそつまはじきで、だからレナードの立場はわかります。彼がいなければ次は私の番なのです。あるいは、あの場に私がいれば、彼がああした目に遭うことはなかった。順番なんですね。だからいたたまれない。自分の身の安全のために、誰かが犠牲になることを思うということは、自分自身からしてもいやらしく、身の毛もよだつことに違いありませんから。
前半において、つまり訓練所のシーンにおいては、ジョーカーとレナードがキーパーソンなのでしょう。理不尽な場において、徐々に精神を荒廃させていく若者たちの中で、ジョーカーはぎりぎりまで踏みとどまろうとしていたのですね。レナードを支え、なんとか引き上げる、そうした役割を担わされていたこともあったのかも知れませんが、彼の精神のバランスは誰よりも高い位置で保たれていて、いわばひとつの良心として彼を見たいと思っていたのでした。しかしそれが決壊させられるシーン、葛藤の末にふり降ろされる打撃、二度三度と打ち下ろされる様に、彼にのしかかっていた重圧とそれに耐えようとしていた精神の張りが解けたことを理解させられて、これをやむないことと見るかどうか。ええ、やむないことであったのでしょう。
戦争に限らず理不尽な現場においては、最後まで守っておきたいと思う、そういう人間性まで荒廃し、なし崩しに崩壊させられるのだろうなと、そういうことをつくづく感じさせてくれる映画でありました。後半、ベトナムでの市街戦を描いては、理不尽は極まり、反戦に傾く世論に対しプロパガンダを徹底させる報道部。兵士たちは戦争という異常に適応を見せるかのような発言をして、彼らが戦場を失ったあとを心配しなければならないのではないかと思うほどであるのですが、しかしこと戦闘となるとよく働きます。トラップや敵の弾に当たって死んでいく兵士たちは、なんというか、たまたまそこに立っていたのが運が悪かったというような塩梅で、あっさりと、まるでそれが自然であったかのように倒れて、傷ついた兵があれば駆けつけて救命措置をほどこすのだけれど、それでもまあ大抵は死ぬ。やりきれない。しかし狙撃兵を相手にすればその印象はがらりと変わって、明確に狙いをつけて殺しにきているという意思がより明白で、それはもう運のいい悪いではない、たまたま発射された弾が当たったんではなく、彼が狙われているのですから。それまで私の意識してこなかった残忍さがはっきりと見て取れて、これまで私の運の善し悪しのように思っていたものは、すべてこうした殺意というものを裏に持っていたんです。それを兵士たちは意識しているはずで、そんな場所に命をさらして、仲間を奪っていく敵を心から憎むという、そういう毎日に精神を疲弊させていくんでしょう。たまらん世界であります。
そして、狙撃兵を巡るやり取り、その果てに、もう一度ジョーカーの葛藤が描かれるのですが、それはやはり、本当だったら、こんな戦争という異常事態下でなかったならばやりたくなかったこと、やらなかっただろうことなのだろうと推察されて、けれどそれでもやはり最後には彼は決断してしまう。そこに人間ひとりの感傷なんぞまったくなんの意味も持たない戦場の理不尽が浮かび上がって、センチメンタルなんぞに心を振り向ける余地を持たされていない兵士という稼業とその意味が明らかになるのであろうかと思います。
しかし、彼ら戦場の人格者を見て、あるいは戦場までいかずとも訓練所における彼らを見て、それがなんら彼らの人格を高めるものでなどあるものか、などと考える私です。『宇宙の戦士』においてハインラインが軍経験者のみに市民権の与えられる世界を描きましたが、その異常性はいうまでもないものであろうかと思います。軍は、少なくともこうした映像や文章に描かれる軍においては、個の多様性など求められておらず、そこに必要であるのは軍の規律によく順応する、調教の行き届いた兵でしかないのです。そうした国民が欲しい人は、今この国にも徴兵をなんていうのかも知れません。けれど私には、多様性こそが豊かであると信じたい私には、そうしたひとつの価値観のもとに再教育する過程を持つ国は、たまったものではありません。入りたい人は入ればいい(そう、実は私は陸自の説明を受けにいっている、進学してなかったら入っていたかも知れない)。しかしそれを避けたい人を無理に入れるというのは、ただやみくもにレナードの不幸を増やすだけに思われて、私には到底受け入れられる提案ではありません。
2 件のコメント:
ある意味とてもショッキングな映画ですよね、それだけにアメリカにとってもベトナム戦争と言うのはすごく特別な事だったのだなと思います。
でもなぜかしばらく経つと見て見たくなるのですよね。
あのラストシーンが何とも言えません、やけにリアルな映像で持って静かに迫ってくる感じ、悲しみ、苦しみ、怒り、歓び。全てが交じり合ってるような感じがします。
ええ、たいそうショッキングな話だったと思います。この映画は軍曹のキャラクターの強烈さが特に知られていますが、けれど映画そのものは抑圧され喪失させられる人間性の悲劇というものを表しているようで、実際そうした人間性のかけらみたいなものがかえりみられなくなるような現場というのは、過去といわず今といわず、あちこちにあるんだろうなあと思わされました。
その時、そういう場に自分が立ち会った時に、きっと抗うことはできないだろうという、そういうこと思わされますね。悲しいことです。
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