2008年4月19日土曜日

高速回線は光うさぎの夢を見るか?

この本は大阪梅田は旭屋書店で買いました。まだ縮小される前の漫画フロア、隅の方にやたらマニアックな漫画を集めたコーナーがあって、そこで吸い寄せられるように手に取って、内容も作者もその評判さえもわからないままに買った一冊でありました。作者は華倫変。いまだにどういう人かはわかっていませんが、亡くなられたらしいということだけは知っています。この本を買おうと決めたのは、帯の高橋源一郎のコメントのためであったのですが、正直このコメントがいったいなにをいいたいか私にはよくわからなくて、それじゃ内容はというと、さらに輪をかけてわからないという、ものすごい漫画です。筋やなにかがおそろしく稀薄なものがあって、作者もいうように実験色の強いものもあって、読んでいて大変きつい。けれどなぜか引きつけるものがあって、多分それは、生のまま押し出されてきている感情であるや実感であるが、不快ながらも私のどこかに触れるからなのかと思います。

私がこれを引っ張りだしてきたのは、実は昨日書いた『でゅあるてぃーちゃー』がこの本に収録された短編を思い出させたからです。「あぜ道」、「下校中」、「木々」の三部連作ですね。端的にいって多重人格ものです。しかし『でゅあるてぃーちゃー』に見られるような、楽しげであったりコミカルであったりとした色は皆無で、正直なところ読んでいてつらくなってくるような話であるのです。つらい中に、悲しさ、切なさが混じって、なんだか泣きたくなる。そんな話で、私はこれを読んだから、いくらこの本の他の短編が意味わからなくっても、受け入れようと努力するのだと、そのように思える作品でした。

『でゅあるてぃーちゃー』がこの話を思い起こさせたのは、まさしく最終回に向かう流れがためでありました。記憶を共有しない二人の人格、そのどちらかが誰かを好きになってしまうということ。そして両者はもう一方の諒解を得ることなく自由に振る舞えるということ。こうしたことが前提としてあり、そしてひとつの人格が消えて、主たるものに統合されようという兆しが見えた時、ああこれは華倫変のあの話だと思ったのですね。そう、華倫変の多重人格ものも上記のポイントを押さえていて、そしてそれはより救いのないものでありました。

岡山美奈の持つ三人の人格。さばさばとした芳子、気弱な玉江、そして淫蕩なミレマ。この三者のうち、芳子そして玉江は他人格を思いやる余裕を持つけれど、ミレマはそうした機微を持たず、他の二人を傷つけてばかりいるということはどうにもたまらなかったし、傷つけられる側である芳子の求めているもの、それが本当にささやかな仕合せに過ぎないことが伝わってくるものだから、なおさら読んでいる私の気持ちを苦しめて、残酷な話だと思って、けれど本当に多重人格ものを扱うのなら、こうした側面は避けて通れないのでしょう。

ですが、この話は多重人格者、それも破滅的な人格を抱えてしまった人間の不幸を描く話ではなかったと思います。描写こそはそうした悲劇的側面に強く光を当てるけれど、しかし物語は芳子を軸に、彼女らの求める普通の日常への憧れめいたものをつづります。そして平穏に向かおうとするラスト、その平穏というものが、彼女ではない別の人格にとっての平穏であること、さらには芳子がその平穏の中に自分はいないのだという事実を理解しているということが語られるにいたっては、悲しさは極まります。芳子の最後に告げた思いは、そのうちに二重の意味で果たされず終わることを理解しているとありありと知らせて、切ない。私たち人の身は器に過ぎないということ。身体の向こうにあると誰もが思っている心、それはいったいなんなのだろう。そうしたことがわからなくなってしまう話でした。その儚く、とらえどころのないもの。しかしそのかたちのないものこそが真実であるなら、消えていく彼女らはいったいなんであったのか。その意味は、彼女らのいたという意味は。岡山美奈という身体は死なず、存えるということが、なおその心の意味を問いかけてくるように思えたものです。

そして、私はその答がわかりません。けれどもし残るのが私の気に入っていた芳子であったならば、それは仕合せな結末だったんだろうか。そうではないと思います。だとしたらいったいなにが正しいことなのだろう。その答えは、おそらくは劇中にてすでに芳子が告げていた、私にはそのように思われて、そしてそのことがなおさら人の悲しさを際立たせるように思わせるのです。

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